転生して型月版・沖田総司になったけど、労咳を克服したら明神弥彦の母になっていた件 〜るろ剣世界で最強のママやってます〜   作:だいたい大丈夫

44 / 75
銃、毒、暗殺、営業、軍部への癒着。
もはや道場ですらない何かへ変貌した神谷道場を前に、石動雷十太が何を見て、何を誤解し、何に感動してしまうのか。
だいたいそんな話です。


麻薬と兵器と暗殺の神谷道場

神谷道場の中庭に足を踏み入れた瞬間、吾輩の脳裏に二つの思考が交錯した。

 

一つは、目の前にゆるりと立つ流浪人――緋村抜刀斎が、その間の抜けた風体に反して、底知れぬ剣気を秘めているという事実。

 

そしてもう一つは、足元に鎮座する庭石が、どう見ても一介の町道場に似つかわしくない業物であるという疑問だ。

 

後者は本来、果し合いの場において武芸者が抱くべき感慨ではない。だが、嫌でも目に付く。京都の枯山水から引き抜いてきたような、苔むした威風堂々たる銘石が無造作にごろごろと転がっているのだ。板張りの道場に添えるには、いささか血の匂いならぬ金の匂いが濃すぎる。

 

つまりこの道場は、単なる剣術指南の場などではない。裏で莫大な資金が環流しているのだ。前川道場から門下生をごっそり引き抜き、医療、麻薬、銃器にまで手を伸ばし、挙句の果てに庭石にまで豪金をつぎ込む。全くもって節操がない。だが、節操がないということは、実戦において勝つための手段を選り好みしないという証左でもある。その徹底した合理性は、嫌いではない。

 

「……さて。雷十太殿、うちの道場は竹刀を使うのは門下生の教育のみでござる。……手加減なしといこう。刀を抜かれよ」

 

緋村抜刀斎は逆刃刀をだらりと下げたまま、何とも締まらぬ声色で言い放つ。

 

だが、名乗った刹那に放たれた凄絶な気を、吾輩の眼は決して見逃していない。こやつ、間違いなく本物だ。大根の皮を剥いていた優男の皮が剥がれ、ほんの一瞬だけ、幕末を血で染めた人斬りの相が浮かび上がった。あれは虚仮威しではない。修羅の道を踏み越えた者だけが身に纏う、死の気配だ。

 

吾輩の口角が、自然と吊り上がる。

 

「おお!なんと……実戦的な……!竹刀などという児戯を排し、常に死の淵に身を置くか!素晴らしい、吾輩が求めていたのはこれだ!」

 

「いや、そこをそんなに褒められても困るのでござるが……」

 

「謙遜するな、抜刀斎!その赤髪と頬の十字傷、そして先ほどの気迫、いかにも幕末を生き残った本物の剣客よ!吾輩は今、機嫌がすこぶる良い!」

 

「拙者はあまり良くないでござる」

 

「知るか!」

 

視線を巡らせれば、若い衆が観戦という名目で周囲を取り囲んでいる。だが、観戦と呼ぶにはその目は殺気立ちすぎているし、単なる警備と呼ぶには懐の銃へ手を伸ばす速度が尋常ではない。どちらに転んでも、即座に鉛玉を撃ち込める構えだ。傍らに立つ由太郎の顔から、さーっと血の気が引いていくのが分かる。

 

「先生……本当に、囲まれてませんか?」

 

「囲まれているな」

 

「ですよね!?」

 

「だが問題ない。むしろ、これがよい。いつ死角から銃弾が飛んでくるか分からぬ極限の場においてこそ、真の殺人剣の真価が試されるというものだ」

 

「先生、楽しそうですね……」

 

「楽しい」

 

吾輩はゆっくりと柄へ手を添えた。重く、太く、ただ肉を断つためだけに鍛えられた鋼の響き。竹刀のような軽い音ではない。見世物のための音でもない。命を刈り取るための絶対的な暴力が、今、吾輩の手の中にある。

 

対する抜刀斎は、手にした逆刃刀を静かに眼の高さへと持ち上げた。

 

「拙者はこの『逆刃刀』を使うが……まあ、骨の一本くらいは折れる覚悟で来ているのでござろうな。……いざ」

 

逆刃刀。だが、鉄の塊である以上、立派な凶器だ。肉を斬る気がなくとも、その質量は容易く骨を砕く。そうした偽善めいた甘さは吾輩の最も忌み嫌うところだが、相手が本物の強者であるならば、手段の是非は問うまい。

 

「おおお!ふんっ!!」

 

大地を蹴り上げる。

 

巨体に似合わぬ速度だと、かつて斃した者たちは口を揃えた。

 

だが吾輩から言わせれば、自らの体躯すら自在に運べぬ者に、その重さを武器とする資格はない。地を這うような低い重心からの踏み込み。そして、全霊の膂力を乗せて剛刀を脳門へ振り下ろす。真古流の基本にして至高の一撃。圧倒的な質量と神速を両立させた必殺の剣だ。

 

だが、抜刀斎はそれを最小限の身のこなしでふわりと躱した。

 

「……ふむ」

 

その一歩は、拍子抜けするほどに小さい。しかし、その小ささこそが、こちらの尋常ならざる破壊力を完全に無化しているのだ。

 

紙一重の回避。淀みない読み。あまりにも素直な表情で躱されることへの苛立ちと、剣客としての昂揚感が同時に腹の底から湧き上がる。よい。やはりこやつは、吾輩が全力を出すに足る本物だ。

 

「余裕でかわすか。流石は抜刀斎」

 

「お褒めにあずかり恐悦至極でござる。できればこのまま相互理解が深まり、穏便にお帰りいただければ最高なのでござるが」

 

「剣を交えながら穏便と言うな!」

 

「本音でござる」

 

「もっと武芸者らしくしろ!」

 

再び大地を抉るように踏み込み、刀を翻す。だが、抜刀斎はまたしても躱す。受け流すことすらしない。あくまで衝突を避け、最小の歩幅で死線の外側へと滑り出る。いや、これは単なる退避ではない。誘っているのだ。吾輩に技を尽くさせ、その軌道と癖を観察している。恐ろしいまでに理にかなった戦法。だからこそ、ますます気に食わぬ。

 

「先生!」

 

由太郎の切羽詰まった声が飛ぶ。

 

「押してます!……いえ、押してないかもしれませんが、とにかくやれてます!!」

 

「どっちだ由太郎!!」

 

「感想が追いつきません!!」

 

「よい!正直で好感が持てる!」

 

吾輩は地を蹴りながら豪快に笑い飛ばした。

 

正直なところ、このまま通常の斬り合いを続けたところで、この抜刀斎相手に容易く決め手は見出せまい。だが、それも想定の内。真古流には、常識を覆す奥の手がある。相手が伝説の人斬りならばこそ、この秘剣を抜く価値があるというものだ。

 

「……余裕でかわされている。流石は伝説の抜刀斎。ならば!」

 

吾輩は大きく後ろへ跳び、距離を空ける。

 

剛刀を真っ直ぐに構え直す。腕の筋肉が軋みを上げ、肩と腰が飛飯綱を放つための完璧な姿勢へと移行する。初見の相手であれば、十中八九これで決着がつく。刀身による直接の斬撃ではない。刃の先端から放たれる、不可視の真空の刃。理屈を知らぬ者には、決して防ぐことのできない必殺の業だ。

 

抜刀斎の双眸が、わずかに細められた。

 

おそらく、吾輩の構えの変化から尋常ならざる気配を感じ取ったのだろう。だが、気づいたところで既に遅い。

 

「我が真古流の秘剣、これならどうだ!!」

 

空気が鋭く悲鳴を上げた。刃の周囲の空間が、目に見えぬ力でぴしりと裂ける感覚。飛飯綱。形を持たぬ死の斬撃が、抜刀斎の身体を両断する――そのはずだった。

 

だが、抜刀斎は飛んだ。

 

比喩ではない。人間が後退する速度の限界を完全に無視した、神速の跳躍。直後、パシュッ!!という耳障りな破裂音が中庭に響き渡り、抜刀斎が先ほどまで立っていた背後の巨大な庭石が、音もなく真っ二つに両断されて崩れ落ちた。

 

「…………」

 

吾輩は思わず目を見開いた。

 

躱された。今の一撃を見て、直感でその正体を読み切り、あそこまで下がるか普通?

 

「先生!!庭石が!!」

 

「見れば分かる!!」

 

「すごいです!真っ二つです!」

 

「そこは褒めるところではない!」

 

「でも先生、技はすごいです!!」

 

「知っている!!」

 

そんな吾輩たちのやり取りをよそに、抜刀斎の顔色が目に見えて土気色に変わっていく。

 

「…………あああぁぁぁ」

 

「何だその情けない声は」

 

「今の庭石……観柳殿が京都から取り寄せたウン十万円の銘石でござる……」

 

「知らん!!」

 

「拙者の給料から天引きされるでござるぅぅ!!」

 

「給料制なのか貴様!!」

 

「営業マンでござるからな!!」

 

「ますます訳が分からん!!」

 

剣客同士の真剣勝負の最中に、器物破損の損害賠償に頭を抱える男。伝説の人斬りとはいえ、社会の波に揉まれる苦労人ということか。いや、むしろその現実感が薄ら寒い。幕末を震撼させた化け物ですら、この道場という組織においては、帳簿と給料と上層部の機嫌から逃れることはできぬらしい。

 

吾輩は、ふっと刀の切っ先を下げた。

 

今の一手で十分だ。こちらは奥の手を見せ、あちらはそれを回避しうる圧倒的な速度を証明した。これ以上踏み込めば、技の応酬ではなく、純粋な殺し合いへと発展する。庭石の弁償どころの騒ぎでは済まぬ。周囲の若い衆の目つきが完全に据わり、銃の撃鉄に指がかかっているのもはっきりと見える。ここで意地を張って命を散らすのは、あまりにも無策だ。

 

「……素晴らしい腕前だ」

 

吾輩は、静かに刀を納めた。

 

「これ以上は、道場破りではなく真の『殺し合い』になるだろう。吾輩は貴殿の実力を認めた。今日はここまでにさせて頂きたい」

 

由太郎が、へなへなと座り込みそうになりながら安堵の息を吐く。若い衆の何人かも、銃から手を離し、わずかに肩の力を抜いた。抜刀斎だけは、まだ庭石の残骸を見て顔を引きつらせている。

 

「……挑んだのはそちらでござる。止めはせぬよ」

 

よい男だ。いや、ひどく面白い男だ。

 

吾輩はそのまま踵を返し、立ち去ってもよかった。通常の道場破りであれば、それが定石だ。強敵と刃を交え、互いの実力を測り、次の機会を残して美しく引く。武芸者としての面目も保てる。

 

だが、吾輩の眼前に広がるのは、神谷道場という名の、底の知れない総合軍事要塞だ。

 

剣術だけではない。銃火器、薬物、暗殺術、暴力団の抱え込み、海軍への営業活動、そして異様に高価な銘石。この混沌とした戦力を目の当たりにして、ただ帰るだけでは、剣を極めんとする者としてあまりにも惜しい。

 

「では……もし良ければ、この道場の他の部門とやらも見学させてもらえると嬉しいのだが。吾輩の殺人剣『真古流』の更なる高みへの参考になるかもしれん」

 

「…………」

 

案内役を務めていた若い衆は、自ら好んで地雷原のど真ん中へ歩み入る愚か者を見るような、深い憐憫の目を吾輩に向けた。

 

抜刀斎は深く、ひどく深く一呼吸置いてから答えた。

 

「……歓迎するでござるよ」

 

その絞り出すような声には、「適当にヤバい部分を見せつけて、二度と関わりたくないと思わせてから叩き出そう」という、切実極まりない本音が透けて見えた。読心術など持ち合わせていない吾輩にも、これから案内される先が常人の立ち入るべき安全地帯ではないことだけは、肌の粟立ちで理解できた。

 

だが、それこそ望むところだ。

 

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

最初に通されたのは、道場裏に広がる別棟の土の広場だった。

 

そこでは、刀と呼ぶにはあまりにも無骨で巨大な得物を振り回す男たちが、野獣のような唸り声を上げていた。片や身の丈を超える巨大な斬馬刀。片や大鎌。どちらも一対一の果し合いで用いる武器ではない。戦場の一角を力任せに蹂躙するための、暴力の権化だ。

 

「鎌の間合いは特殊だ!だが、刃の軌道を見極めろ!惑わされるな!!相手の首に引っかけろ!!」

 

怒号を飛ばしている男は、水野という名らしい。その指示には無駄な装飾が一切ない。武術の指導というよりも、戦場の最前線における指揮官の命令そのものだ。

 

その隣では、斬馬刀を軽々と片手で持ち上げる男が、大地を粉砕する勢いで刃を叩きつけている。相楽左之助。先ほど縁側で頓珍漢なやり取りをしていた男と同一人物とは思えぬ、修羅の顔つきだ。

 

「良いか!斬馬刀は槍と違って『刃』が長い!突くだけじゃねえ、その重さで相手を叩き潰しながら斬るんだ!馬ごとぶった斬る勢いでいけ!!相手の装甲ごと粉砕しろ!!」

 

案内役の若い衆が、どこか誇らしげに胸を張る。

 

「こちらは長物・重武器部門です。主に敵の騎兵部隊や、装甲馬車を強襲する際の戦術を研究しております」

 

「…………」

 

吾輩は思わず言葉を失った。

 

対騎兵。対集団装甲。

 

町道場の一角で繰り広げる訓練内容を逸脱している。しかも、それを指導している男たちの筋力が、人間の限界を軽く超えている。斬馬刀の男は、文字通り鉄の塊を腕一本で独楽のように振り回しているのだ。あれを食らえば、肉が斬れる前に内臓が破裂し、骨が粉塵と化すだろう。

 

「……凄まじい筋力と破壊力だ。もはや個人の武術の範疇をとうに超えている。対騎兵・対集団を想定した軍事的訓練……実に実戦本位よ。ここだけでも一小隊を軽く壊滅させられそうだ」

 

「せ、先生……あの斬馬刀の兄ちゃん、人間離れしてますよ……!」

 

「うむ」

 

吾輩は重々しく頷いた。

 

「少なくとも、普通の道場の師範代が有する筋力ではない。化物だ」

 

若い衆の一人が、自身の技量に見合わぬ重い鎌を御しきれずに無様に転倒する。すると水野が容赦なくその脇腹を蹴り飛ばした。

 

「足が死んでるぞ!!それで馬の脚を引っかけられると思うな!!もう一回だ!!」

 

「振り下ろした後に止まるな!重さに引っ張られたまま前へ出ろ!死ぬ気で次の敵を巻き込め!!」

 

由太郎が、恐怖のあまり吾輩の袖をぎゅっと力強く掴む。

 

「先生……真古流って、あんなに馬をぶっ飛ばす前提の訓練ありましたっけ……」

 

「ない」

 

「ですよね!?」

 

「だが、必要とあらば即座に取り込むべきだ」

 

「先生、また変な方向に感心してる……」

 

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

次に案内されたのは、白昼だというのにやけに薄暗く、じめじめとした一角だった。鬱蒼と茂る木々が陽光を遮り、風が通り抜けるたびに葉擦れの音が不気味に響く。そこだけ、外界から切り離されたように空気が冷たい。銃声も怒号もなく、ただただ静寂が支配している。だが、その静けさが逆に、見えざる刃を首筋に突きつけられているような不穏さを醸し出していた。

 

「ここは暗殺者・隠密部門になります」

 

案内役がそう口にした瞬間、頭上から氷のように冷たい声が降り注いだ。

 

「隠密の基本は音を殺すこと。そして気配を完全に消すことだ」

 

吾輩は反射的に上空を睨みつけた。いつの間にか、頭上の太い枝から一人の男が音もなく舞い降りてきている。両の手に小太刀を逆手に構え、枯れ葉一枚踏み砕く音すら立てずに着地する。

 

「人は耳で気配を察知し、達人は『気』を読む。……ならば、まずは存在そのものを無に帰せ。そして、無の境界から斬れ。対象が気づく前に事象を飽和させろ」

 

「事象を飽和とは何だ!」

 

由太郎がパニック寸前の小声で訴えかけてくる。

 

吾輩にも、その衒学的な言い回しの正確な意味は分からぬ。だが、本質は伝わる。標的が己の死を自覚した時には、既に首が飛んでいる状態を作れ、ということだ。

 

傍らの茂みから、不気味な縞模様の面を被った男――般若が、地を這うような声で付け加える。

 

「……見込みの良い者は、我ら御庭番衆の密偵に特別に取り立ててやると約束しよう。標的の寝首を掻き切るのは、正面からの剣術よりも遥かに確実で、効率的だ」

 

「…………」

 

吾輩の背筋を、本物の悪寒が駆け抜けた。

 

剣術道場に、忍びの暗殺術まで組み込んでいるというのか。

 

正面から堂々と立ち合い、敵を討ち果たす。それは武芸者としてこの上なく美しい姿だ。だが、美しいからといって、必ずしも生き残れるとは限らぬ。この道場は、暗闇からの抹殺すらも、勝ち残るための「当然の技術」として門下生に叩き込んでいる。その狂気じみた徹底ぶりは、武士の誇りすらも踏みにじり、ただ確実な『敵の死』のみを絶対の目的としている。

 

「……なんと、忍びの術まで……。正面からの果たし合いだけが剣術ではないということか。影からの抹殺すらも基本のカリキュラムに組み込むとは、恐るべき徹底ぶりだ」

 

案内役の若い衆は、日常の業務を説明するような平坦な顔つきだ。

 

「要人の暗殺や、敵対組織の情報収集を担当しております」

 

「担当という言い方をするな!!」

 

「会社の一部署みたいに言わないでください!!」

 

「部署ですよ」

 

案内役は、どこ吹く風とばかりに頷く。

 

「営業、銃撃、剣術、暗殺、医療でだいたい五本柱です」

 

「五本柱の内容が根本的におかしいんだよ!!」

 

吾輩はふと、ここまで来て初めて一つの恐るべき事実に思い至った。

 

この神谷道場、各部門が妙に対等なのだ。剣術が主であり、他は従である、といった武術道場としての体面が存在しない。剣も、銃も、薬も、暗殺も、すべてが等しく「勝つための有効な手段」として横並びに置かれている。武芸の道を志す者としては嫌悪感を抱くべき無節操さかもしれぬが、純粋な闘争、戦争の理屈としては、これ以上ないほどに正しい。正しいからこそ、底知れず恐ろしい。

 

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

さらに奥へと進むと、泥濘にまみれた広場が現れた。そこで絶え間なく響いているのは、鈍く重い、肉と肉が激突する破砕音だ。鉄のぶつかり合いでも、木の乾いた音でもない。拳と肘、膝の関節、そして時折混じる悲鳴の合唱である。

 

上半身裸の筋骨隆々たる大男が、泥まみれの顔で天に向かって吼えている。

 

「おらあ!!!刀も槍もへし折れたら、最後に頼りになるのは己の肉体だけだあ!!!筋肉だ!筋肉こそが絶対に裏切らない最強の防具なんだよ!!!相手の目玉を指で抉り出せ!!」

 

「あの猛り狂っている男は式尉と申します」

 

案内役が小声で解説を挟む。

 

「筋肉至上主義部門の実質的なトップですね」

 

「部門名が最悪だぞ」

 

だが、真の恐怖は筋肉男の横で繰り広げられていた。

 

見目麗しい上等な着物を泥で汚すことすら厭わず、一人の女が門下生の胸ぐらを鷲掴みにし、地面を這いずり回させている。顔立ちは非の打ち所がない。だが、その瞳に宿る光が狂気そのものだ。それは猛獣の目だ。

 

その薄紅の唇から紡がれる言葉も、容姿に反してあまりにも凄惨だ。

 

「最後には鼻を削ぎ落としてでも、喉笛に噛み付いてでも敵を仕留める!それが新選組の、壬生の狼のやり方よ!!!行儀のいいお上品な剣術なんて今すぐドブに捨てちまいな!!!股間を蹴り上げて、泥水すすらせなさい!!」

 

「ひぃぃっ!?あ、あの綺麗な女の人、言ってることとやってることが極道そのものですよ!!物語のヒロインがやる挙動じゃない!!」

 

「ヒロインという都合の良い概念をまだ捨てきれていないのか由太郎」

 

「だって先生、普通こういうポジションの女の人って、もうちょっとこう……お淑やかで……」

 

「この魔境に綺麗事を求めるか?」

 

「はい!」

 

「神谷道場にそれを期待するのは、死を望むのと同義だ」

 

案内役が、渋い顔を作って補足する。

 

「ここは……当初は柔術や基本的な組み討ちを教える予定だったのですが……現在、特殊格闘部門と化しております」

 

「特殊格闘?」

 

「ええ。正式名称は『絶対殺すマン養成課』です」

 

「課って言うな!!役所かここは!!」

 

吾輩は、己の足が微かに震えているのを自覚した。

 

剣が折れ、槍を失い、間合いが完全に潰れた絶望の淵で何をすべきか。そこへ正面から向き合い、あろうことか「目玉を抉る」「鼻を削ぐ」「股間を蹴り上げる」といった、武芸の矜持から最も遠い泥臭い殺し合いの極意まで嬉々として教え込んでいる。ここは、美しい勝負など最初から微塵も前提にしていない。最後に泥水をすすってでも立っている者が勝者。その一事のみに狂信的なまでに特化している。

 

「……新選組とか名乗っているぞ、あの女」

 

「あの尋常ならざる闘争心とドス黒い殺意、あれこそが真の死線の潜り方というものか。……震えるな、由太郎」

 

「先生こそ声がガクガク震えてますよ!?」

 

「武者震いだ」

 

「ほんとですか!?」

 

「たぶん、おそらくそうだ」

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

 

最後に案内されたのは、道場の地下にひっそりと作られた白亜の工房だった。地下室であるにも関わらず、そこだけ異常なほどに照明が明るい。青臭い薬草の匂いと、鼻腔を鋭く刺すような刺激的な化学薬品の悪臭が混ざり合い、息苦しさすら覚える。白い机。白い戸棚。白い壁。だが、その無機質な空間の中央に立つ女医の白衣だけが、ところどころ不吉な赤黒い染みで汚れている。たぶん血だ。できればトマトの汁であってほしいと願うが、この道場の性質上、十中八九血だろう。

 

「……この薬には、非常に強い『筋弛緩作用』があるわ」

 

試験管を優雅に揺らす。中の液体が、どろりと妖しく波打つ。どう見ても人体に取り入れてはいけない、禍々しい紫色だ。

 

「経口摂取だけでなく、霧状にして経皮摂取させても十分な効果があるの。こうやって煙幕として広範囲に散布すれば、相手の抵抗する力を効率的に奪ってから……ゆっくりと『治療』ができるわ」

 

「今、言葉は治療でしたけど、顔が完全に『無力化と拉致』って言ってましたよね!?」

 

由太郎が涙目で後ずさる。

 

「そしてこっちが、新しく調合を改良した麻酔薬。痛みが完全に遮断されるから、戦場での即席の外科手術にも使えるし、あるいは……恐怖と痛覚を麻痺させて、肉体が完全に壊れて死ぬまで戦い続けさせる『興奮剤』にもなるわね。前川道場の連中には、これを少し薄めて使ってやったのよ」

 

吾輩の背筋に、先ほどまでの武者震いとは明確に異なる、死の冷酷な寒気が走った。

 

「…………今、前川道場と言ったな」

 

「ええ」

 

恵はにっこりと、花が綻ぶような極上の笑みを浮かべる。

 

「みんな最初は洗脳を嫌がってイライラしてたんだけど、お薬の後はすごく素直になってくれて。私、患者さんが素直な方が、とっても扱いやすくて好きなのよね」

 

「先生」

 

「帰りましょう。今すぐ」

 

「……まだだ」

 

「今の時点で、もう十分致死量のヤバさです!!」

 

「分かっている」

 

分かっているとも。

 

この道場、剣術という枠組みをとうに逸脱し、重火器、暗殺、泥仕合、挙句の果てに禁断の毒薬や精神工作までをも完璧に網羅している。吾輩が至高と信じて疑わなかった『真古流』など、彼らからすればまだルールに守られた甘っちょろい遊戯に過ぎなかったのかもしれぬ――そんな絶望的な思考が、初めて吾輩の強固な自尊心を揺るがした。

 

吾輩は、殺人剣こそが真の剣術であると高らかに掲げてきた。だが、ここでは殺人が、剣術の理念などという高尚なものではなく、日常の業務の選択肢の一つとして、あまりにもカジュアルに組み込まれているのだ。

 

そこが根本的に違う。吾輩はまだ、殺人剣を「流派」という美しい言葉で飾っていた。だが、こいつらは違う。必要とあれば剣も銃も毒も、老若男女の区別なく全員まとめて使い潰す。勝つために、利用できるあらゆるリソースを貪欲に注ぎ込む。美学などない。そこにあるのは、圧倒的な結果への執着だけだ。

 

それは、武芸者としては最悪の堕落だ。

 

だが、闘争者としては、あまりにも純粋で強い。

 

「……由太郎、行くぞ。これ以上の長居は無用だ」

 

吾輩は踵を返そうとした。

 

フラスコ越しに、値踏みするようなねっとりとした視線をこちらへ向ける。その目つきが嫌だ。人間を見る目ではない。解剖台に縛り付けた、少し大きめの珍しい白鼠でも観察するような目だ。

 

「そこの図体の大きな旦那さん。新しいお薬の実験台として、とっても興味深い強靭な体格をしてるわね。私の特製のお薬、一口飲んでみない?目じゃないくらい、遠くまで飛べるわよ?」

 

「飛びたくない!!」

 

「先生もきっぱり断ってください!!」

 

「当然だ!」

 

吾輩は大きく後ずさった。これは己のプライドを捨ててでも認めよう。今のは明らかに命の危機だった。

あの女、もしこちらが少しでも隙を見せて頷けば、無理矢理にでも喉笛に流し込む。しかも、七転八倒する副作用をメモを取りながら楽しげに観察するに決まっている。

 

「どうでした?ウチ、すごいでしょ」

 

「すごい、などという陳腐な言葉では済まぬ」

 

吾輩は、冷や汗を拭いながら本音で答えた。

 

「これは……神谷道場、これほどまでとは。剣術のみならず、重火器、暗殺、泥仕合、挙句の果てに毒薬や精神工作までをも完璧に網羅した『近代的総合軍事基地』ではないか……」

 

「おお」

 

若い衆が、なぜか目を輝かせて感心している。

 

「言い方が一番かっけえ。今度から名刺に入れようかな」

 

「褒めるな!!」

 

遠くの広場から、左之助の怒号が飛んでくる。

 

「そんなヤバいところ一つも誇るんじゃねえ!!」

 

「……吾輩の『真古流』など、彼らから見ればまだ甘っちょろいお遊戯だったのかもしれん……」

 

「先生!そんなことないです!真古流は天下無双の立派な殺人剣です!」

 

「いや、由太郎」

 

吾輩は、ゆっくりと首を横に振った。

 

「真古流は、あくまで『剣』の域を出ていない。だがここは違う。剣を核としながらも、勝利のためならば剣を捨てることに一切の躊躇がない。必要なら銃火器を乱射し、劇薬を盛り、闇討ちを仕掛け、泥水啜りながらでも相手の命を刈り取る。それはもはや一流派の次元ではない。戦争そのものだ」

 

「せ、先生……」

 

「見学した価値は、十二分にあった。吾輩は今日、己の信ずる殺人剣が、まだ『流派』という狭い枠の中に収まっていることを痛感した。ここまで日常的に殺戮をシステムとして運用する狂人どもを前にしては、吾輩の理屈もまだ青臭い」

 

「先生……まさか、ここから学んで改心を……?」

 

「せぬ」

 

「ですよね」




神谷道場、ついに「道場破り相手にすら正しく認識されない領域」まで来ました。
今回は雷十太にとっては理想の魔境、でも実態はいつも通りの神谷道場、というズレを全力で楽しみながら書いています。
読後に「ここが特に好き」「この勘違いはひどい」「続きが見たい」と思っていただけたら、ぜひ一言でも感想をいただけると嬉しいです。

神谷道場はどちらにつく?

  • 志々雄一派
  • 明治政府
  • 第三勢力
  • 独自路線
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。