転生して型月版・沖田総司になったけど、労咳を克服したら明神弥彦の母になっていた件 〜るろ剣世界で最強のママやってます〜 作:だいたい大丈夫
たぶん静かめです。
【夕暮れの商店街】
私は河上彦斎。通称、お彦。
神谷要塞の剣術師範であり、暗殺者であり、専属メイドであり、弥彦ちゃんの未来の正妻。
肩書きが多い女は強い。これは揺るぎない事実。幕末から明治へと続く時代において、己の存在意義を一つしか持たない人間はだいたい早く死ぬ。現に私は今もこうして呼吸を続けている。だから多分、この生存戦略は正しい。
今日はお義母さんと商店街へ買い出しに来ている。
私の両腕には、ずっしりとした重み。大根の土の匂い、ネギの青臭さ、指先から熱を奪う豆腐の冷たさ、それに糸こんにゃくと牛脂と醤油と砂糖。ついでに乾物屋で仕入れた昆布もある。完璧。今夜の夕飯はすき焼き。神谷要塞が裏社会の力で戦艦を五隻買い揃えようとも、食卓にはきちんと温かい家庭料理が並ぶ。極めて文化的。大丈夫。
八百屋の威勢の良い値引きの声、魚屋の包丁がまな板を叩く乾いた音。そして惣菜屋から漂う、油の弾けるコロッケの匂い。私は揚げ物の匂いを嗅ぐと、人間がここで確かに生活を営んでいるのだと実感する。鉄錆のような血の匂いの方が、命の境目を感じる分だけ生きている実感は強いけれど、それは言わない方がいい。今日はただの買い物の日。平和な日常。大丈夫。
お義母さんは少し前を歩いている。
背筋が真っ直ぐに伸び、藍色の着物の裾が足早に翻る。極道の姐さんらしい、隙のない歩き方。けれど、その背中にはほんのわずかな迷いが張り付いている。私にはわかる。人を斬る直前の間合いも、言いにくい話を切り出す前の沈黙も、空気の重さはだいたい同じだから。
唐突に、お義母さんの草履が止まる。
振り返った顔の半分を夕日が朱色に染め上げ、目元の鋭さを一層際立たせている。
「ねえ、お彦。……あんた、まだウチの弥彦を狙ってんの?」
私は首を傾げる。
狙う。日本語とは酷く難解な言語だ。命を奪うのか、心を奪うのか、あるいは将来を絡め取るのか。その一言で意味合いがまるで変わる。元・新選組一番隊組長であるお義母さんは、時折こうして主語と目的語を端折る癖がある。圧倒的な説明不足。よくない。
「弥彦ちゃんは味方。可愛い婚約者。絶対に斬らない。お彦さんが何があっても守る。大丈夫」
「…………誰が命の話をしてるのよ」
お義母さんの肩が大きく落ち、呆れたような重たい空気が周囲に漂う。短い言葉でこちらの知能を疑う時の反応。少し失礼。
「真面目に話してるのよ、恋愛的な意味で。本気で添い遂げる気があるのかって聞いてるの」
なるほど。そういうこと。
しかし真面目な話をするにしても、八百屋の軒先は選ぶべきではない。買い物籠の中でネギがしなっている。豆腐の水気も気になる。情緒が足りない。
私はお義母さんの顔をじっと観察する。
目尻に微かな焦燥があり、瞳の奥には怒りにも似た熱が燻っている。そして、目の下には隠しきれない疲労の色。
これはあれだ。更年期。命の母案件。多分そう。
「真面目に味方。お義母さんは心配性。……更年期?命の母、恵に調合させて後で飲む?大丈夫」
「実年齢四十四歳のアンタに言われたくないわ!!誰が更年期よ!!私はまだ三十二歳、ピチピチよ!!」
大気がびりびりと震えるほどの威圧感。
鼓膜を突く声量と顔の赤さから、やはり更年期の気配が濃厚に漂っている。
しかし、私は賢いのでこれ以上口には出さない。今すでに一回口を滑らせている。ここで追撃すれば、青々としたネギの葉先で顔面を打たれる危険性がある。ネギは長い。間合いが広い。危険。
「はぐらかさないで。アンタは、女として弥彦のことが『好き』なのかって聞いてるのよ。遊びじゃないわよね?」
私は少しだけ思考を巡らせる。
弥彦ちゃんを好きか。
好き。とても好き。
あの廃墟で、乾パンをくれた時から好き。泣きそうな顔で私に食って掛かるところも好き。正論を振りかざしながら、たまに阿片の帳簿をきっちり合わせる手際の良さも好き。私が「お義母さん」と呼ぶたびに「違う!」と顔を真っ赤にするところも好き。つまり全部好き。
遊びではない。私は何事にも真面目。恋も殺しも一切の手抜きはしない。適当なのは嫌い。
「私は弥彦ちゃんと結婚する。愛してるから。誰にも渡さない」
お義母さんの目が、少しだけ丸くなる。
予想よりも真っ直ぐに打ち返した時の、戸惑いの顔。面白い。もっと回りくどい、照れ隠しの答えを期待していたのかもしれない。私は回りくどいのは嫌い。暗殺も告白も、急所を一直線に貫くのが一番いい。
「……何で?あの時、黒笠事件の時に、あの子から乾パンをもらっただけで、そこまで惚れ込んだの?」
「違う。……きっかけはそう。恩を返すため。でも、今は違う」
最初はただの恩返しだった。
干からびていた胃袋に乾パンを押し込まれた。あの硬くパサついた小麦の味と、子供のくせに当たり前のような顔で食べ物を差し出してきたあの手のひらの温度。
私はあの日、かなり困った。
でも今は違う。
昔の私は、復讐なり大儀を理由に人を斬った。
天誅とか、尊王とか、そういう立派な言葉はとても便利。便利だけれど、無機質で軽い。人間の首よりずっと軽い。斬り捨てた後には、空虚さしか残らないことが多かった。
私は多分、その空虚さに少し疲れていた。
疲れていても仕事なら斬る。斬るけれど、そこに意味は欲しかった。
今は意味がある。
弥彦ちゃんを守る。その目的だけで剣を抜ける。それは多分、この上なく幸せなこと。
私は少しだけ声を落とす。
「わたしはあの子を守る。一生。……琴は??」
お義母さんが夕日の沈む方角へ目を向ける。
ああ、ひどく嫌な顔だ。腹の底から決意を固めた人間の顔。こういう表情を浮かべている時の人間は、だいたいろくでもない場所へ行く。
「そうね。私は……『賭けたい男』を見つけたの。……だから、行くわ」
賭けたい男。
なるほど。
一瞬、不倫の二文字が頭をよぎる。しかし彼女は独身だから不倫ではない。未亡人の恋は自由。法には触れていない。多分。いや、戸籍上の夫の定義にもよる。全然大丈夫ではない。
「……弥彦ちゃん、連れてくの?新しいお父さんのところ?」
こういう実務的な話は先にしておかないといけない。子供の親権は大事。神谷要塞にも一応、家庭としてのルールは存在する。たまに不意の銃声で吹き飛ぶけれど、存在はしている。
「いえ。私一人で行くわ。水野も宇佐美も、もう神谷道場の組織に深入りしすぎたし、あの子たちはあそこに残す」
深入り。
その言葉選びは少し事実と異なる。
今の神谷要塞は、もはや膝まで浸かっているような生易しい状態ではない。肩まで、いや頭の先までどっぷりと沈み込んでいる。阿片、銃火器、戦艦、密輸ルート、上海マフィアとの繋がり、警察のもみ消し工作、そしてドンのくわえる葉巻。あれはもう風呂ではなく、底なしの沼。足を取られて当然。しかし居心地は悪くない。福利厚生も充実している。だから余計に抜け出せない。
「弥彦ちゃん、お母さんいないと悲しむ。寂しがる。……行くの、やめるべき」
「それはできないわ。どうしても行かなきゃいけない場所があるのよ」
お義母さんの瞳の奥を覗き込む。
更年期ではない。違う。
これは武士の顔。己の死に場所を定めた時の顔。生きるか死ぬかの道を、誰のせいにもせず自分で選んだ人間の顔。
嫌いじゃないけれど、ひどく困る。それは家族に向けるべき顔ではないから。
「何でこんなことを?自分の子供を置いていくなんて。極道の姐さん失格」
口にした瞬間、お義母さんの手が私の肩を強く掴む。
「私の大事な息子を、アンタに『託す』ってことよ!!言わせんな!バカ!!察しなさいよ!!」
託す。
そういう直接的な言葉を、あの人が使うのは珍しい。
からかいでも軽口でもなく、本気の熱量。
なるほど。そういうこと。
つまり私は今、お義母さんから正式に認められたということになる。未来の嫁。専属メイド。絶対の守護者。要するに家族側への昇進。嬉しい。けれど状況は全く嬉しくない。ひどく複雑。
「……もっと丁寧に言えばいいのに」
「言ってる暇ないのよ!!」
「短気。やっぱり更年期」
「まだ言うか!!」
耳障りなほど元気な声色が返ってくる。少し安心する。けれど、決して安心している場合ではない。
◇◇
買い物を終え、私たちは商店街の喧騒から抜け出す。
籠の中でネギが揺れる。大根の重みが腕にのしかかる。豆腐から滲んだ水が指先を冷たく濡らす。
道が二手に分かれる。
神谷要塞へ続く道と、駅へと続く道。
お義母さんの草履が止まる。
「……そろそろ、道場に『帰る』夕飯、作る。すき焼き」
「そうね。……私は、そろそろ『行くわ』」
京都。
志々雄。
十本刀。
名詞は全て頭に入っている。組織図も暗記している。敵対した場合の被害予測も、ドンがまとめた緻密な帳簿で把握済み。ついでに言えば、神谷要塞の方が多分圧倒的に強い。
火力も資金も海路も掌握している。戦艦もある。戦艦五隻を個人所有している現実は普通に狂っているけれど、現にあるのだから仕方ない。
だから余計に理解できない。
圧倒的に勝算が低い方へ、わざわざ自分から飛び込んでいく意味が。
「弥彦ちゃんに、さよなら言わないの?顔見たら決心が揺らぐ?」
お義母さんは背中を向けたまま、静かに答える。
「私が生き残れば、いつか必ず迎えに行くわよ。……それまでは、お別れよ」
その言い方が嫌い。生き残れば、という前提。それは初めから死を覚悟して行く人間の言葉。
そういう自己犠牲は嫌い。生きる前提で動くべき。死ぬ前提で重いものを託されても困る。残される側の痛みを考えていない。
「……その間に、弥彦ちゃんも死ぬかもしれない。この時代は物騒。薫のドンぶりも悪化してる。燕もトリガーハッピー。要塞は危険がいっぱい」
脅しではない。純然たる事実。
薫は最近ますます「裏社会の神」としての自覚を深めつつある。燕は重火器を握ると瞳孔が開いて別人の顔になる。恵は新薬という名の劇物を楽しそうに改良し続けている。
左之助は斬馬刀をぶん回し、雷十太は警備主任として完全に馴染み、太郎は味噌と大根を抱えて帰ってきたかと思えば次の瞬間には平然と暗殺者の顔をする。
危険しかない環境。
お義母さんが振り返る。
口角を上げ、ニヤッと笑う。泣きそうな感情を強引に隠す時の、あのずるい笑い方。
「そこは、残るアンタが死に物狂いで守りなさいよ!!そのための『託し』でしょ。最強のメイドなんでしょ?」
最強のメイド。
その響きは嬉しい。嬉しいけれど、言葉の甘さに絆されてはいけない気がする。
「……私は、アンタが行くのは反対。残るべき。家族は一緒にいるべき」
「もう決めたことよ。私の意志は曲がらないわ」
こういう時、言葉を尽くしても絶対に止まらない人間がいる。昔から知っている。目の前に立つこの女が、まさにその典型。
だから私は、ネギと大根の入った買い物籠を地面に置く。
静かに。豆腐が崩れないよう、音を立てずに。
それから、帯に差した刀の柄へ手をかける。
――カチリ。
親指で鯉口を切る。硬い音が響く。
「……もし、向こうでアンタが、神谷の敵になるなら……止める。ここで」
空気が凍りつく。
商店街帰りの長閑な夕暮れが、一瞬にして血なまぐさい幕末の路地裏へと変貌する。
お義母さんの手も、流れるような動作で刀の柄へ添えられる。壬生にいた頃の、濃密な血の匂いを纏った沖田総司の気配が溢れ出す。
「………『斬る』じゃなくて?随分と甘くなったわね、人斬り彦斎」
「私は、家族を斬ることはない。……だから、斬らずに『止める』手足の腱を切って、道場の地下に幽閉する。大丈夫」
「フッ……私は容赦なくアンタを斬るわよ?」
「弥彦ちゃんが相手でも?」
お義母さんの指先が、わずかに硬直する。
わかりやすい。完全に動きが止まった。
「……ほら、斬れない。なら、私は止める。貴女は、あちらの修羅の道に行くべきではない。死にに行くようなもの。勝算がない」
「私は納得していないの!!」
声が空気を震わせる。怒りだけではない。
「新選組は……まだ負けていない。なら、あの人に懸けて、私が証明しなきゃならないのよ!!」
論理が飛躍している。
新選組と志々雄は全くの別組織。歴史的な連続性もない。掲げる思想も根本から違う。
それなのに、この人の中では完全に一本の線で繋がっている。女の感情は時々、戦艦の装甲より重く、銃弾の理屈より速く動く。怖い。
「……その賭ける男は、新選組の人間?違うなら、論理が破綻してる。矛盾。ただの八つ当たり。自己満足」
「私が新選組よ!!」
間髪入れずの即答。
すごい。そこに一切の迷いがない。
少しだけ羨ましくなるほど、強固な自己定義。
「なら、私が勝てば、新選組の勝利になるのよ!!敗者のままじゃ終われないの!!」
「……ここにいて、神谷の武力で政府に勝てばいい。結果は同じこと。大丈夫。ウチの方が志々雄より強い」
これは何の誇張もない事実。
戦艦五隻。強力な上海ルート。改良型神谷式ガトリング。徹甲榴弾。警察内部に張り巡らせた汚職網。陸軍や海軍への強力なコネクション。物理的な戦力で計算すれば、志々雄より薫ドンの方が圧倒的に強い。そこにロマンは欠片もないけれど、勝率は極めて高い。
お義母さんが言葉に詰まる。
図星。痛いところを突かれた顔。
けれど、それでもこの人は行くのだとわかる。だから私は刀の柄からゆっくりと手を離す。今ここで刃を突きつけても、問題の本質はそこにはない。
「……結局、私たちは『女』理屈じゃない。好きな人に、ただ命をかけたいだけ。……違う?その人のこと……好きなの?」
お義母さんの顔が、一気に熱を帯びる。
沈みかけの夕日よりも赤い。面白い。完全な図星。
「…………………………ええ。そうね。……きっと、そうなんだと思う。馬鹿みたいよね」
なるほど。そういうこと。
やっと全てのピースが繋がる。
口では色々と立派な大義名分を並べている。けれど芯にあるのは、結局のところそこ。恋。好きな男に自分の命ごと賭けたいという衝動。女はそれだけで十分に狂える。
私にもわかる。弥彦ちゃんのことになると、私だって理性を手放してだいぶ狂う。だから、責めることはできない。
そこまで分かると、どうしても確かめておきたいことが一つ浮かぶ。
私は少しだけためらい、それでも口に出す。こういう時に聞いておかないと、一生もやもやが残るから。
「……弥彦ちゃんの、本当のお父さん……その人?」
お義母さんは少しだけ視線を上げ、遠くの空を見る。
寂しさと、深い愛しさが混ざり合ったような顔。そういう顔を見せられると、もう答えは聞くまでもない。
「前にも言ったでしょ。候補は三人。……蒼紫君かもしれないし、弥太郎さんかもしれない。……でも。あの人であって欲しいと……私は、心のどこかで思ってるかもね」
それはもう、物理的な力では止められない。
戦略でも理屈でもない。女としての意地。恋に狂った乙女の情念。
そういうものを私はよく知っている。幕末の動乱から、ずっと間近で見てきた。無理に止めようとすれば、余計に遠くへ行ってしまう厄介な代物。
地面に置いた籠を持ち上げる。
ネギと大根が少し重い。けれど持てる。私には筋力がある。大丈夫。
「……そう。それなら、止められない。女の意地。恋する乙女。今日は見逃す。……弥彦ちゃんは、私が立派な極道に育てる。大丈夫」
お義母さんが笑う。
今度は誤魔化しではない、本当に嬉しそうな表情。
「……ふふっ。ありがとう、お彦。弥彦のこと、頼んだわよ」
「言われなくても頼まれてる。専属メイド。未来の嫁。守るのは当然」
「そこはブレないのね」
「ブレない。大丈夫」
お義母さんが静かに背を向ける。
夕暮れの濃い影に溶け込むように、真っ直ぐに歩いていく。
私は追わない。追えないのではなく、追わない。
今日は見逃すと決めたから。
次に刃を交えて止めるのは、本当に敵として立ち塞がった時だけ。
遠ざかる背中を見送りながら、私は少しだけ考える。
この人は本当にバカだ。圧倒的に強くて、器用で、頭も回るのに、恋をした途端に世界で一番不器用になる。弥彦ちゃんにも一言も告げない。お別れも言わない。手紙も多分残さない。そういう器用な真似ができない。
だから残される方はひどく困る。母親を奪われた子供は、もっと困る。
けれど、それも母親としての不器用な愛情なのかもしれない。
自分が泣く顔を子供に見せたくないから、背中だけを置いていく。
強いふりをしたまま、修羅の道へ行く。
それで本人はいいと思っている。
本当にバカ。決して好きなタイプではない。でも嫌いでもない。私にとっては、大切な未来のお義母さんだから。
私は一人で歩き出す。
神谷要塞の方角へ。夕飯の材料を両腕に抱えて。すき焼きの準備は待ってくれない。恋に狂って出奔する母親がいたとしても、腹は減るし、家は回る。そこが生活の強さ。そこが一番大事。
帰り道、私は弥彦ちゃんの顔を想像する。
多分、最初は状況が理解できずに怒る。
次に、感情を爆発させて大声で吠える。
その後で「なんで何も言わねえんだよ!」と、涙を堪えた声で怒る。
そして最後に、少しだけ黙り込む。
その沈黙が、見ているこちらには一番痛い。
私はその時、何て声をかければいいのだろう。
お母さんは恋する乙女だから仕方ない、とでも説明するのか?
いや駄目。絶対に殴られる。弥彦ちゃんの拳が飛んでくる。
「お前もそういうこと言うのかよ!!」と、額に青筋を立てて怒るに決まっている。
可愛い。いや今は違う。今はちゃんと対応を考える。
◇◇
要塞の異様な外観が見えてくる。
門をくぐると、案の定、地下の射撃場から重低音が響いてくる。
バン。ババン。ドガン。
元気。大変よろしい。けれど多分、夕飯前に消費していい弾薬の量ではない。
警備の若い衆が私を見て深く頭を下げる。
「お彦様、おかえりなさい!」
「ただいま」
「い、いえ!自分が!」
「大丈夫。これは弥彦ちゃんの栄養。私が運ぶ」
若い衆が、ほんの少しだけ顔を引き攣らせて後ずさる。
最近みんな、私の発言の危険度と真意を正確に学習している。賢い。教育の成果が出ている。
台所へ材料を置いてから、私は奥の居住区へ向かう。
先に薫に報告すべきか、弥彦ちゃんに伝えるべきか、少しだけ迷う。
でも優先すべきは弥彦ちゃん。
ドンへの組織的な報告は大事だけれど、これは組織の問題である以前に、家族の話。
廊下の角を曲がったところで、ちょうど弥彦ちゃんと鉢合わせる。
木刀を肩に担ぎ、口を尖らせた不満そうな顔。多分さっきまで、誰かに理不尽な内容の稽古をつけられていたのだろう。要塞の日常風景。可哀想。可愛い。
「おう、お彦。おせえな。母さんは?」
嘘は苦手。暗殺者として生きてきたけれど、身内への誤魔化しは下手。
だから真っ直ぐに、事実だけを伝える。
「……行った」
表情が固まり、呼吸の音すら不自然に途切れる。
やはりそうなる。
「は?」
「お義母さん、賭ける男のところ行った。しばらく帰らない。……弥彦ちゃんは、私が守る」
「……は?」
二回目の言葉は、ひどく低く、震えていた。
まずい。ここから感情の爆発が来る。私は心の中で見えない盾を構える。抜刀の斬撃より、この感情のぶつけ合いの方が心に痛いかもしれない。
「何それ。どういうことだよ。どこ行った?なんで?いつ帰る?」
矢継ぎ早の質問。
いい。まだ理性が飛んでいない。会話が成立している。チャンス。
「恋。女の意地。いつ帰るかは不明。生きてれば迎えに来るって」
「意味わかんねえよ!!」
予想よりわずかに早かった反応。可愛い。いや、今は違う。
「なんで止めなかったんだよ!!」
その非難は、胸の奥に冷たい刃として刺さる。
私は逃げずに、真っ直ぐ見返して答える。
「止めた。剣も抜いた。でも、恋する乙女だった。……今日は、止められなかった」
「なんだよそれ……!!」
弥彦ちゃんが木刀を持たない方の手を強く握りしめる。
泣く一歩手前の、痛切な顔。嫌い。こういう顔は嫌い。無理にでも守りたくなるから嫌い。
私は静かに膝をつき、目線の高さを合わせる。
こういう時に上から見下ろして説き伏せるのは違う。私はそういう感情の機微を、最近少しずつ学んでいる。メイドは日々成長する。
「……大丈夫」
「よくねえよ!!母親いなくなってんだぞ!!何が大丈夫なんだよ!!」
「お母さんが誰を好きでも、どこへ行っても、弥彦ちゃんは弥彦ちゃん。価値は少しも変わらない。……私がいる。薫もいる。燕もいる。左之助も剣心もいる。むさいけど雷十太もいる。だから、完全に一人ではない」
「最後の一人、いらねえ情報だよ!!」
良かった。まだツッコミを入れるだけの理性が残っている。
私は言葉を重ねる。
「それに、お義母さんはバカだけど、弥彦ちゃんを捨てたわけじゃない。……託した。そう言った。だから私は守る」
「……………」
沈黙。
さっきよりも重く、長い沈黙。
多分、その小さな頭の中で必死に考えている。怒るべきか、泣くべきか、それとも京都へ追いかけるべきか。十歳の子供には背負いきれないほどの情報量。可哀想。可愛い。
「……母さん、なんか言ってたか?」
「頼んだ、って」
「それだけ?」
「あと……最強のメイドなんでしょ、って」
泣きそうな感情を強引に誤魔化す時の、不器用な音。
知っている。この要塞で、何度か見ている仕草。
「……ふざけやがって」
「うん。ふざけてる」
「勝手すぎんだろ」
「うん。勝手」
「でも……」
「うん」
「……帰ってきたら、ぶん殴る」
それが一番正しいと思う。
「その時は、私も手伝う。大丈夫」
「お前は手伝うな!!母さん死ぬだろ!!」
「死なない程度に殴る。私、加減できる」
「信用ならねえ!!」
ここまで言えば少しは落ち着くかと思ったけれど、やはり「母親がいない」という現実はひどく重い。
弥彦ちゃんは顔を背ける。
私はその横顔を見つめる。
子供。まだ十歳の子供。なのに極道の跡取りという重責。可哀想。可愛い。
「……夕飯、すき焼き。食べる?」
「食う」
うん、大丈夫。
人は泣きたくなる夜でも腹が減る。腹が減るうちは、なんだかんだ生きていける。
◇
鉄鍋の中で醤油と砂糖がぐつぐつと煮え立った頃、薫がふらっと台所へ入ってくる。
口に葉巻はなく、今日は湯呑みを持っている。裏社会の首領でも夕飯前は喉が渇くらしい。人間っぽい。少し安心。
「お彦さん、買い物ありがと。……あれ?琴さんは?」
私は包丁で豆腐を切り分けながら、淡々と答える。
「恋。出奔。しばらく不在」
「え?」
「賭けたい男のところ。女の意地。見送った」
薫の持つ湯呑みが少し傾く。
危ない。熱いお茶は目に入れば立派な武器になる。
「ちょっと待って。出奔!?なんで!?首領会議も明日の兵器在庫確認もあるのに!?」
「恋する乙女は、会議より恋が優先。仕方ない。大丈夫」
「大丈夫じゃないわよ!!組織図の二番手が飛んだら現場が回らないでしょうが!!」
ドンとしての威厳よりも、実務の崩壊を恐れる切実な響き。
「だから私が夕飯を作ってる」
「そこじゃない!!」
頭を抱える薫の横から、ひょっこりと燕が顔を出す。
今日は重火器を持っていないから、目の焦点が普通。可愛い。多分無害。
「お彦さん、ガトリングの予備弾帯が足りなくて――あれ、琴さんいないんですか?」
「色恋沙汰」
「わあ……大人ですねえ」
「感心するところじゃねえだろ」
騒ぎを聞きつけて左之助まで来る。鼻が利く。すき焼きの甘い匂いに釣られて来た可能性が極めて高い。彼の食欲は信用できる。
「で、弥彦には?」
「言った」
「死んだか?」
「死んでない。ぶん殴るって言ってた。健全」
「それは健全なのか……?」
私は鍋へ砂糖をさらに追加する。
甘い方がいい。今日くらいは。
「……はあ。分かったわ。じゃあ今夜から私が暫定で全体指揮を取る。お彦さんは弥彦のメンタルケアと警護。左之助は余計なこと言わない。燕ちゃんは面白半分で狙撃しに行かない」
「えー」
「行くな!!」
ドンはちゃんとドン。組織の要が欠けて家が傾いても、夕飯の前にはどうにか形を整えてみせる。神谷要塞はやっぱり頭がおかしいけれど。
鍋の蓋を開ける。
濃密な湯気が天井へ向かって立ち昇る。
今日のすき焼きは、いつもより少し甘い。
でも、こういうひどく疲れる日の夕飯は、それくらいでちょうどいい。
弥彦の父親は誰だと思いますか?
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明神弥太郎
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四乃森蒼紫
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志々雄真実