転生して型月版・沖田総司になったけど、労咳を克服したら明神弥彦の母になっていた件 〜るろ剣世界で最強のママやってます〜 作:だいたい大丈夫
かなり重たい回になっています。
【帝都病院 特別病室】
夜半を回った病棟の静けさの中、この扉の向こうからは、誰もが物音を立てるのを恐れているような沈痛さが滲み出していた。
鼻腔を突く石炭酸の匂い。扉越しにも微かに聞こえる、ひどく頼りない、間延びした呼吸音。その掠れた音が鼓膜を震わせるたびに、心臓を直接握り潰されるような錯覚を覚えさせる。
その音が、自分の最も大切な女の命が尽きかけている証だと知った瞬間から、明神弥彦の芯からは体温が消え去っていた。
病室は十分な広さがあるはずなのに、逃げ場などどこにもない。
中央のベッドに横たわる、お彦――河上彦斎の姿が、視野のすべてを塞いでいた。
白と黒の着物を纏い、事もなげに人を斬り、いつだって涼しい顔で大丈夫だと笑っていた女。それが今は無機質な病院着に着せ替えられ、胸や腕、首元に至るまで痛々しい縫合の痕と血の滲む包帯に縛られている。
彼女は今はただ自力で呼吸を繰り返すことにすら命を削っている。息を吸い込むたびに喉の奥で鳴る濁った異音。その微かな響きが、弥彦の背筋に冷たい粟を立たせた。
直視するだけで内臓が捩れるように痛い。いや、ただ見ているだけで済む自分がひどくちっぽけで呪わしい。
「お彦は!!お彦はどうなんだよ!!!!!」
胸の奥で渦巻く感情を叩きつけたいのに、喉が勝手に引きつって音を歪める。
呼び出された外科医は、恵の伝手で引っ張ってきた帝都最高峰の腕利きだという。
ひどく慎重に言葉の破片を選び取っている。腕の立つ人間が言葉を濁す時ほど、恐ろしい瞬間はない。
「……瀕死の重傷です」
「あと一分、止血と搬送が遅ければ確実に命を落としていたでしょう」
薫が両手で口元を覆う。左之助の拳が白く染まる。蒼紫の視線が床に落ちる。部屋の隅で壁に身を預ける部瀬は、表情一つ変えない。だが、その沈黙そのものが鉛のように重い。
「じゃ、じゃあ……助かるのか!?元気になるんだろ!?なあ!!」
医者は首を横に振った。
残酷なほど、ゆっくりと。
「今は『まだ死んでいないだけ』です。肺への深い刺突。心臓の壁面の損傷。さらに右腕の筋肉と神経の断裂。今この瞬間も、心臓が破裂しないこと、呼吸が止まらないことが医学的に不思議なくらいです」
言葉を返す者などいない。
返せるはずもなかった。
気休めを言う余裕も、嘘で取り繕う意思もない。
「彼女は今、息をするだけで自らの血で溺れ、心臓が動くたびに全身を裂かれるような苦痛の中にいます。五分後に容態が急変し、そのまま命を落とす可能性もある。……正直に申し上げて、助かる見込みは極めて低い」
反論したかった。
ヤブ医者だと罵ってやりたかった。金ならいくらでも積むから、もっと腕の立つ医者を連れて来いと喉まで出かかっている。なのに、音になる前にすべてがぐちゃぐちゃに混ざり合い、熱い涙となって逆流してくる。
「身内の方は……覚悟をしておいた方が良いかと思います」
その瞬間、薫の膝から力が抜け落ちた。
「そんな……。嘘でしょ……。あのお彦さんが……」
神谷要塞の首領。戦艦五隻を躊躇いなく買い上げる女帝。警察のトップと結託し、阿片と兵器で新世界を構築しようとする裏社会のドン。その彼女が、今だけは年相応の十七歳の少女のように崩れ落ちている。
その傍らで、部瀬が静かに唇を動かした。
「……彦斎は、最後まで沖田総司を斬ろうとはしなかった」
「完全に殺しに来た相手に対して、峰打ちや軌道を逸らす戦い方をした。その『優しさ』が命取りになった」
左之助の顔から表情が消え去った。
「優しさで片付けてんじゃねえよ!!」
床を蹴り上げる鋭い音。病室の静寂など、今の左之助の思考には存在しない。部瀬の襟首を荒々しく掴み上げ、そのまま壁へと叩きつける。
「一緒に護衛についてたんだろ!!なんで庇わねえ!!テメェの槍はどうした!!!」
部瀬は一切の抵抗を見せない。
槍さえあれば怪物を凌駕する男が、今はただ首根っこを掴まれたまま虚空を見つめている。
「……言い訳にしかならないが、俺はもう一人の刺客と戦っていた。あの男も、空間を支配する俺の槍を躱す怪物だった」
「だからって――!」
「俺の完全な失態だ」
きっぱりと断言され、左之助の言葉が空転する。
「……うるせえよ」
弥彦だった。
左之助が振り返る。
弥彦はベッドの縁から一歩も動かず、両手でお彦の指先を包み込んでいた。痛々しい右腕には到底触れられない。傷のない左手の先だけを、壊れ物を扱うようにそっと握りしめている。
「やめろ、左之助……。今は、お彦の前で……」
もう限界だった。
これ以上何かを発すれば、すべてが崩れ落ちてしまう。
「……弥彦君は、そばにいてあげてください。せめて、それくらいしか我々には……」
頷くことさえできず、ただ指を握る力を強めることしかできない。
血の気を失った青白い唇が、微かに動いたような気がした。
「お彦……」
「おい、聞こえてるか?なあ、起きろよ……。お前、いつもみたいに大丈夫って言えよ。言ってくれよ」
返答はない。
壁に掛けられた時計の秒針が、淡々と無慈悲に時を刻むだけだ。
「……母さん……なんでだよ」
「どうしてだよ……。この間まで、一緒に買い物して、あんなに普通に笑ってたじゃねえか。なんで、家族を……お彦を……こんな目に……」
蒼紫が弥彦の背後に立つ。
今は、何も語らない。紡ぐべき言葉を見失っている。
ただ、大きな手のひらが弥彦の背中を静かに撫でた。
その無言の優しさが、弥彦の奥底に溜まっていた涙の堰を完全に破壊する。
「どうしてだよ!!」
「この間まで、みんな一緒だったじゃねえか!!母さんも、お彦も、薫も、剣心も……変な奴らばっかでも、家族みたいにやってたじゃねえか!!なのに、なんで母さんは、家族を殺そうとするんだよ!!」
誰の口からも答えは出ない。
蒼紫も、薫も、左之助も、列も、燕も。
行き場のない問いかけだけが、無機質な壁に何度も跳ね返っては消えていく。
その時だった。
お彦の指先が、ほんのわずかに、確かに動いた。
「……お彦?」
眼差しは閉ざされたまま。
唇も音を紡がない。
だが、その微細な生命の鼓動ひとつで、弥彦は顔をくちゃくちゃに歪めて笑った。
「ほら見ろ!!生きてる!!お前、まだ俺の声聞こえてるんだろ!!」
医者が何かを口にしかけ、しかしすぐに口を閉ざした。
今はただ、見守るべきだと悟ったのだろう。
◇◇
【神谷要塞 地下大会議室】
夜。
今夜の議題は単一。
大久保利通暗殺。
河上彦斎重傷。
そして、志々雄一派への報復。
誰一人として軽口を叩く者はいない。
普段ならふざけ合うような連中も、今は呼吸の音すら殺している。ここで空気を読まずに場違いな発言をすれば、その瞬間に銃弾を撃ち込まれても文句は言えない。それほどまでに研ぎ澄まされた緊迫感。
薫がゆっくりと顔を上げた。
病室で絶望に打ちひしがれていた少女の面影はない。そこにいるのは、冷徹に組織を動かすドンだった。目の下の赤みだけが僅かな痕跡を残しているが、紡ぎ出される声は氷のように冷たく澄んでいる。
「……もう、御前試合だの団体戦だの、そういう悠長な話をしている場合じゃないわね」
誰一人、異論を挟む余地はない。
「政府のトップが一人殺された。お彦さんは瀕死。琴さんは明確に敵側に立った。これでなお交渉で済ませる気なら、私は首領を辞めた方がいい」
列が弾かれたように立ち上がった。
「俺は出ます」
「いや、出させてください。時守のやり口を知っている俺がいれば、京都の裏も表も多少は読みやすくなる。お彦師範の仇も取る。志々雄も、沖田も、時守の裏切り者も、まとめて俺の手で――」
「まだ死んでない!!」
空気を切り裂くような薫の声が、部屋中を震わせた。
列の体が強張り、隣に座る宇佐美までもが肩をビクンと跳ねさせる。
薫はきつく目を閉じ、胸の奥で暴れる感情を無理やり押さえ込むように、短く息を飲み込んだ。
「……ごめんなさい。感情的になった」
「でも、縁起でもないことは言わないで。私はまだ、お彦さんが戻る方に賭けてる」
列は深く首を垂れた。
「……すみません、首領」
「ううん。気持ちはわかる」
薫の視線が、円卓を囲む面々を舐めるように動く。
「ただし、先遣隊は必要よ。京都へ向けて動く。遅れて本隊が入る前に、現地の情報収集、拠点の確保、敵の配置の確認。やることは山ほどある」
部屋の隅で気配を消していた燕が、ゆっくりと立ち上がった。
瞳から一切の光が消え去り、無機質な殺意だけが宿っている。
「……私を行かせてください」
磨き上げていた銃の手入れを止める。カチリと鳴るシリンダーの音が、異常なほど鮮明に鼓膜を打った。
「弥彦君の心の傷のケアは……彼を一番愛している、お彦さんに任せます。彼女が死の淵から戻ってくると、私は信じています」
十歳の少女が口にするには、あまりにも完成されすぎた思考。
だが、その後に続いた言葉は常軌を逸していた。
「その代わり、お義母さんは私が撃ちます」
「話を聞いて、それでも戻る気がないなら、私が眉間に風穴を開けます。姑を正すのも嫁の務めですから」
「……わかったわ。燕ちゃん、許可する」
「ありがとうございます、首領」
「ただし、撃つかどうかは現地判断よ。まずは情報。感情だけで走らないこと」
「了解です。まずは眉間の座標を確認します」
「そっちじゃないわ」
重苦しい空気の中に、ほんの一滴だけいつもの日常が混ざり込む。
決して安心できる類のものではないが、今の彼らにはそれすらも救いだった。
宇佐美が手を挙げる。
「俺も行きますよ。燕師範代を一人で出すのは危なっかねえ。銃の扱いは俺の方が――」
「遅いですよね」
燕の言葉が鋭く差し込まれる。
宇佐美のこめかみに怒りの血管が浮かんだ。
「おい小娘」
「でも経験はあります。なので同行は歓迎します」
「上から言うな!!」
水野が肩をすくめて割って入る。
「まあまあ。宇佐美、ここで拗ねてても始まらんぜ。俺も行きます。琴の姐さんには恩があるし、だからこそケジメは俺ら集英組でつけるべきだ」
「そうね」
薫が同意する。
「宇佐美さん、水野さん。燕ちゃんの護衛と現地の火力支援をお願い」
「了解」
「合点です」
列が一歩前へ踏み出す。
「俺も中山道ルートに入ります。東海道は政府軍と時守の主力が動く。だったら、敵の目がそっちに向く間に、俺たちが裏から京都へ潜り込む方がいい」
芹は時守の筆頭として、この場に同盟者でありながら異物として存在している。漆黒の洋装、腰のサーベル、一切の感情を排した瞳。歩く災厄のような女だが、今の神谷要塞の狂気の中では不思議と馴染んでいた。
「妥当ね。東海道は私たち時守が押さえる。表街道で政府と精鋭が動けば、敵の注意はそちらへ向く。中山道に少数精鋭を流すのは合理的だわ」
「じゃあ俺もそっちだ。細かいことは知らねえが、京都に着いたら暴れりゃいいんだろ?」
「概ねそうだけど、言い方が悪いわ」
「でも、左之助。あんたの突破力は必要。先遣隊に入って」
「へっ、任せろ」
その奥で、蒼紫が音もなく立ち上がった。
「俺は本隊だ」
誰も理由を尋ねない。
蒼紫の行動原理など、聞くまでもなく明らかだからだ。
「……沖田さんを連れ戻す。時守でも志々雄でも関係ない。立ち塞がるものは斬る。以上だ」
極限まで削ぎ落とされた言葉。
だが、その奥底に渦巻く執着の密度が異常に濃い。
「……重い」
蒼紫の表情が一瞬だけ曇ったが、すぐに元の冷徹さに戻る。
「軽い愛など信用できん」
「そういう問題じゃねえんだよ!!」
薫が小さく咳払いをして、脱線しかけた会議の空気を修復する。
「……はい。湿度の高い愛の確認は終わりね。話を戻すわよ」
「終わってない」
蒼紫が執拗に食い下がる。
「終わりよ」
薫の言葉は絶対だ。
「今は京都侵攻の話が先」
首領の最後通牒に、蒼紫でさえ口を噤んだ。
「中山道。東海道。海路。進軍ルートはこの三つ。中山道が先遣隊。東海道は時守と剣心、蒼紫さんたち主力。海路は私たちが後続。雷十太先生」
雷十太が胸を張る。
殺人剣の使い手というより、すっかり要塞の頼れる警備主任として定着した男だ。
「うむ!」
「私が動けるまで、要塞の防衛と、弥彦、それからお彦さんと恵さんをお願い」
「任された!!吾輩の飛飯綱で、近づく刺客は海の藻屑にしてくれようぞ!」
そこからは、実務的な軍議が矢継ぎ早に進められた。
補給線の確保、連絡網の構築、隠れ家の選定、上海ルートを通じた武器の密輸、京都での潜伏先、時守との暗号プロトコルの共有。
議論の内容は完全に国家の正規軍が交わす軍略そのものだ。参加者の半数が阿片と重火器の密売組織の人間であることを除けば。
だが、この空間を満たしている根源的な熱量は、ただ一つ。
凄絶な怒り。
大久保利通が暗殺された事実。
国家のパワーバランスが崩壊した現実。
そして何よりも、お彦が致命傷を負い、生死の境を彷徨っていることへの止めどない怒り。
その黒い熱が、巨大な組織の歯車を恐ろしいほどの速度で回転させていく。
会議の締めくくりに、薫が静かに宣言した。
「……目的は三つ。琴さんの奪還、あるいは制裁。志々雄一派の無力化。必要なら時守との共同戦線。そのために動く」
「私たちは、もう後戻りしない。大久保卿の弔いも、お彦さんの仇も、全部まとめて京都で片づける。いいわね?」
「応!!」
重厚な意志の合唱が、地下深くの空間を大きく揺るがせた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
病室の場面や会議の場面で印象に残ったところがあれば、ぜひ教えてください。
弥彦の父親は誰だと思いますか?
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明神弥太郎
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四乃森蒼紫
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志々雄真実