転生して型月版・沖田総司になったけど、労咳を克服したら明神弥彦の母になっていた件 〜るろ剣世界で最強のママやってます〜 作:だいたい大丈夫
【集英組本部 食堂】
昨夜は色々とあって、褥に就くのが随分と遅くなってしまった。
実際のところを言えば、蒼紫君が妙に静かで、ひどく真剣で、そしてどうしようもなく色っぽかったの。
あの男は一度火がつくと、十四の頃から変なところだけ一貫している。久しぶりに相手をした私は、最終的にその熱にほだされてしまった。「もう好きにしなさい」と明け渡した結果、朝の光が差し込むまで、きっちりとあの男の情熱に付き合わされる羽目になった。
いや、ちゃんと大人同士の秘め事よ。そこは大事。
だから私は、朝からひどく機嫌が良い。悔しいけれど、鏡に映る肌のつやも艶めいている。蒼紫君の方も、憑き物が落ちたかのように無駄にすっきりした顔をしている。
腹が立つわね。
男という生き物は、どうしてああも翌朝に澄ました顔ができるのかしら。女の方は、体温の余韻やら何やらで、いろんな意味で「昨夜」を色濃く引きずっているというのに。
鰹出汁の香りがふわりと立ち昇る台所で、味噌汁を椀によそっている。
気配を薄くして座っているくせに、この朝餉の席にあまりにも自然に馴染みすぎているのよ。十年前からずっとこの家の主でした、とでも言わんばかりの落ち着き払った態度で。
「……沖田さん、味噌汁の匂いがいい」
「当たり前でしょ。私が作ってるんだから」
「うむ」
その短い肯定が、また自然すぎるのよ。
しかも今朝の蒼紫君は、私の寝室から堂々と出てきて、手早く洗面まで済ませて、何食わぬ顔で食卓に腰を下ろしている。もう少しこう、視線を彷徨わせて気まずそうにするとか、頬を染めて照れるとか、人間としての情緒の揺らぎがあるでしょうに。
ないのよね、この男には。
そこが昔からどうしようもなく厄介で、そこが昔から少しだけ愛おしい。
背筋を真っ直ぐに伸ばした座り方も、綺麗な箸の持ち方も、几帳面な仕草も、完全に「本日からこの家の主です」という空気を醸し出している。いや、昨夜部屋に泊めたのは私だけれど。泊めたどころか、同じ布団の中で体温を重ね合っていたのだけれど。そういう抗えない事実を抜きにしても、男として図太すぎるのよ。
その時、食堂の引き戸が勢いよく開いた。
「母さん、おはよう」
弥彦が、珍しく清々しい顔つきで入ってくる。最近は地獄のような修行の時間割が少し自粛されたおかげで、目元に寝不足の隈がない。子供は健やかに眠るのが本来の仕事なのだから、これが正しい姿なのよね。今までが異常だっただけで。
「おはよう、弥彦。よく眠れた?」
「おう。久しぶりに変な夢も見なかったし――」
あの子の軽快な声が、途中でぴたりと途切れた。
視線が、食卓の向こう側へと滑っていく。
静かにほうじ茶をすする蒼紫君へ。
そして、お玉を持ったままの私へ。
それからもう一度、ゆっくりと蒼紫君へ。
「……おはよう、弥彦」
「おはよう。父さ……」
そこから数秒間、弥彦の全身が石像のように硬直した。
私は熱い味噌汁の椀を膳に置き、なるべく平静な顔を作る。ここで私まで動揺を見せたら、完全に大人の負けよ。
「いただきます」
私に続いて、蒼紫君も静かに両手を合わせる。
「いただきます」
弥彦はまだ半ば魂が肉体から抜け出ているようだけれど、根本的な育ちが良いせいで、条件反射のように両手が動いた。
「い……いただきます」
うん。よし。普通。
ごく普通の、平和な朝の風景。何もおかしいところはない。
そう自分に言い聞かせて焼き魚に箸を伸ばしかけた時、蒼紫君の端正な口元に、白いご飯粒が一つ張り付いているのが目に入った。私は本当に、何の思考も挟まずに、すっと手を伸ばしていた。
「あ、蒼紫君。口の横にご飯粒ついてるわよ」
指先でそっと拭い取り、そのまま自然な動作で自分の口へと運ぶ。
「すまない、沖田さん。……美味いな」
「ふふっ、可愛い……」
唇からこぼれた直後に気づく。今の甘ったるい一言は、絶対に母親という立場で口にしていいものではない。いや、十歳の息子の前で披露する空気ではない。どっちにしろ最悪の失態。
案の定、鼓膜を破らんばかりの大音声が、平和な朝の食堂を真っ二つに引き裂いた。
「なんで父さんが、当たり前みたいな顔してウチで朝飯食ってんだよ!!!??なんでここにいる!!!??」
まあ、それはそうよね。朝起きて食堂へ来たら、母親の向かいに最も手強い父親候補が陣取っていたのだから。私でも同じ反応をするわ。
「??何を言う。夫婦暫定が同じ布団で寝起きするのは、男と女として当然の摂理ではないか」
「暫定って何だよ!!そこをボカすなよ!!母さん!!どういうことだ!!」
こういう非常事態は、適度に曖昧な言葉で濁した方が傷は浅く済む。けれど、うちの賢い息子は曖昧にすればするほど、余計に鋭く深読みしてくるのよね。
「いや〜、籍を入れて正式に結婚はしてないんだけどね?昨日の夜、蒼紫君がものすごく情熱的に求めてくるからさ。……つい流されて、久しぶりに抱かれてみたら……すごく良くて……」
「この淫乱妖怪!!」
言葉の刃が飛んでくるのが早すぎる。
「息子の前で明け透けに事後の感想を語るな!!教育に悪すぎるだろ!!」
「いやいや、弥彦。アンタも私がこうして男とヤラないと、この世に生まれてこなかったのよ?命の神秘に深く感謝しなさい」
「言い方!!言い方ってもんがあるだろ!!もう少し包め!!」
私としては限界まで綺麗に包んだつもりだったのだけれど、確かに素材の毒性が強すぎて包みきれていない自覚はある。
「……やはり、弥彦は俺に似ていると思うんだ。沖田さん」
「ああそうね〜。そうかもね〜。黒髪のところとか、目と耳が二つあるところとか〜」
「それは人類共通の特徴だ!!」
弥彦の言葉の返しが異様に冴え渡っている。起きたばかりなのに頭の回転が速くて偉いわ。
「父さんに謝れよ!!弥太郎にも蒼紫にも謝れ!!」
「!!」
ここで蒼紫君の瞳の奥が、静かな熱を帯びて潤むの、本当にやめてほしい。今の激しいやり取りの文脈のどこに、感動の涙を誘う要素があるというの。それなのに、氷のように冷たいはずの目が、みるみると蕩けるように柔らかくなっていくのよ。四乃森蒼紫二十五歳、己の中にある激重感情の制御が下手すぎる。
「なんでそこで感動してんだよアンタも!!ポンコツしかいねえ!!」
全面的に同意するわ。
私は綺麗に焼けた魚の、一番脂が乗った腹の部分を箸で摘み、蒼紫君の茶碗へとそっと乗せる。
「なんで母さん、そいつには魚の腹のいいとこやるんだよ!!」
「あら、朝から働く男にはしっかり栄養つけないと」
「俺も育ち盛りの働く男だよ!!」
「アンタは昨日、夕飯のあとに甘い団子を三本も平らげたでしょうが」
「それは別腹だ!!」
「弥彦」
蒼紫君が、一切の表情を消した真顔で口を開く。
「欲しいなら俺の分も半分やる」
「いらねえよ!!そういう余裕ある大人の男ムーブで父親ポイント稼ぐな!!」
この子、本当に周囲の人間をよく観察しているわね。一体誰に似たのかしら。私かしら。間違いないわね。
「じゃあ、ちょっと出かけてくるわ〜。蒼紫君も一緒に行く?」
「ああ。俺は貴女の影だ」
「どこ行くんだよ??朝っぱらから」
弥彦がまだ納得のいかない不服そうな表情で尋ねてくる。私はふと悪戯心を抑えきれなくなり、片目を閉じて色っぽくウインクを作ってみせた。
「内緒♥」
「まさか……!!朝から野外で……!?この変態!!」
「ホーッホッホッホ、なんとでも言いなさい〜。大人の余裕よ」
「変態!変態!淫乱変態!!」
二回目までは寛大な心で許してあげるけれど、三回目は流石に見過ごせない。
私は神速の踏み込みで間合いを詰め、その小さな頭頂部へ容赦なく拳骨を落とした。
「誰が何度でも言っていいと言った!!母親を心から敬いなさい!!」
「理不尽だぁぁぁ……」
弥彦が白目を剥いて畳へと沈み込む。うん、元気があって大変よろしい。これくらいの手加減なら死にはしないわ。死なせる気など毛頭ないし。
その派手な物音に驚いたのか、台所の奥から女中がそっと顔を出し、すぐさま気配を消して引っ込んでいった。見なかったことにする。賢い選択ね。この集英組本部で長く生き残るには、その程度の察しの良さと自己防衛能力が必須なのよ。朝食の席に新しい父親候補が我が物顔で座っていても、いちいち悲鳴を上げないだけの強靭な胆力がね。
でも、弥彦はそう簡単に引き下がれない。赤くなった額を押さえたまま、床からじっと私を見上げてくる。
「母さん……ひとつだけ確認するぞ」
「なによ」
「今日帰ってきたら、さらに父親候補が二人くらい増えてるとか、そういうのはないよな?」
「ないわよ、多分」
「多分って言った!!」
「絶対って言い切れないのが私の波乱万丈な人生なのよ」
「開き直るなよ!!」
蒼紫君が、そこでまたひどく大真面目な顔を作る。
「弥彦、安心しろ。今朝の時点で、俺が最も有力だ」
「何の順位だよ!!」
「父親候補の」
「そんなランキング作るな!!」
「では夫候補の」
「母さん!!こいつやっぱり追い出せ!!」
「無理よ、昨夜すごかったもの」
「そこに戻すなああああ!!」
◇◇
【下町の蕎麦屋】
「……沖田さん。どこに行くんだ? 逢引ではないのか?」
「お友だちのところよ。……ほら、あそこ」
本当の行き先は、決して甘い逢引などではない。
ただ、今日顔を合わせる相手は、好き嫌いの感情で量れば圧倒的に好きが勝る。
藍色の暖簾をくぐると、その姿はすぐに見つかった。
仕立ての良い背広に身を包んだ、長身の男。他者を射抜くような可愛げの欠片もない鋭い目つき。
その向かいの席には、上質な和装を美しく着こなした女。春風のように柔らかく微笑んでいるのに、少しでも油断すれば音もなく喉笛を掻き切られそうな、底知れぬ静かな強さをその身に隠している。
「……誰が友達だ」
開口一番、挨拶の代わりに飛んできたのは冷え切った声。
はいはい、斎藤さんらしいお出迎えね。
「え?新選組の苦楽を共に生き抜いた同志じゃないの!!」
「それは変わらんが、友達ではない。馴れ合うつもりは一切ない」
「ひどい!!相変わらず可愛げがないわね!今度、島田さんに言いつけてやるんだから!」
「好きにしろ」
ほんっと、どこまでいっても愛想というものがない。
昔からそうだったけれど、あの地獄のような戦場をくぐり抜け、時代が明治へと移り変わっても、この男の絶対的な可愛げのなさは不変なのよね。
裏を返せば、そういう芯のブレない意味では、誰よりも信用できる人間だとも言えるのだけれど。
そんな険悪な私たちのやり取りを、向かいの席の女の人が、口元を袖で隠して上品に笑って見守っている。
「そうですよ?あなた。せっかく沖田さんが足を運んでくださったのに、そのような冷たい態度は悪いです。主の教えにも反しますよ」
「……時尾」
「やっほー!時尾ちゃん、久しぶり!幕末ぶりね!」
高木時尾。今は藤田時尾。会津の武家の娘で、昔からしとやかで優しく、でも芯の部分は誰よりも強靭で、よりにもよってこんな無愛想な男を好きになったばかりに、随分と険しい人生を歩んでいる女。
「ええ、お久しぶりです、沖田さん。お互い、無事に子持ちの母となりましたね。……生き延びられたこと、主に深く感謝を」
祈るようなその静かな響きに、ああ、この子もまた、血塗られた明治の夜明けを必死に生き抜いてきたのだと痛感する。ただのきれいごとでは片付けられない、血と泥に塗れた命の重みが、その言葉には宿っている。
「え?時尾ちゃん、お母さんになったの!?おめでとう!」
「ええ、勉と言うのよ。今年でようやく二歳になるわ」
「へえ〜!」
命の誕生を喜び合う。そういうごく当たり前の話を普通にできることが、なんだかひどく胸の奥を温かくさせる。私たちが京都にいた頃は、子供の成長なんかじゃなく、誰が明日の夜明けにどこで死ぬか、そんな血の匂いのする話ばかりを繰り返していたのだから。
「勉くん、斎藤さん似?」
「目つきが悪いところと、妙に執念深いところはそっくりですわ」
「それ、父親似の要素としてかなり絶望的な部類じゃない?」
「でも可愛いのよ」
「あら、それはぜひ拝見したいわね」
「今度連れてまいります。あなたみたいに、食事中でも平気で人の弱みを的確に突くような子になりそうで、少しばかり心配ですが」
「それ、将来有望で賢いってことよ」
「違います」
時尾ちゃんとこうして他愛のない笑い話をしていると、あの血で血を洗う幕末が、すべて悪い夢だったかのように思える瞬間がある。
斎藤さんが懐から煙草を取り出し、ひどく不機嫌そうな手つきで火をつける。
「……時尾、無駄な昔話は後にしろ。一向に話が進まん」
「あら、ごめんなさい。あなた」
蒼紫君は私の斜め後ろ、ちょうど私の影が落ちる位置に静かに座っている。あの男、「貴女の影になる」と宣言したことは、文字通り一寸の狂いもなく忠実に実行するのよね。背後の気配のなさが、少し怖いくらいに。
「……で?うちの神谷要塞に、一体何の用だったの?お彦に喧嘩なんか売って」
斎藤さんは、紫煙を吐き出しながら顔色一つ変えない。
「お前には関係のないことだろう。俺は抜刀斎に用があっただけだ」
「それはないんじゃない?うちの大事なシノギを荒らしたんだから」
「……河上彦斎から聞いていないのか?ただの腕試しだよ。これから始まる『志々雄真実』との戦のために、あの神谷道場が俺たちの戦力になり得るかどうかのな。……結果は、十分すぎるほど狂った戦力だったがな」
(そりゃそうよ、裏で戦艦を五隻も隠し持ってるんだから)
「……私は、その志々雄との戦いには加わらないと、前にも言っているでしょう?」
「だからこそ、お前以外の戦力を試した。抜刀斎を再び表へ引っ張り出すためにもな。……それにしても、お前があの巨大な麻薬シンジケートの裏に一枚噛んでいるとはな」
「渋海って政治家に雇われてるんでしょ?」
「あんな小物、端から相手にもしていない。俺は俺の正義で動いている。……『悪・即・斬』。それこそが、俺たち新選組の絶対の正義だったはずだ」
正義、ねえ。
その言葉は、あまりにも便利すぎるのよ。勝った側も、負けた側も、どちらも自分を正当化するために使えるのだから。
何を悪と定めるのか。何をその刃で斬り捨てるのか。何を命に代えて守り抜くのか。時代が明治へと移り変わり、それをすべて勝者の側が都合よく書き換えていくのを、私はずっと見てきた。
見せつけられ、踏みにじられてきた。だから、その言葉を昔と同じような、真っ直ぐに語られると、どうしようもなく腹が立つ。
「……何を『悪』と見るのかは、私の自由だと言っているのよ」
喉の奥が、焼け付くように熱い。
「………それに、貴方まで新選組を『過去の遺物』として語るのね」
「…………何を言っている?」
「私は………新選組は…………まだ、負けていない。だから……私はまだ、こうして刀を振るい続けている。敗者のまま、おとなしく終わってなんかやれないのよ」
私の中の、一番奥底で燻り続ける、どうしようもない本音の炎だ。
幕末の動乱が終わり、名前を変えて、立場を変えて、愛した男と別れたり別の男と肌を重ねたりして、極道の肩書きを背負い、怪しげな軍産複合体の幹部まで務めているのに。
それでも、私の足元にはずっと、血に染まった浅葱色の英霊たちが重くまとわりついている。
近藤さんも、土方さんも、源さんも、鍬次郎も。
みんな、私の中ではまだ少しも終わっていない。
勝った側が「時代は変わった」と高らかに宣言しても、負けた側には、決して癒えることのない終わらない傷の痛みだけが残り続けるのよ。
「…………過去の亡霊に囚われるな、総司」
「近藤さんも土方さんも、お前がそんな怨念の塊となって生き長らえることなど、望んでなんかいないぞ。だからこそ、あの時……お前の離脱を許したんだ。ただ、生きてほしいと……」
その一言が引き金となり、私の中で必死に押し留めていた何かが、音を立てて決壊した。
「…………土方さんはわかってくれるわ!!近藤さんだって……心の底から納得はしていないはずよ!!」
気づけば、声が不様に大きくなっていた。周囲の静かな空気など、もう目に入らない。
「私が……私が、あの時『妊娠』さえしていなかったら………!!全員を救うのは無理でも、誰かの命は繋ぎ止められたかも知れない……!源さんは!?近藤さんだって、私の剣が傍にあれば逃がすことができた!!函館まで一緒に行ければ、土方さんだって死なせずに済んだ!!!最前線で、最後の最後まで、みんなと一緒に戦えた!!」
あの時の無力な自分を思い出す。
腹の中に小さな命が宿っていて、だからこそ刀を握って前に出ることが許されなかった自分を。
女であるという事実が、逃れられない重い呪いのように思えた絶望の瞬間を。
いくら剣の腕が立っても、両足が動いても、決して辿り着けない場所があるのだということを、血を吐くような思いで教えられたあの日々を。
私は強かった。
今だって、誰よりも強い自信がある。
でも、個人の武の強さだけではどうにも覆せない運命があるって、その時に痛いほど知った。
江戸に次々と届く訃報の絶望的な重さが、全部まだこの胸の奥底に生々しく張り付いている。私はあの頃、少しずつ大きくなる自分の腹を撫でながら、暗い部屋で何度泣き崩れたかわからない。
腹の子に謝ったのではない。遠く離れた冷たい地で、次々と死んでいく仲間たちに向けて。助けに行けない、無力な自分自身に向けて。
「そうしていれば……!新選組は、負けなかったかもしれないのに……!!」
そんな単純な話ではないことくらい、頭では分かっている。
歴史の流れも、圧倒的な兵站の差も、軍勢の数も、時代のうねりも。そんなもの、一人の剣士の存在だけで覆るほど簡単なものではない。
でも、それでも狂おしいほどに思ってしまうのよ。
斎藤さんは、すぐには何も言い返さない。
ただ、指に挟まれた煙草の火種だけが、じりじりと赤く短くなっていく。
「……とにかく、これ以上ウチの連中に手出ししないで」
「来るなら、その時は親玉を連れてきなさい。…………お願いよ、斎藤さん」
これは安い脅しではない。懇願だ。
「…………………………ちっ。考えておく。戦う気がないのなら、弥彦を大事に育ててやれ。近藤さんは言っていたぞ。『総司の子は、俺の孫みたいなものだ』とな。……俺たちは、確かに時代に敗北した敗残兵だ。……だが、勝者に尻尾を振って媚びる必要はない……俺は俺の牙を極限まで研ぎ澄ますだけだ。そう割り切った。だから今、ここにいる」
勝者に媚びない。
この男もまた、己の刃を曲げないまま、血反吐を吐いてここまで歩いてきたのだとわかるから。
「……沖田さん。私達は、ひょっとしたらまだ完全には負けていないのかも知れない……。だけど、幕府という『大元』が敗れ去ったの。それはどう足掻いても覆らない事実です」
私は、溢れそうになる涙を必死に誤魔化すために、わざと軽い調子で茶化す。
「貴女………そんな弱気なこと言う子じゃなかったわよね。結婚して、すっかり牙が抜けて腑抜けたの??」
そうやって憎まれ口を叩いて軽口にしないと、私の方の感情がどうにかなってしまいそうだったから。
その瞬間。
わずかに、空気が裂ける気配。
私が斎藤さんの方へ視線を向けた、ほんの瞬きほどの隙。
次の瞬間には、時尾ちゃんの手に短剣が握られており、その鋭い切っ先が、私の喉元、脈打つ頸動脈へぴたりと押し当てられていた。
速い。
しかも、ただ物理的に速いだけではない。明らかな殺気がない。筋肉が躍動する気配すらない。意識の隙間を縫うように、気づいた時にはもう致命の距離に届いている。これはひどく厄介。裏社会の下手な暗殺者より、ずっと洗練された動き。
「……牙が抜けるには、この人の妻という立場は、少しばかり刺激が強すぎるの」
微笑みを浮かべたまま。
春風のように柔らかい声のまま。
そこがまた、何よりも恐ろしい。
私は喉元に冷たい鋼の刃を当てられたまま、首筋に冷や汗を流して乾いた笑いを漏らす。
「……さすがね。腕は全く落ちてないようね。下手な暗殺者よりずっと速いわよ」
「お褒めの言葉にあずかり、光栄ですわ」
時尾ちゃんは、手首を滑らかに返してすっと短剣を引き、音もなく着物の袖口へと隠した。
「……あなたたちと過ごした、京都での日々は、今でも私の宝物」
そう言って、時尾ちゃんは真っ直ぐに私の目を見据える。
「だから、貴女ももう少し上手に割り切りなさい。過去は過去。今は今。………大人になるというのは、そういうことよ。主はすべてを許し、私達は拭えぬ罪の意識を抱えてもなお生きていく。それで良いじゃない」
強いな、と素直に思う。
この子もちゃんと、地獄を見て、大人になったんだ。
痛くてどうしようもないものを痛いまま胸に抱えて、それでも前を向いて歩く術を身につけた。
私は、まだその境地にまでは辿り着けていないのかもしれない。
◇◇
店を出る頃には、手付かずだった蕎麦の汁もすっかり冷めきっていた。
斎藤さんと時尾ちゃんは言葉少なに先に去り、私はしばらくその場から一歩も動くことができなかった。蒼紫君だけが、私の呼吸に合わせるように黙って隣にいる。
「……沖田さん」
その声は、変に同情して慰めるでもなく、かといって感情を問い詰めるでもない。
ただ、そこに確かに存在している。
己の影だと言った通りに。
「蒼紫君………新選組は、強かったわよね?みんな……。無様に散った負け犬なんかじゃ、なかったわよね?」
無敵だった昔の私を知っていて、泥に塗れた今の私も見ている誰かに、ただ言葉で肯定してほしかった。
蒼紫君は、すぐには答えない。
それから静かに私の隣へ歩み寄り、微かに震えている私の肩を、その腕で強く抱き寄せた。
昔の線の細い少年ではない。男の腕だ。着物越しに伝わるその質量はちゃんと重く、そして、泣きたくなるほど温かい。
「ええ。そうです」
「貴女も、井上さんも、永倉さんも、鍬次郎も……新選組はみんな、誰よりも強かった。俺がこの両の目で見た、紛れもなく最強の剣客集団だ。その事実は、誰にも否定させない」
ああ、よかった、と心底思う。
まだ誰かが、ちゃんと私の誇りを言葉にしてくれるんだって。
新選組の時代は終わった。
幕府は戦に負けた。
明治という新しい世はもう始まって久しい。
それでも、決して負けていないもの、奪われていないものがあると思いたいのよ。
鍛え上げた剣の腕も、曲げられない意地も、共に笑い共に愛した人たちの名前も。
「……ありがと」
「いえ」
「……帰りましょっか」
「はい」
今回はかなり感情の振れ幅が大きい回になりました。
好きな台詞や場面があれば、ぜひ感想をいただけると嬉しいです。
弥彦の父親は誰だと思いますか?
-
明神弥太郎
-
四乃森蒼紫
-
志々雄真実