転生して型月版・沖田総司になったけど、労咳を克服したら明神弥彦の母になっていた件 〜るろ剣世界で最強のママやってます〜   作:だいたい大丈夫

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真の殺人剣を掲げる石動雷十太。
彼が神谷道場に見たのは、剣を超えた何かだった。
だがそれは、憧れるべき強さなのか。
それとも、二度と関わってはいけない種類の狂気なのか。


石動雷十太、神谷道場から生還を最優先事項にする

神谷道場の中庭に立ち尽くし、吾輩は己の語彙が完全に枯渇していくのを感じていた。

 

ここまで重武装と不法行為が充満していれば、町道場の看板を掲げること自体が立派な詐欺行為に他ならない。

それにもかかわらず、殺伐とした中庭の奥から姿を現したのは、拍子抜けするほど平凡な少女だった。

 

竹刀を小脇に抱え、きょとんと小首を傾げるその姿。

艶やかに整えられた黒髪に、敵意の欠片も窺えない柔和な眼差し。

少なくとも視覚から得られる情報において、彼女の装いは銃器や違法薬物、果ては死体由来の肥料といった悍ましい単語とは対極にある、うら若き娘そのものであった。

 

「あら?お客さんが来ていると聞いてきたんだけど……。剣心、お茶の用意は?」

 

「……由太郎、見たか」

 

「は、はい」

 

「この娘が噂の総師範なのか?吾輩が剣を交える相手としては、いささか……いや、どう見ても年相応の小娘にしか見えんのだが」

 

己の率直な感想が空気を震わせた刹那、案内役を務めていた若い衆の顔面から一瞬にして血の気が引くのを吾輩は見逃さなかった。

 

背後から荒々しい手が吾輩の口を容赦なく塞ぐ。

同時に膝裏へ鋭い蹴りが叩き込まれ、無様な姿勢で石畳へ土下座を強いられた。

 

「な、な……頭が高い!!控えおろう!!このお方こそ、我が神谷要塞を統べる総師範にして、東日本麻薬シンジケートの絶対的頂点!!神谷薫様であらせられるぞ!!」

 

「むぐぐっ!?」

 

神谷要塞。

東日本麻薬シンジケート。

 

一介の剣術道場に冠するにはあまりにも血生臭すぎる二つ名が、若い衆の口から流れるように飛び出してくる。

 

しかも、男の顔に冗談の余地は一切ない。

恐怖に引きつった真顔が、この異常な肩書きがここにおける絶対の真実であることを無言で証明していた。

 

「万が一にもご機嫌を損ねるような失礼があれば、貴様の一族郎党すべて阿片の海に沈められた挙句、生きたまま解体されて骨の髄まで裏社会で山分けにされるんだぞ!!さっさと慈悲を乞え!!」

 

「骨まで山分けとはどういう意味だ!?一体何をどう分配するというのだ!!」

 

拘束から口を解放されるや否や、堪えきれずに怒声を上げる吾輩。

対する薫と呼ばれた少女は、困惑したようにふわりと苦笑いを浮かべ、華奢な手をひらひらと振って見せた。

 

「え?やだ、私そんなことしないですよ。お客さん、どうぞゆっくりしていってくださいね。お茶でもいかがですか?あ、うちの工房で試作した新作鎮痛剤のサンプルもご用意できますよ?」

 

その無垢な笑顔が、今や吾輩の背筋を氷のように撫で上げている。

 

恐怖の正体は明白だった。

顔立ちは愛らしく、声音も耳に心地よい。

だが、歴戦の暴力装置であるはずの者たちが、彼女の存在そのものに震え上がっているのだ。

 

この純真な笑顔の深淵には、底知れぬ漆黒の絶対領域が広がっている。

微笑みながら劇薬の入った杯を勧めてくる、紛れもない本物の気配。

 

さらに吾輩を戦慄させたのは、少女の振る舞いに意図的な邪悪さが微塵も感じられない点にあった。

悪女が善人を演じるのであれば、そこには必ず計算高さを伴う芝居の匂いが立ち込める。

だがこの娘の勧誘は、一片の嘘偽りもない純度百パーセントの善意にすら見えた。

 

己の立っている異常な座標を、世界の中心であり絶対の正義だと信じて疑わない無邪気さ。

悪意なき善意で他者を笑って地獄の釜へ突き落とす者ほど、対処のしようがない厄介な存在はこの世にない。

 

「……うむ。流石に噂に名高い『ドン』の風格には見受けられんが。……いや、訂正しよう。その屈託のない笑顔が、逆に正体不明の恐ろしさを醸し出している……」

 

事情を知らぬ者であれば、うら若き少女の愛嬌に絆され、容易く侮りを見せるだろう。

だが、重武装の門番や広大なケシ畑を思わせる道場の威容を見せつけられた後では、その油断は命取り以外の何物でもない。

 

「先生……なんだかここ、本当に先生が想像していたような場所とは、次元が違うみたいです……」

 

「……分かっている」

 

「こういう底の知れない相手ほど、決して見かけの可憐さに誤魔化されてはならぬ」

 

戒めの言葉を口にした直後。

中庭を囲む堅牢な門の向こうから、重厚な革鞄が石畳を引きずる鈍い音が響いてきた。

 

姿を見せたのは、制服に身を包んだ一人の少年だった。

深く肩を落とし、全身から濃密な疲労感を漂わせている。

だが、吾輩の視線はその少年の横を歩く同行者へ完全に釘付けとなった。

 

漆黒のメイド服を身に纏った女。

 

ただの奉公人ではないことは一目瞭然だった。

血色は決して悪くないにもかかわらず、その双眸からは生命の輝きが完全に失われている。

華奢な背中には不釣り合いな大太刀が佩かれ、足運びには寸分の隙もない。

彼女が歩みを進めるだけで、周囲の空気が真冬の刃のように張り詰める。

 

あれが『刀を持ったメイド』の正体か。

案内役の言葉を借りるなら、かの有名な人斬り、河上彦斎その人である。

 

「弥彦、お帰りなさい」

 

「あー、マジで疲れた……。今日の授業、一段と長くて最悪だったぜ。皇族のガキ共の機嫌取りなんざ、身が持たねえよ」

 

「皇族」

 

純粋な剣術の他流試合を挑みに来たはずが、気づけば皇族だのという国家の中枢に関わる単語が飛び交っている。

 

「あ、お彦さんも長時間の護衛お疲れ様」

 

「ただいま。……薫、お彦さん、限界まで疲弊した。今すぐ手近な生肉を三枚おろしに切り刻みたい衝動に駆られている。人斬りの感触は、私にとって必要不可欠な精神安定剤。……大丈夫。すぐにすっきりする」

 

「その不穏極まりねえ猟奇的な言葉は、どう考えても『ただいま』に繋がる文脈じゃねえだろうが!!疲れてんなら大人しく布団被って寝てろ!!」

 

だが、お彦と呼ばれたメイドは少年の叫びなど風の音程度にしか感じていないらしい。

 

「動脈から鮮血が噴き出す光景は、美しい噴水のようで心が洗われる。それこそが、お彦さんの至高のマインドフルネス。……大丈夫、ご近所には決して迷惑はかけない。解体した肉体は、庭のケシ畑の極上な肥やしとして土へ還す。命の有効活用。究極のSDGs」

 

「お前は生粋のサイコパスか!!!庭の土壌に何人分の死体を埋め立てる気だ!!肥料が足りねえなら近所で真っ当に買ってこい!!」

 

この血も凍るような猟奇的発言を耳にしても、周囲にいる道場の大人たちが「またいつもの発作か」とばかりに静観している異常な空気感であった。

紛れもなく、これが彼らの穏やかな『日常会話』なのだ。

 

我ら真古流が掲げる理念は、実戦における殺人剣の復興である。

あくまでも武を極める過程としての剣が主体だ。

 

だが、目の前に立つこのメイドは根本から次元が違う。

他者の命を奪うという行為を、日々の食事や睡眠と同じレベルで生活の一部へと完全に溶け込ませている。

 

しかも、その動機が自身の精神安定というのだから救いようがない。

これはもはや剣術の理念などという高尚な次元の話ではない。

彼女の歪んだ人格そのものが、剥き出しの凶器なのだ。

 

さらに吾輩を絶望させるのは、この狂気に対して道場全体が「まあ、彼女の個性だから仕方ない」という寛容な態度で受容している点にあった。

 

単独の狂人など、所詮は個人の暴走に過ぎない。

だが、その狂気を組織の歯車として日常へ完璧に組み込んでしまった共同体は、圧倒的なまでの強靭さを持つ。

吾輩はここへ来て初めて、己の命が理不尽に刈り取られるかもしれないという具体的な死を輪郭づけて理解し始めていた。

 

「大丈夫。……弥彦ちゃんがこの先順調に成長して、大人の男として『一人前』になった暁には、夜の面倒も私がしっかり見てあげる。……燕と一緒に、三人で仲良く。大丈夫。お彦さん、ベッドの上のテクニックには絶対の自信がある。幕末の動乱で培った仕込みの技」

 

「ちょっとお彦さん!!いくら何でもそれは情操教育に悪すぎるわよ!!夜の英才教育のカリキュラムはまだずっと先の話でしょ!!」

 

「薫はこの組織の絶対的首領。もし弥彦ちゃんが『初めての夜の勝負相手』として薫を望むなら、お彦さんは大人しく順番を譲って後回しでいい。都合の良い愛人ポジションで影から控える。……大丈夫。嫉妬はしない」

 

「誰一人として、俺の個人的な意思と人権を確認してねえええ!!!」

 

吾輩は由太郎の顔を見下ろした。由太郎もすがるような目で吾輩を見上げている。

互いの視線が「我々は今、一体何の地獄の沙汰を聞かされているのだ」と雄弁に語り合っていた。

 

「あの……先生……」

 

「僕、なんだか急に酷い頭痛がしてきました」

 

「……安心せい。吾輩の頭蓋も今、内側から割れそうに痛んでいる」

 

正直に吐露しよう。

この時点において、吾輩の脳内で弾き出された『神谷活心流への評価』は真っ二つに引き裂かれていた。

 

一つは、剣術の枠を軽々と飛び越え、銃器、薬物、果ては権力との癒着までをも飲み込んだ、冷徹な実戦主義の極致としての最大限の賛辞。

そしてもう一つは、一歩でも踏み入れば二度と生きては帰れぬ、純度百パーセントの狂人たちの巣窟に対する警鐘。

 

この相反する二つの評価が、矛盾することなく同時に成立してしまっているからこそ、この組織は圧倒的に厄介なのだ。

 

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

 

「首領!!大変です!!警察の内部調査部の一部が、我々の阿片製造ルートの末端を嗅ぎ回っているとの緊急情報が入りました!!このままでは、近日中に強制査察の手がここにまで及ぶ危険性があります!!」

 

報告が響き渡った瞬間。

薫の表情から、先程までの余裕に満ちた『ドン』の仮面が完全に剥げ落ちた。

 

つい数分前まで優雅にパイプを燻らせていた裏社会の女王が、今度は一転して、普通の女学生のようにパニックを起こし始める。

手元のそろばんを放り投げ、目を白黒させながら中庭を右往左往し始めた。

 

「ええっ!?ど、どうしよう!!私、もし警察に踏み込まれて捕まったら……やっぱり死刑!?それとも市中引き回しの上で斬首!?やだやだ、新聞に顔がデカデカと売れちゃう!!浦村署長にはたっぷり袖の下を渡して、ちゃんと見て見ぬふりをしてくれるって約束したのに!!」

 

「なるほど、所轄の署長を完全に抱き込んでいるのか」

 

吾輩は混乱の中で、一つの強烈な事実に直面し納得した。

門番の横柄な態度も、この広大な敷地周辺を包む奇妙な静けさも、警察権力との癒着という強力な後ろ盾があればすべて説明がつく。

 

やはりこの神谷道場は、武芸の鍛錬場などではなく、国家の暗部へ根を張る強大な犯罪組織そのものだ。

 

「……落ち着いて、薫。深く深呼吸して。……大丈夫。私たちはいつだって正義の味方。愚かな世界を救済するために、管理下で阿片と武器を流通させている崇高な『必要悪』……署長の管理を離れて暴走し、私たちの聖域を嗅ぎ回るあの警官たちこそが、世界の平和を乱す許されざる『絶対悪』速やかに排除すべき、ただのノイズ」

 

吾輩の目の前で行われたのは、部下による主君への説得などという生易しいものではない。

言葉という名の劇薬を用いた、完璧な精神汚染だ。

己に都合の良い狂った論理で、相手の倫理観を根底から丸ごと塗り替えてしまったのだ。

 

「……そう、ね」

 

「そうよ……全くもってその通りよね。私たちの気高い救済活動に逆らう者こそが、社会を蝕む真の悪。差し伸べる救済の手を拒絶する愚か者よ……。命懸けで築き上げたビジネスを邪魔する権利なんて、この世の誰にもないわ」

 

「……それで、どうする? ドン」

 

再びパイプを口元へ運び、周囲の空気を凍りつかせるような冷徹な視線で、静かに、そして事務的に命を下した。

 

「燕ちゃんに伝達して。……『音を消して、気づかれないように後ろから全員の頭を撃ち抜いていいよ』って。あとの肥料の回収作業は、般若さんの部隊に任せます。……そうよ、私の選択は常に正しい。私は、この世界を導く正義の味方。……大丈夫よ」

 

「……………………」

 

これだ。

これこそが、人間の皮を被った本物の狂気だ。

 

吾輩は、腐敗した竹刀剣術を駆逐し、殺人剣の威信を復興させるという大いなる野望を胸に、意気揚々と東京へ乗り込んできた。

武の真髄を世に知らしめる。

ただそれだけの、純粋な武芸者としての誇りだった。

 

だが今、吾輩の眼前に広がる光景はどうだ。

剣術だの流派の存亡だのといったちっぽけな枠組みを遥かに通り越し、もっと直接的かつ物理的に、国家の治安維持機構そのものを真正面から敵に回している狂人たちの群れである。

 

これはもはや、剣術がどうこうという次元の話ではない。

一介の武芸者が、大上段に構えて理念を論じてよい領域を完全に逸脱している。

 

吾輩が命を懸けて復興したいのは、一対一の果し合いにおける『殺人剣』であって、決してこのような業務的な大量虐殺ではない。

 

「せ、先生……」

 

「……うむ……」

 

「僕……なんだか急に、自分の命がとてつもなく惜しくなってきました」

 

「……安心しろ。吾輩も全く同じ気持ちだ」

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

 

「おろ? どうしたでござるか? 薫殿。なんだか皆、顔色が茹でダコのように真っ赤になったり、死人のように真っ青になったりと、ひどく忙しない様子でござるが」

 

声をかけられた瞬間。

薫は先程までの冷酷なマフィアのボスの顔から、瞬時にして少女の笑顔へと切り替えた。

そのあまりにもスムーズな変貌ぶりに、吾輩の脳の処理が追いつかない。

つい数秒前まで、警官隊の皆殺しを無表情で命じていた人間の振る舞いとは到底思えなかった。

 

「ふふ、何でもないのよ、剣心。ちょっと燕ちゃんに日頃の業務のストレスが溜まってるみたいだから、どうやって楽しく『解消』させてあげようかなって、皆で親身になって考えていたところなの。これも大切な福利厚生の一環よ」

 

「福利厚生」

 

吾輩はまたしても、その場違いな単語を口の中で転がし、絶望的な気分を味わった。

この道場では、警察官への殺意も、麻薬の営業も、そして従業員の福利厚生も、すべて同じ土台の上で並行して処理されるらしい。

 

この組織、一体どういう狂った人事を経て現在の面子を集めきったのか。

組織論の観点から一から問いただしたい衝動に駆られるが、深く知れば知るほど二度と生きて敷居を跨げなくなりそうなので、絶対に聞きたくない。

 

「ああ……確かに、あのような年端もゆかぬ少女が、地下で一日中、重火器をぶっ放している時点で、その心労はいかばかりか。……たまには陽の当たる世界で、存分に解放させてあげるのが一番でござるな。若者の成長を促す、立派な人助けでござるよ」

 

「ええ、本当にそうね!」

 

「それじゃあ、外で存分に……リフレッシュさせてあげることにするわ! 燕ちゃん、あなたの腕前に期待してるわよ!」

 

今、吾輩はこの空間の構造を完全に理解した。

 

この男――緋村抜刀斎は、自覚なき悪意の塊だ。

一片の悪意すら持たずに、地獄の隠蔽工作へと無意識に加担してしまう、最もタチの悪い種類の人間なのだ。

本人は心の底から「良かれ」と思って発言している。

だが、その善意に満ちた言葉を、周囲の狂人たちは『伝説の人斬りによる、警官隊への隠密射殺許可』として都合よく受け取り、組織の意志として決定事項に組み込んでしまう。

 

何という地獄の機械か。

純粋な善意が、この組織においては最も危険で凶悪な潤滑油として機能しているではないか。

 

その瞬間。

吾輩の胸の奥で、何かがぷつりと音を立てて千切れるのを感じた。

 

殺人剣の復興?

真古流による日本剣術界の覇権?

馬鹿馬鹿しい。

そんな高尚な夢物語は、まずは明日も自分の首が胴体の上に繋がっていてこその話ではないか。

 

「…………よし、由太郎。帰るぞ。今すぐだ。持てる全力で、ここから離脱する」

 

「えっ!?先生、本当ですか!?ついに僕に、本格的な修業をつけてくれる気になったんですか!?」

 

今はそんな悠長な話をしている場合ではない。

 

吾輩は愛弟子の細い背中を力強く押し、出口である門へ向かって無言で歩き出す。

いや、歩くというよりは、ほとんど競歩に近い猛烈な早足だ。

 

本音を言えば、今すぐにでも袴の裾をまくって全力疾走したい。

だが、ここで無様に走り出してしまえば、武芸者として完全に敗北を認めたような気がして癪だった。

 

しかし、もはや負けてもいい。

いや、むしろこの狂気の館から五体満足で生きて帰ることこそが、真の勝利と言える。

 

「ああ!!よくよく考えてみれば、真っ当な環境で弟子を真っ当に育て上げてこそ、真の剣術の道というものだ!!殺人剣だの、裏社会を牛耳る暗黒の野望だのといった血生臭い真似は、もう金輪際こりごりだ!!吾輩の野望は……もっと、その、地域の防犯活動や青少年の育成といった、平和で合法的な方法で達成しよう!!何より命が一番大事だ!!ゆっくりと、安全第一で……な!!」

 

「先生、早口すぎて後半ちょっと何言ってるか全然分かんないです!!」

 

「気にするな!!吾輩自身も自分が何を言っているのか分からん!!だがとにかく、命を粗末にしてはならんということだ!!」

 

一秒たりとも、ここに長居してはならない。

 

勝負を挑んで負ければ、当然死ぬ。

勝ったとしても、その実力を買われて同盟相手として組織に組み込まれれば、いずれ警察との抗争でハチの巣にされて死ぬか、用済みとして肥料にされて死ぬ。

つまり、関わった時点で盤面は完全に詰んでいるのだ。

 

しかも最悪なことに、背後から感じる彼らの気配からは、吾輩のことを単なる「道場破り」の敵としてではなく、「使える便利な人材」あるいは「退屈しのぎの遊び相手」としてリストアップしかけている不穏な空気が漂っている。

 

「おや」

 

「あらら、雷十太くん、もう帰っちゃうの? 新薬の良い実験台……じゃなくて、子供たちの良い遊び相手になってくれる逸材だと思ったんだけどねぇ。……あ、我介。今すぐ部下を総動員して、あの雷十太とかいう大男の住所と交友関係を完全に特定しておきなさい。弥彦の健やかな成長には、たくさんのお友達が必要だからね」

 

「お友達作りのアプローチが絶対的に狂っている!!」

 

絶対に振り返ってはならない。

振り返れば最後、二度と表の社会には戻れなくなる。

 

さらに最悪なことに、後方からは若い衆の恐ろしく実務的な会話が耳に届いてしまった。

 

「あのでかいの、塚山邸に居候してるって噂の奴ですよね」

 

「あー、あの金持ちんとこか。あそこなら敷地が広いから、死体を運ぶための馬車が目立たず止めやすいっすね」

 

聞こえる。

はっきりと聞こえてしまっているのが、この上なく最悪だ。

 

個人情報の特定から犯行計画の立案までの手際が、あまりにも早すぎる。

もう少し、人道的な躊躇というものを組織に組み込んでほしい。

 

乾いた銃声の余韻と共に燕がひょっこりと顔を出した。

そのあどけない頬には、べっとりと真新しい返り血がこびりついている。

 

返り血だ。

つまり彼女は、ただの的ではなく、すでに『生きた何か』を試し撃ちしてきたのか、それとも先程の訓練の最中に『偶然の事故』が起きたのか。

その真相を知りたいとは思わない。

絶対に、何があっても知りたくない。

 

「薫さん! 準備完了しました!ちょっと外へリフレッシュ、行ってきまーす!!!!」

 

「おろろ〜。燕殿は今日も若さ溢れて元気いっぱいでござるな。……さあさあ、今夜は奮発して買ってきた特上肉で、豪勢なすき焼きにするでござるよ。弥彦、準備を手伝うでござる」

 

道場の門へ向かって歩を早めながら、由太郎がすがるような目で必死に問いかけてきた。

 

「先生!本当にもう、この道場の連中とは戦わないんですか!?かの有名な緋村抜刀斎との勝負は!?伝説の人斬り、河上彦斎との死闘は!?神谷活心流という最強の流派を叩き潰す悲願は!?」

 

「絶対に戦うものか!!」

 

「よく聞け由太郎! あの緋村抜刀斎がいたのは、我々が警官隊の巻き添えでハチの巣にされるのを防ぐため、神が遣わした救いの使者だったのだ!!しかも、あの河上彦斎は、我々が戦っていたら問答無用でケシ畑の肥料にする気満々だったではないか!!いいか、神谷活心流は流派などという生易しいものではない!!あれは、人の姿をした歩く大災害だ!!」

 

「先生、急にすごく客観的でまともなこと言ってます!!」

 

「まともで何が悪い!!まともな判断力が残っているからこそ、我々は今、こうして生きて門に向かえているのだ!!」

 

重厚な門をくぐる直前、吾輩は誘惑に抗えずに、最後にもう一度だけ忌まわしき中庭へと振り返ってしまった。

 

そこには、パイプを咥えながら可憐に微笑む首領の薫。

無表情のまま、愛刀の血糊を冷徹に拭い去る彦斎。

血染めの雑巾を片手に、今夜の死体処理の予算を帳簿へ書き込む琴。

そして、最高級のすき焼き肉を大事そうに抱えながら、「これも人助けでござる」と一人ごちて満足げに頷く抜刀斎。

 

燕は鼻歌交じりに硝煙の立ち込める街へと駆け出していき、中庭に取り残された弥彦だけが、その理不尽な光景のすべてに対して、涙目でツッコミを入れ続けている。

 

何なのだ、あれは。

一体全体、何なのだ、この空間は。

 

吾輩はここへ足を踏み入れる前、神谷活心流という組織を、近代兵器と化学薬品を貪欲に取り入れた、恐るべき殺人軍事要塞だと分析していた。

その認識は、半分は正しかった。

いや、九割方は間違っていなかったと言っていい。

だが、決定的に見落としていた致命的な要素が一つだけあった。

 

この連中の生態は、『冷徹な実戦主義』などという、美しい言葉の枠には決して収まりきらない。

 

彼らは息を吐くように人を殺し、死体を無駄なく肥料に変え、笑顔で麻薬を営業し、血生臭い愛人論争に花を咲かせ、そして夜には皆で卓を囲んですき焼きを食うのだ。

 

狂気が、日々の営みという『日常』の中へ、一滴の淀みもなく溶け切っている。

吾輩が命を懸けて復興したいと願っていたのは、あくまで剣術という枠組みの中での『殺人剣』であって、このような衣食住のすべてを巻き込んだ『生活総合狂気』ではない。

 

「先生、走るのに邪魔なら、僕が荷物を持ちましょうか!?」

 

由太郎が、自身の抱える大きな風呂敷包みを必死に抱え直しながら提案してきた。

 

「いっそ、捨てる物があれば今のうちに身軽にして……」

 

「馬鹿者、絶対に捨てるな。不用意に落とした私物から、奴らの猟犬に足跡を辿られる危険がある」

 

「えっ、いくら何でもそこまで執拗に追ってきますかね!?」

 

「先程あの女が、部下に『住所を特定しろ』と明確に指示を出していたのが聞こえなかったのか!!」

 

「あっ、そういえば言ってました!!」

 

うむ、これもまた実践における良い勉強だ。

一見して無害そうな相手の狂気を侮ると、己の命で高い授業料を払うことになるのだ。

 

あれは、不用意に近づく者の常識を根底から破壊し、寿命を強制的に削り取る、歩く自然災害だ。

人間は、台風や大地震といった圧倒的な災害に対して、自ら勝負を挑んだりはしない。

ただ己の無力さを悟り、全力で安全圏へ避難する。それが唯一の生存戦略であり、一番賢い選択なのだ。

 

真古流の今後の方針、その絶対不可侵の第一条は、今この瞬間に決定した。

 

『神谷道場には、何があっても絶対に近づくな』。

 

実にシンプルで分かりやすく、今後入門してくるであろう弟子たちにも徹底して伝えやすい、素晴らしい教えである。

 

そして吾輩は、己の命と尊厳が続く限り、二度とあそこへ足を踏み入れることはない。

 

絶対に、だ。




今回は、神谷道場の狂気を「実戦主義」として好意的に見ようとしていた雷十太が、最終的にちゃんと危険物扱いする話でした。
書いていて、だいぶ可哀想なのにだいぶ面白い男だなと思いました。
読んでくださった方が「ここが特に好き」「この会話がよかった」「もっと見たい組み合わせがある」と感じた部分があれば、ぜひ教えてください。とても励みになります。

琴(沖田さん)の新選組時代の話

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