転生して型月版・沖田総司になったけど、労咳を克服したら明神弥彦の母になっていた件 〜るろ剣世界で最強のママやってます〜 作:だいたい大丈夫
俺は今、東京の下町にそびえ立つ魔窟の前にいる。
魔窟――そう呼ぶと語弊があるかもしれない。外見だけを見れば、無駄に威圧的な黒塀と、やたら頑丈そうな門が構えるだけの、少し物騒な剣術道場だ。問題は、その「少し」の中身にある。
俺の名前か。本名などとうの昔に捨てた。あの手の個人的な情報は、任務に出るたびに足枷となるだけだ。だから今回も、履歴書にも面接にもすべて「太郎」と書き殴った。
雑だと思われるかもしれない。だが、これでいいのだ。血と硝煙に塗れた場所では、凝った偽名よりも、逆に「太郎」のような平凡すぎる名前の方が記憶に引っかからない。人事担当が胡散臭げに二度見したところで、結局は「まあいいか」と思考を放棄する。それこそが、最前線で生き残るための潜入のコツだ。
俺は明治政府の裏で暗躍する秘密結社『時守』の特務部隊、『時の番人』の十三番だ。本来なら十二人で打ち止めのはずなのに、俺だけ特例で十三番の席を与えられている。縁起が悪いと笑うか。上等だ。上がそういう数字をよこす時は、大体「使い捨てにしても惜しくない化け物」だと思っている証拠だ。要するに、最高評価で最低待遇ということ。うちの組織は、そういう残酷な言い換えを好む。
今回の任務は、その『神』とかいう巨大シンジケートの実態調査と、可能なら首領の暗殺。
一介の剣術道場が最新鋭の戦艦を五隻も保有し、東日本に新型麻薬をばらまき、裏で軍需産業まで回している。普通に考えれば質の悪い冗談だ。だが、俺たちはその冗談だと思って調べ始めた情報が、すべて真実だった時のために存在する組織だ。だから一切笑えない。
しかも厄介なことに、今この国の裏社会は三つ巴の様相を呈している。志々雄真実という京都の大物、俺たち時守、そしてこの謎の『神』
そのパワーバランスを崩すためにも、まずは神の首を落とす。それが上の判断だ。上の連中はいつも安楽椅子から簡単に言う。首を落とすだけだろう、と。だが、落とされる側にも都合があり、落とす側には緻密な段取りがある。その血生臭い段取りをすべて一人でこなすのが、時の番人の仕事だ。
そうして、俺はここにいる。
驚くべきことに、この神谷道場は表門で普通に門下生の一般募集を行っていた。
ザルなのか、それとも罠なのか。最初は疑った。だが内情を探るほどに、もっとタチが悪い事実が浮かび上がる。あいつらは本気で「強いやつと使えそうなやつが欲しい」だけなのだ。反社会的な巨大組織のくせに、人材採用の窓口だけはやたらとオープンに開かれている。職務内容に『剣術全般、射撃、護衛、売人補助、場合により夜勤あり』とでも明記しろと言いたくなる。
俺は経歴を偽造し、面接と実技試験を難なく突破した。
面接官のヤクザ顔の男に「人は斬れるか」と凄まれたので、「生活が懸かっているなら多分」と平坦な声で答えたら、「正直でよし」とあっさり通された。どういう採用基準だ。もっとこう、志望動機とか将来のビジョンとかを聞くべきだろう。いや、この血塗られた職場で将来像を語られても対応に困るが。
そんなわけで、俺は今、神谷道場の中庭に整列させられている。
周囲には俺と同じ、新入りらしき連中が何十人もひしめき合っていた。食い詰め浪人、流れのチンピラ、腕に覚えのありそうな野良剣客、どう見ても裏道の空気に染まりきった男。逆に「お前どうしてここに来た」と問い詰めたくなるほど、目の泳いでいる気弱そうな奴。人材の幅が広すぎる。広いが、まともな就職先でないことだけは、全員の顔色にありありと表れていた。
「総師範の訓示があるぞ!私語すんな!あと失礼のないようにしろ!失礼があったら失礼な部位からなくなると思え!」
誰だよ、今の物騒極まりない注意事項を叫んだのは。
俺が内心で毒づいていると、前方の演台に、一人の少女がふわりと歩み出た。
道着姿に、艶やかな黒髪。年は十代後半といったところか。顔立ちだけを見れば、町道場の可憐な看板娘で十分に通る。「清楚」という言葉をそのまま形にしたような柔らかい雰囲気を纏っており、彼女が笑えば、たぶん普通の男ならホッと胸を撫で下ろすだろう。
問題は、その安心しきった瞬間に、背後からガトリングガンで蜂の巣にされかねない巨大組織のトップだということだ。
「あの人が総師範、神谷薫様だ。ドンだぞ」
隣の新入りが、震える小声で囁いてくる。
ドン。剣術道場という神聖な場所で、ドンなどという単語を耳にする日が来るとは思わなかった。
「入門ありがとうございます。神谷活心流師範代の神谷薫です。皆さん、神谷活心流は『活人剣』です。人を活かす剣。……平和ボケした綺麗事と仰る方もいるかもしれません。ですが、それが私の理想です。ここはその理想を叶える為の場所です」
……ほう。
麻薬カルテル兼巨大軍事基地の首領が、活人剣ときたか。
なるほど。最初からブラックジョークで笑わせに来ているのか。そういうサイコパスなタイプか。俺は腹の底で鼻で笑う。どうせここから「その理想のためにお金が必要です」とか「その理想のために強力な武器が必要です」とか、そういう血なまぐさい集金の論理に繋がるに決まっている。
「そのために、皆さんには圧倒的な『力』をつけてもらいたいの。活人剣、つまり殺さないで自分も勝つ。そして……敵も活かすためには、自分が絶対的な『最強』になるしかない。反撃する気すら起きない武力で、完全に支配するの」
……ん?
俺は怪訝に眉をひそめた。
今、はっきりと支配と言ったか?
「そのために皆さんには、死に物狂いで努力してもらいたいです。もちろん、私たちも最新兵器の開発をしています。剣術だけでなく、射撃、諜報、薬学、兵站、すべてを学びましょう」
やはり全部盛りじゃないか、この組織。
しかも朗々と語る内容が、綺麗事の皮を被った独裁宣言そのものだ。圧倒的武力で反撃する気すら起こさせない、って、それは平和の維持ではなくただの恐怖政治だ。抑止力と言い換えれば聞こえはいいが、この硝煙の匂いの中で聞くと、ほぼ宣戦布告と脅迫である。
「そして……どうしても聞き分けのない人間がいたら、武力を振るうしかない。……その時までに、私たちは総合的な軍事力を学びましょう」
何だ、この女。天使のような笑顔で、とんでもない虐殺の正当化をしている。
しかも視界の端に映る新入りの何人かは、その演説に胸を打たれたような顔をしている。やめろ。そこは感動するところじゃない。正気を保て。
「それでも、私は信じています。剣は凶器、剣術は殺人術、それでも『奇麗事』の方が真実になり、剣が道を説くものに……。そう、私たちが武力でこの国を導けるときが来ることを!皆さん!その大きな理想のために、力を私に貸してください!」
わあっと、割れんばかりの拍手が巻き起こる。
正気か、お前ら。
集団催眠のような異様な熱気に俺が戦慄していると、横から一人の男がすっと静かに進み出た。
赤い髪、左頬に刻まれた十字の傷。居候にして対外統括、元・人斬り抜刀斎。緋村剣心だ。
おお、そうだ。
お前がいたな。
こいつは元・維新志士だ。酸いも甘いも噛み分けた男が、こんな狂った理屈を聞かされて黙っているはずがない。頼む、何か言ってくれ。せめて「それは活人剣ではない」とか、「薫殿、思想が危険でござる」とか。この狂気の空間に、常識の楔を一つだけでも打ち込んでくれ。
「……薫殿。活人剣は、そういうものではないでござるよ」
きた!!
そうだ、それだ!!
俺は心の中で喝采を叫ぶ。頼む、そのままその狂った空気を正してくれ。
だが、剣心は極めて冷徹な――血の匂いを纏った人斬りの瞳のまま、言葉を続けた。
「活人剣の本来の思想は、『一人、あるいは少数を殺して、多くを助ける』もの。武力行使を躊躇して無駄な血を流すくらいなら、最初に最も効果的な一撃で敵の首魁を物理的に排除する……そこは履き違えちゃいけないでござるよ、薫殿」
俺の表情筋が完全に凍りつく。
何を言っているんだ、この男は。
薫はぽんと無邪気に手を打った。
「あ、そうか!剣心ごめん。……身内への被害は最低限、ね。効率第一!首領だけを暗殺すればいいのね!」
「そういうことでござる」
「なるほどー!」
なるほどー、じゃない。
唯一のツッコミ役が、完全に冷酷な暗殺者の思考で軌道修正してきたんだが!?
誰かいないのか、この魔窟には!このイカれた流れに「いや、それも違うだろ」と真っ当に反論できる人間は!!
助けを求めて周囲を見回しても、門下生候補たちは深く感心して頷いているし、古参らしき連中は「さすがは抜刀斎、無駄がない」といった顔で納得している。もう駄目だ。全員の頭のネジが外れている。
そのオリエンテーションの時点で、俺は肌が粟立つような危機感を覚えていた。
この組織、想定をはるかに超えて危険だ。
首領も狂っている。幹部も狂っている。居候の男まで完全に狂っている。
だが、同時に暗殺者の嗅覚が告げてもいた。
この荒唐無稽な理屈が、この空間では妙な説得力を持って筋が通ってしまっているのも事実なのだ。圧倒的な武器があり、暴力に飢えた人間がいて、潤沢な資金があり、狂信的な思想がある。絵空事のはずなのに、それを実現するだけの物理的な手順がすべて用意されている。そこが何よりも、骨の髄から恐ろしかった。
◇◇
オリエンテーションの後、俺は適性を見ると言われ、地下の射撃部門へと回された。
本来なら剣術部門に潜り込んだ方が、首領である薫への接近は容易だったかもしれない。だが俺の射撃技術は、時守の中でも最上位だ。むしろ好都合だ。目立ちすぎない程度に有能さをアピールし、徐々に中枢へと食い込んでいく。いつも通りの、血に濡れた仕事のやり方だ。
地下射撃場に足を踏み入れると、鼻腔を突く硝煙とガンオイルの匂いが、俺の感覚を少しだけ懐かしさで研ぎ澄ませた。そもそも町道場の地下にこんな防音施設がある時点で狂気の沙汰だが、設備は軍のそれと遜色がない。的の配置、計算された遮蔽物、整然と並ぶ弾薬棚、油の染み込んだ整備台。完全に、軍事訓練所の一部をそのまま切り取ってきたような空間だった。
そこで俺を待っていたのが、三条燕と宇佐美新平だった。
燕は十歳の少女だ。だが、俺の目は誤魔化せない。指先にこびりついた硝煙焼けと分厚いタコ、隙のない立ち姿を見れば一目でわかる。子供の皮を被った、歴戦のガンマンの気配だ。宇佐美は、その横で師範らしく腕を組んで立っていたが、目の端には「今日も燕師範代の腕が怖い」という、静かな諦観が張り付いている。
「まずはリボルバーの分解・組み立てです」
「これは自分の命を預けるものなので、目をつぶっても、寝ぼけていてもできるようになりましょうね」
だが要求している内容は、完全に特殊部隊のそれだ。
俺は無言で、手渡されたリボルバーを握り込む。金属の冷たい重み、シリンダーの癖、部品の嵌まり具合。まあ、普通だ。よく手入れされている。新人用としては上等の部類に入るだろう。
カチャカチャと、考えるよりも先に指先が踊る。こういう作業は身体の奥底に染みついている。流れるように分解し、組み直し、最後に手の中で重力を確かめるように弄ぶ。
チャキッ。
「お?」
「早いじゃねえか。新人、お前どっかで経験があるのか?」
「い……いえ、昔から手先が器用なだけでして」
嘘ではない。本当に器用なのだ。ただ、その器用さが人を殺す方向にばかり特化して役立ってきたというだけで。
「うん、それはとっても良いですね!銃は、愛した分だけ手先に応えてくれます。……さあ、その調子で的を撃ちましょう?」
……あれ?
何だ、今の。
俺の脳の奥底で、錆びついた歯車が軋むような変な音がした。
時守では、致死率の高い任務を完遂しても「当然だ」と一蹴されるだけだ。失敗しないことが前提の歯車に、称賛など与えられない。できて当たり前、壊れれば別の部品と交換される。それが俺の生きてきた冷たい世界だ。
なのに、今、俺はたった数秒の組み立て作業で「良いですね」と肯定された。
あまつさえ、太陽のような笑顔を向けられて。
そんな柔な言葉に揺らぐなと、俺の中の冷徹な職業意識が警鐘を鳴らす。だが、揺らぐなと自戒しなければならないほどに、俺の胸の奥で確かに何かが温かく解けていくのを感じていた。
その後の射撃訓練でも、俺はいつも通り、呼吸を殺して引き金を引いただけだ。
だが結果は、新人としては異常な高得点となった。全弾が的のど真ん中を貫く。宇佐美が「新人のくせにやるじゃねえか」と低く唸り、燕は「わあ、すごいです!」と本気で目を輝かせて拍手を送ってくる。
拍手。
拍手って、何だ。
人を殺すための技術を見せて拍手されるのが、こんなにもむず痒いものだとは知らなかった。
「太郎さん、姿勢も綺麗ですね。反動を受ける時の肩の逃がし方、今のままで十分実戦で使えます」
「……ありがとうございます」
「うんうん。才能ありますよ。嬉しいなあ、射撃部門に上手い人が増えるの」
嬉しい。
彼女は今、衒いもなくそう言った。
射撃が上手い人間が増えて嬉しいと。
教えている内容は血生臭いのに、言い方が完全に学校の部活動の勧誘だ。やめてくれ。冷徹であるべき心がひどく混乱する。
「今日はもう終わりでいいぞ。お前、基礎は飛ばして実戦組だな」
「は、はい」
「あと、ここは新人に優しい部署だから安心しろ。燕師範代に嫌われなければ大体生き残れる」
「それは安心材料なんですか?」
「人によるな」
俺はその日を境に、射撃部門のエリート候補として扱われることになった。
潜入任務の進捗としては、気味が悪いほど順調すぎる。だが俺の中では、それとは別の妙な気持ち悪さが、ぬかるみのように足元にまとわりついていた。
この場所、異常にアットホームすぎる。
いや、アットホームという言葉を使うには、転がっている銃と麻薬の量が多すぎるのだが、それでも人の扱い方が妙に温かいのだ。背筋が寒くなるくらいに。
◇◇
もちろん、俺は本来の暗殺任務を忘れていない。
その夜、宿舎の暗がりで報告書はきっちりと書き上げた。
『神谷道場地下射撃部門に潜入成功。十歳の少女が射撃師範代。構成員の訓練水準は高い。組織内の結束は異常に強い』
そこまでは、いつものように感情を殺して冷静に書ける。
だが、最後の一文でどうしてもペン先が止まる。
『雰囲気は……』
そこで迷う。
何なんだ、この組織の空気は。
極悪非道な軍産複合体。なのに、現場の人間関係はやけに明るく風通しがいい。変な部活みたいな爽やかな一体感すらある。上司が後輩の成長を素直に褒める。師範代が笑顔で努力を認める。飴と銃と麻薬が、同じ施設の中に何の違和感もなく共存している。
俺は散々迷った挙句、最終的にそこを「奇妙に士気が高い」とだけ無難に記した。
あまりに本音を赤裸々に書くと、本部が逆に俺の精神状態を疑う気がしたからだ。
◇
数日後、俺は突如として呼び出しを受けた。
射撃部門の片隅で銃の手入れをしていると、視界の端にふわりとメイド服が入り込む。河上彦斎。例の暗殺メイドだ。
近くで相対すると、やはり得体の知れない女だ。表情筋が死滅しているかのように無表情で、気配は薄く、ただそこに立っているだけで周囲の空気が数度下がるような冷たさがある。なのに、身に纏うメイド服だけは皺一つなくきっちりとしている。暗殺者と給仕係の最悪のハイブリッド、という言葉しか思い浮かばない。
「……太郎」
「は、はいっ!」
「お前は優秀。今日から外勤」
「外勤……ですか」
「最近、ウチの可愛いお薬を配る売人が、他所のチンピラに襲われる。……太郎、助ける。そして、これで撃つ」
そう言って彼女が差し出してきたのは、特注の美しい装飾が施された大口径リボルバーだった。
重い。手に吸い付くような、良い重さだ。グリップに施された彫りの意匠も上品で、ただの無骨な業務用ではない。
実用品でありながら、明確な褒章としての意味を持っている。
「……仕事が綺麗に終わったら、後でご褒美の飴あげる。イチゴ味」
「は、はあ……」
飴?
だがそこで、お彦は人形のような真顔のまま、声音を一段落として続けた。
「あ、1人くらいは生かす。ウチの地下室に連れてきて、徹底的に吐かせる。大丈夫」
声の温度が、一気に絶対零度まで下がった。
ああ、この人、本当に日常的に拷問をこなしている人間の目だ、と瞬時に理解できる声だった。
「……ガチだ」
内心で冷や汗を流しながらも、俺は黙って銃を受け取る。
試されている。ここが正念場だ。売人の護衛兼、敵対組織の抹殺任務。つまり、組織への忠誠と実力を測る実地試験。ここで圧倒的な結果を出せば、もっと中枢へ、首領の喉首へと近づける。
路地裏で待ち伏せていた連中は、拍子抜けするほどの雑魚だった。
数だけは揃えていたが、動きは素人に毛が生えた程度。売人を囲んで威嚇するように大声を出している時点で、プロの護衛が駆けつける前提の頭がない。
俺は瞬時に壁と街灯の位置を計算し、最初の一発で敵の意識を最も混乱させる場所へ弾丸を撃ち込む。リボルバーの反動は強烈だが、俺の腕にはすっきりと馴染む。本当にいい銃だ。弾道が素直で、狙い通りに肉を穿つ。
一人、二人、三人。急所を外して撃ち崩し、弾倉を落として間合いを詰める。最後の一人だけ、逃げる脚を正確に撃ち抜いて路地に転がし、その首筋を軍靴で踏み躙った。
「なっ!!こ、この新人、強すぎる!!化け物か!!」
「まあ、お前らが弱すぎんだよ。……銃弾を銃弾で撃ち落とすくらいで何を言ってやがる」
本当は時守の特務ならこの程度の制圧は息をするように当然のことなのだが、口に出して強者の台詞を吐くと、少しだけ気分が良かった。
やばいな。確実に、この組織の好戦的な空気に染まりつつある。
任務は無事、完遂した。
助かった売人は涙と鼻水を流しながら、俺の足元に何度も頭を擦りつける。お彦は無表情のまま「うん、偉い」とだけ呟き、本当にイチゴ味の飴を俺の掌に落とした。
おまけに、血に濡れた美しいリボルバーまでそのまま寄越す。
「ボーナス」
それだけを残して。
……俺は正直、その時点で暗殺者としての自我が大きくぐらついていた。
飴なんて、子供騙しもいいところだ。馬鹿みたいだ。なのに、ひどく甘い。
硝煙の匂いと死の緊張の後に舌の上で転がすそれは、疲労した脳髄の奥深くまで甘美に染み込んでいく。血の匂いをさせて人を殺し、その対価として褒められ、イチゴ味の飴をもらう。そんな奇妙で温かい人生など、俺の過去には存在しなかった。だからこそ、その小さな甘さが、俺の乾いた心に深く、致命的に刺さる。
◇
さらに数日後、俺はついに高荷恵のラボへと呼び出された。
潜入任務としては大きな前進だ。阿片製造の最高責任者。この設備と内情を把握できれば、組織の核心に一気に近づける。俺は腹の底でそう計算しながら、慎重に重い扉をくぐった。
中は予想していたよりもずっと整然としていた。薬品棚、ガラス器具、蒸留器、瓶、ラベル、帳簿。狂気の麻薬工場であると同時に、実に清潔で、機能美に溢れている。やっていることは極悪非道なのだが、職場環境としては無駄にホワイトだ。
「あら。貴方が噂の太郎さん?」
「よろしくね。射撃も護衛も完璧で、とっても優秀なんだって?」
「いえ……それほどでもありません。自分は、ただ与えられた仕事を必死で……」
「ふふっ」
恵は赤い唇をほころばせ、湯気を立てる琥珀色の液体――芳醇な香りのする高級そうなコーヒーを俺に差し出してきた。
「それでもよ。貴方、いつも気を張ってて……ここは、なかなかつらいでしょう?麻薬カルテル兼、軍需複合体みたいな殺伐とした職場だし。血生臭い毎日に、心がすり減ってない?」
見抜かれた、と背筋が粟立つ。
任務の偽装がバレたのではない。
殺戮の道具として、俺の魂が擦り減り、悲鳴を上げている内側の脆さを掬い上げられたのだ。
時守では、どれほど精神が疲弊していようが関係ない。任務に使えるか、使えないか。使えなくなったら次を補充する。そういう血も涙もない世界だ。
なのに、この人は俺の「疲れているかもしれない」という人間としての綻びを、先に拾い上げてくれる。
何なんだ、この職場は。
「……そうですね」
「でも……これも『活人剣』の……ためですから」
自分で口にしておきながら、頭痛がした。活人剣って何だ。麻薬と兵器と暗殺の総合商社だろうが、ここは。だが最近、口が勝手にその狂った理屈を正当化して選ぶようになっている。自分が怖い。
恵は、俺の頭を優しく撫でた。
本当に、愛おしい子どもを労わるみたいに、ごく自然に。
「ふふっ。それを信じて疑わないなら、頑張りなさい。……でも、もし疲れたら、いつでもここへ来なさい。私が温かいお茶を淹れて、愚痴くらい聞いてあげるから。一人で抱え込んじゃダメよ」
その時、俺の奥深くで、何かが決定的に音を立てて崩れ落ちた。
ああ、なんて温かい組織なんだ。
時守では、俺はただの『十三番』だった。血塗られた道具だった。ただの番号だった。
でも、ここでは違う。彼らは俺を一人の人間として「太郎」と呼ぶ。成果を出せば褒める。労いの飴をくれる。疲れていれば温かいコーヒーを淹れてくれる。頭を撫でてくれる。愚痴まで聞いてくれると言う。
これが、活人剣……?
いや違うだろ、と冷徹な暗殺者の理性がどこかで小さく叫ぶ。でも、その声は以前よりもずっと小さく、頼りないものになっていた。
俺はこの頃から、本部へ送る報告書を書く手が極端に遅くなった。
書こうと思えば、いくらでも書ける。だが、射撃部門での燕との訓練が楽しいとか、お彦のくれる飴が疲れた身体に意外とうまいとか、恵の淹れるコーヒーの香りが妙に心を落ち着かせるとか、そういう人間らしい感情まで含めて報告したら、きっと本部は俺の忠誠を疑うだろう。
だから、必要最低限の事実しか書かなくなる。
『敵組織の内部結束は依然として高い』
『首領周辺への接近には段階的信用獲得が必要』
『潜入継続』
そういう、乾ききった文字だけが羅列されていく。
本当はもう、その時点で俺の精神状態はだいぶおかしなことになっていた。
◇◇
さらに数週間後。
お彦が、また無表情に俺を呼んだ。
「……太郎。お前、超・優秀。信用できる。今日から、首領の直属の護衛」
「……え?」
一瞬、脳の理解が追いつかない。
首領直属?
つまり、神谷薫のすぐ傍に立つということだ。
俺が本来、その手で命を奪うはずだった標的の、最も無防備な背中を守る位置。
感極まって、俺の身体は反射的に完璧な敬礼の姿勢をとっていた。
「よしっ!ついに総師範の護衛だ!!神谷活心流の『活人剣』を、この腐った世に広めるために!!命に代えても!!」
言い終わってから、俺は自分の口が紡いだ言葉を疑う。
何を言っているんだ、俺は。
だが、もう遅い。
周囲の連中は、俺の狂信的な宣言に普通に頷いている。
「太郎さん、よろしくお願いしますね。貴方のような優秀な戦力が傍にいてくれると、とても心強いわ」
「はい!!薫首領!!お任せを!!」
一切の迷いなく、腹の底から忠誠の返事が出る。
終わっている。
俺の暗殺者としてのキャリアは、本当に終わっている。
弥彦が腕を組んでこちらを見上げてくる。
十歳のくせにやたらと凄みがあるし、言い回しが完全に極道の次期組長だ。
「おい、太郎!薫に何かあったらただじゃ置かねえぞ!!背中は任せたからな!一緒に組織をデカくしようぜ!」
「はい!弥彦ぼっちゃん!!ご期待に沿うよう、身を粉にして働きます!!」
またしても、一分の隙もない忠誠心で答えてしまう。
何なんだ、この腹の底から湧き上がる熱い忠誠心は。
左之助も、へらっと笑って大仰に肩をすくめた。
「へっ。こいつが最近噂の、期待の若手ねえ。俺よりは年上だが……よろしくな、新入り!」
「よろしくお願いします!」
「元気だなあ。染まったなあ」
「左之助さんが言うと説得力が変な方向へあるんですよ」
「まあ、頑張るでござるよ。ここは色々と、慣れるまで大変なのでござる」
「はい!」
「ああ、もう完全に社員の返事でござる……」
何故か剣心が頭を抱えている。
いや、今の俺にはその理由も痛いほどわかる。わかるけれど、それでももう、この心地よい濁流から抜け出すことはできない。
◇◇
その夜、俺は静かな庭を箒で掃いていた。
首領直属の護衛に抜擢されたからといって、護衛が二十四時間ずっと首領の横に突っ立っているわけではない。この組織は上下関係の構造が独特で、エリート護衛でも普通に庭の掃除をするし、幹部でもお茶を淹れたり書類を運んだりする。仕事の分担が細かく分かれているくせに、時々すべてがごちゃまぜになって助け合う。
でも、不思議と嫌じゃない。
むしろ、冷たい夜風に吹かれながら庭を掃いているだけで、「ああ、俺はここにいていいんだ」と深く安堵できる。異常だ。完全に狂っている。だが、その異常なほどの居心地の良さが、たまらなく気持ちいい。
『……時は流れ出す。そういうことだな。さらばだ、過去の俺よ!!俺は神の戦士となる!!』
本気で、そんな青臭い誓いを胸に抱いていた。
馬鹿みたいだ。いや、間違いなく馬鹿なのだろう。でも、その時の俺は本気でそう思っていたのだ。
冷徹な殺人機械であった時守の十三番は、もうどこにもいない。ここには、ただの太郎がいる。優秀だと褒められ、仲間として認められ、飴をもらい、誇りを持って首領の背中を守る太郎がいる。
自分の人生は、もうそれで十分だと思えてしまった。
◇◇
同じ頃。
時守の本部では、俺の報告書が最後の一通を境にぷっつりと途絶えたことが、深刻な問題として会議に掛けられていたらしい。
風の噂によれば、組織のボスは俺の書類を握りつぶし、怒りではなく恐怖に震えたそうだ。
「な、なんと……!我が組織の最高傑作、『十三番』が……寝返っただと……!?」
最強の暗殺者である一番も、冷や汗を流して絶句したという。
本来十二人しかいないはずの番人の中で、特例として十三の忌み数字を与えられた、感情なき殺人マシーン。それが任務を放棄して寝返るなど、彼らの常識ではありえないことだった。
さらに追い打ちとなったのが、現場へ偵察に向かわせた下っ端からの報告だ。
「十三番は今、敵の首領の『専属ボディガード』として、満面の笑みで神谷道場の庭掃除をしているらしい……!!」
「恐るべし、『神』……!!物理的な戦力のみならず、人間の精神すらも完璧に洗脳し、支配する、悪魔の洗脳術を持っているというのか……!!」
違う。
いや、違わないのか?
正直、今の俺にももう分からない。
でも一つだけ確かなのは、血も涙もない時守の地下室よりも、この神谷道場の方が圧倒的に居心地がいいということだ。
そんな福利厚生レベルの理由で、手塩にかけた最強の暗殺者を失う秘密結社もどうかと思うが、失った側からすれば、たぶん世界で一番理解できない裏切りの理由だろうな。
清々しい朝の空気を吸い込みながら、俺はまた竹箒で庭を掃く。
薫が縁側から、明るい笑顔で手を振ってくる。
「太郎さん、おはようございます」
「おはようございます、首領!」
恵が眠そうに目をこすりながら、コーヒーの入ったマグカップを持って通り過ぎる。
「あとでラボへいらっしゃい。新しい豆が入ったの」
「はい!」
燕が射撃場の方からひょっこりと顔を出した。
「太郎さん、後で動く的やりましょうね!」
「了解です!」
お彦が、無言のまま放物線を描いて飴を一粒投げて寄越す。
「……今日も頑張る。イチゴ味」
「ありがとうございます!」
……ああ。
だめだ。
俺、完全にこっち側の人間だわ。
最後までお付き合いありがとうございました。
太郎がどこで戻れなくなったか、もし印象に残った場面があればぜひ教えてください。
琴(沖田さん)の新選組時代の話
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やって欲しい
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やらなくて良い