転生して型月版・沖田総司になったけど、労咳を克服したら明神弥彦の母になっていた件 〜るろ剣世界で最強のママやってます〜   作:だいたい大丈夫

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遭難した先遣隊は、山中で破戒僧・悠久山安慈と出会う。
そこで授けられたのは、万物を砕く破壊の奥義。
そしてその地は、左之助にとって忘れられない場所だった。


二重の極み、下諏訪にて

【名もなき山中】

 

名もなき山中。俺たちはそそり立つ岩壁の前に並んでいた。

 

 正確に言えば、中山道へ復帰するための山奥だ。昨日時点では完全なる遭難状態だった。方向感覚も現在地も喪失し、残された食糧は干からびた饅頭が一つ。頼れるのは左之助さんの直感と、燕師範代の語る「山の気持ち」という抽象的な概念のみ。暗殺者として訓練を受けた身でも、滅多に遭遇しない絶望的な状況だった。

 

 現在は悠久山安慈という破戒僧の粗末な小屋で庇護を受け、帰還への道程を示してもらい、ついでに命懸けの奥義修行まで課せられている。

 

 安慈和尚は、岩を背にして俺たちの前に立つ。温厚そうな風貌でありながら破壊の奥義を振るう。存在を構成する要素が、あまりにも矛盾に満ちていた。

 

「万物には抵抗がある。ただ力任せに殴っても、衝撃は完全には通らぬ」

 

 和尚の拳が岩の表面に触れる。静寂。

 

「拳が触れる瞬間に第一撃を入れ、その抵抗が戻る刹那に第二撃を叩き込む。衝撃を二重に重ねることで、内部から対象を破壊する。これが破壊の極意、二重の極みだ」

 

 骨の鳴るような鈍い音。

 直後、岩盤が内側から崩壊する。

 

 火薬の匂いはない。刃の閃きもない。人間の肉体の一部が、強固な石の塊を砂礫のように変えた。時守の非人道的な訓練施設でさえ、これほど常軌を逸した現象は目にしたことがない。物理法則というものに対する最低限の敬意が、そこには欠落していた。

 

「私が石一つを完全に破壊できるようになるまで、ひと月かかった。血を吐く努力の末だ。お前たちも、ひと月で成し遂げろ。できぬなら、強さを求める資格なしと見なし、ここで死んでもらう」

 

「ひと月か。上等じゃねえか」

 

 本来であれば、命を奪うという宣告に対して警戒を抱くべきだ。だが、神谷要塞という異常な環境に身を置いていると、死刑宣告すら退屈な会議中の咳払い程度の脅威にしか感じられなくなっている。感覚の麻痺。俺自身も、随分とその空気に染まりきっていた。

 

 燕師範代が、控えめに小さな手を上げる。

 

「和尚様。質問です」

 

「何だ」

 

「拳でやると手が痛くなりませんか」

 

「痛い。だがその痛みに耐え、己の肉体を鍛えることで、初めて奥義は身につく」

 

「なるほど。では、私は拳以外でやります」

 

和尚の強張った目元が、ほんの少しだけ和らぐ。

 

「君のような華奢な娘が、無理に修める必要はない。手を壊せば銃も扱えなくなるだろう」

 

「はい。だから銃でやります」

 

「……何?」

 

 燕師範代は、腰のホルスターからリボルバーを引き抜く。引き金には指をかけない。銃把をしっかりと握り込み、グリップの底部を岩肌へと押し当てた。

 

「第一撃と第二撃のタイミングが大事なんですよね。じゃあ、拳じゃなくて銃床でも同じ理屈です」

 

「いや、待て。理屈としてはそうだが、武器に頼れば己の肉体で極めることには……」

 

「えい」

 

 乾いた打撃音。

 次の瞬間、硬質な岩がパラパラと崩れ落ちる。

 

 巨大な岩ではない。だが、十歳の少女の腕力を考慮すれば、現実に起こり得ない光景だ。銃床が岩を叩き割ったというより、岩側が自らの脆さを悟って自壊したかのように錯覚する。

 

「できました。手も痛くないです。すごいです、二重の極み。弾がなくても敵の顎を砕けます」

 

 安慈和尚は、言葉を失って立ち尽くしている。

 

「……今、できたのか」

 

「はい。和尚様、合ってますか?」

 

「合ってはいる。合ってはいるが、何かが違う」

 

 時守の特務訓練で一年を費やして習得した潜入術を、お彦師範が「気配を消せば大丈夫」の一言で新人に模倣させていた時の、あの徒労感に似ている。費やした時間を否定されたわけではないが、世界の構造があまりにも理不尽に思えるのだ。

 

「違いますか?」

 

「……いや、破壊はできている。だが、私は拳でひと月……」

 

「和尚様は真面目なんですね」

 

「真面目で悪いか」

 

「いえ。弥彦君も真面目です。だから好きです」

 

 唐突な話題の跳躍。安慈和尚は再び対応に苦慮している。十歳の少女から、破壊の極意と淡い恋心を同列の熱量で語られているのだ。

 

「列、お前もやるのか」

 

宇佐美さんが腕を組み、興味深げに視線を向けてくる。

 

「はい。ただ、俺は拳ではなく銃で試します」

 

「お前もかよ」

 

「時守では、武器を自分の身体の延長として扱えと教わりました。なら、銃でも応用できます」

 

 安慈和尚の眉間に、深い皺が刻まれる。

 

「お前たちの流派は、奥義を何だと思っている」

 

「便利な生存技術です」

 

「身も蓋もないな」

 

 二挺のリボルバーを抜き放ち、数歩離れた岩へ銃口を向ける。二重の極みの本質は、ごく短い時間差での衝撃の重層化だ。肉体を用いずとも、同一座標に刹那の遅れで二発の弾頭を撃ち込めば、近似の現象を引き起こせる公算が高い。

 

 課題は着弾の周期。早すぎれば単なる同時被弾となり、遅すぎればただの連続射撃に留まる。弾速、距離、風向き、岩石の傾斜角、発砲時の反動。脳内で変数を処理し、最適解を導き出す。

 

「燕師範代、少し下がってください」

 

「はい。列さんの弾丸、見たいです」

 

「見えるものではありません」

 

「見ます」

 

 彼女の動体視力であれば、本当に弾筋を捉えかねないという恐ろしさがある。

 肺の奥に空気を溜め込み、呼吸を停止する。

 

 初弾。

 知覚の限界ほどの遅延を挟み、次弾。

 

 二度の破裂音が、鼓膜の上で一つに融合する。岩の表面に鉛玉が潜り込んだ直後、内部から弾けるような亀裂が走った。完全な粉砕には至らない。だが、確かな破壊の痕跡が刻まれている。

 

「ふむ。少し遅いか」

 

 宇佐美さんが目を丸くする。

 

「いやいやいや。今の、銃で岩に極みっぽいことやったぞ。十分おかしいだろ」

 

「拳より再現性があります。銃弾の方が速度を固定できますから」

 

「お前、淡々と変なこと言うよな」

 

安慈和尚は顎を擦りながら、困惑と純粋な好奇心の入り交じった視線を岩へ向ける。

 

「理屈としては分かる。二つの衝撃を同一点に重ねるなら、銃弾でも不可能ではない。だが、人体相手には貫通して衝撃が逃げる。向いているのは装甲や岩盤、鉄板だ」

 

「はい。対物破壊用ですね。戦艦の装甲や、トーチカの壁に使えるかと」

 

安慈和尚はゆっくりと瞼を閉じる。

理不尽な現実を消化しようとする、苦悩の表情だった。

 

宇佐美さんが愛用の拳銃を弄る。

 

「なら俺もやる。列みたいな連射精度は無理だが、跳弾ならいけるかもしれねえ」

 

「宇佐美さんの跳弾は、反射の軌道をずらして時間差を作る技術です。第一撃を直接、第二撃を跳弾にすれば、着弾差を調整できます」

 

「そういうことだ。俺のコンセントレーション・ワン、二重の極み版だな」

 

「名前が長くなりますね」

 

「じゃあコンセントレーション・ツーだ」

 

「安直です」

 

 宇佐美さんは周囲の樹木と岩の位置関係を測る。纏う空気が鋭く研ぎ澄まされ、集英組の射撃師範としての貌が現れる。

 

 初弾が岩肌を穿つ。

 次弾は太い木の幹を掠めるように弾かれ、軌道を変えて寸分違わぬ座標へ飛び込む。

 

 岩盤が内側から弾け飛ぶ。直接射撃よりも破壊の規模が大きい。

 

「よし、できた」

 

 安慈和尚の視線が、虚空を彷徨い始める。

 

「跳ね返った弾で……私がひと月かけた奥義を……」

 

「和尚、落ち込むな。あんたの教え方が上手いんだよ」

 

 左之助さんが肩を叩く。それが真の慰めとして機能しているかは定かではない。

 水野さんは長柄の大鎌を地面に寝かせ、柄の部分を両手で握り直す。

 

「俺は鎌の刃じゃ無理ですね。刃が入って切れちまう。柄で打つか、足でやるか」

 

「足?」

 

 和尚の声に、隠しきれない疲労の色が滲む。

 水野さんは岩に肉薄し、軽やかに跳躍した。

 

「踵落としで、第一撃と第二撃をずらす感じですかね」

 

 振り下ろされた踵が岩の頂部を叩く。

 接触の瞬間に足首のスナップを利かせ、さらなる衝撃を重ね掛ける。

 岩に深い亀裂が走る。

 

「お、できた。案外いけますね」

 

「足で……」

 

 安慈和尚が白目を剥きかける。

 

「和尚様、大丈夫ですか」

 

 燕師範代が純粋な懸念を込めて見上げる。

 

「大丈夫だ。少し、自分の修行の意義を見失いかけているだけだ」

 

「大丈夫じゃないですね」

 

「君が言うな」

 

残るは左之助さん一人だ。

 左之助さんは拳を固く握りしめる。小細工は用いない。得物にも頼らない。愛用の斬馬刀すら脇に置き、ただ己の肉体のみで無骨な岩に立ち向かう。

 

「いくぜ」

 

 拳が振り抜かれる。

 鈍い衝突音。石は形を保ち、代わりに皮膚が裂けて血が滲む。

 

「くそっ」

 

 再び打ち込む。

 血飛沫が舞う。

 

 何度打っても、岩は砕けない。

 安慈和尚の双眸に、微かな熱が灯る。

 

「相楽左之助。焦るな。それではただの二連撃だ。拳を当てるのではない。抵抗を感じ、戻る瞬間に第二撃を差し込め」

 

「分かってる。けど、体が追いつかねえ」

 

「それでいい。追いつかせるのだ。肉体と感覚を合わせろ」

 

「上等だ」

 

 左之助さんの口角が上がる。

 皮膚は破れ、骨が軋みを上げているはずだ。それでも、目の前の障壁を楽しむかのように笑っている。

 

 その不器用な姿が、少しだけ眩しく思えた。

 飛び道具で技術を模倣するのは合理的だ。生存率を高めるための最適解。それが時守で刷り込まれた暗殺者の価値観である。

 

 だが、左之助さんの拳には、俺たちが効率の名の下に切り捨てた過程が宿っている。

 痛みを真正面から受け止め、ただひたすらに壁を殴り続ける。愚直で、非効率的。だが、その無謀な直情性が、時に計算を凌駕する強さを生み出す。

 

「左之助さん、すごいですね」

 

「はい。俺たちとは違う強さです」

 

「私も拳でやった方がいいですか」

 

「やめてください。弥彦に怒られます」

 

「むう」

 

「銃床で十分です」

 

「でも、弥彦君を守るなら、もっと強くなりたいです」

 

 銃器を与えれば劇薬となる少女。屈託のない笑顔で恐るべき破壊を口にする。だが、その根底にあるのは、大切な者を守りたいという純粋な願いだ。

 

「強くなるのと、壊れるのは違います」

 

「お彦さんもそう言うと思いますか」

 

「言うと思います。たぶん『生きていることが一番偉い。大丈夫』と」

 

「お彦さん、早く起きるといいですね」

 

「はい」

 

 

 

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 

【数日後】

 

修練は続く。

 

 初日で燕師範代は銃床による極みの精度を確立した。二日目には二挺拳銃のグリップを用い、異なる二点の岩を同時に粉砕する軌道を試し始める。安慈和尚が「それは二重ではなく二カ所だ」と指摘したが、彼女は「二重の極み二倍ですね」と無邪気に笑ってのけた。

 

 三日目、宇佐美さんが跳弾による極みを実用レベルに引き上げる。壁面、立木、地面。あらゆる反射角を利用して遅延を生み出し、対象を内側から崩壊させる。「これで装甲馬車もいける」と嘯く宇佐美さんに、和尚は「装甲馬車を相手にするとは」と虚空を仰いでいた。

 

 水野さんは鎌の柄や足技での極みを自在に操るようになる。裏社会を生き抜いた男ならではの、実戦を想定した容赦のない崩し技。視覚的な痛みを伴う技術だった。

 

 俺自身も、銃弾を用いた対物破壊の精度を向上させる。遠方の硬質目標に対する有効な打撃手段。近接戦闘を想定し、弾切れ時の銃身を用いた打撃も想定する。和尚から「せめて武器を大切にする精神はあるのだな」と問われた。

 

「銃は命ですので」

 

「拳は命ではないのか」

 

「拳も命ですが、修理費が違います」

 

「金の話か」

 

「神谷要塞の経費は厳しいです」

 

 和尚はついに沈黙を選択した。

 

四日目、燕師範代が未知の領域へ踏み出す。

 

「列さん、見てください」

 

「嫌な予感がします」

 

「両手の銃床と、両足の踵で、四カ所同時に極みを出します」

 

「なぜそうなるんですか」

 

「囲まれた時に便利です」

 

「囲まれた時は撃ってください」

 

「弾がない時です」

 

「逃げてください」

 

「お彦さんなら逃げません」

 

「お彦師範を基準にしないでください」

 

 制止の言葉は届かない。

 

 小柄な身体が宙を舞い、両手両足を四方の岩石へ打ち込む。バランスを崩し、地面に転がる。擦り剥いた膝から血が滲み、目尻に涙が浮かぶ。それでも彼女は動きを止めない。

 

 見かねた安慈和尚が歩み寄る。

 

「もうよい。君は十分に才がある。そこまで無理をするな」

 

「お彦さんは、もっと痛いです」

 

 その一言が、全ての慰留を封じ込めた。

 

五日目の夕刻。

 燕師範代は、四点同時の極みを完全に成立させる。

 打撃音。四つの小石が、寸分違わぬタイミングで粉のようになって散った。

 安慈和尚が完全に白目を剥く。

 

「……何という才能だ」

 

「和尚様、ありがとうございます。これで多人数に囲まれても、全方位粉砕できます」

 

「十歳の娘が口にしてよい言葉ではない」

 

「神谷要塞では普通です」

 

「神谷要塞が怖い」

 

 同意しかない。

 

六日目。左之助さんの拳は痛々しく腫れ上がり、巻かれた布は赤黒く変色している。それでもなお、岩の前に立ち続ける。

 

「左之助さん、今日は休んだ方がいいです」

 

 静止の声をかけると、左之助さんは不敵に笑う。

 

「列、お前らはもう使えるようになったんだろ。俺だけ置いていかれるわけにはいかねえ」

 

「俺たちは武器で効率化を図っています。左之助さんは真面目です」

 

「効率でも何でも使えるならいいじゃねえか」

 

「それはそうです」

 

「でも俺は、拳でやる。俺は拳でぶん殴るしか能がねえからな」

 

「斬馬刀もあります」

 

「あれはデカすぎて使えないだろ」

 

「確かに」

 

「だから拳だ」

 

 あまりにも単純な理屈。

 しかし、構造が単純であるほど、芯は強靭になる。

 

「相楽左之助。お前の拳は、ただ力が強いだけではない。怒りがある。だが、怒りだけで殴れば衝撃は散る。怒りを一点に絞れ」

 

「一点に、か」

 

「お前は何を壊したい」

 

 沈黙が降りる。

 

「腐った政府だ」

 

「俺たち赤報隊を騙して、先生を殺して、それでも偉そうに新しい時代を語ってやがる連中。その看板を、俺はぶっ壊してえ」

 

「ならば、その怒りを拳の先に置け。散らすな。力むな。ただ、叩き込め」

 

 左之助さんが瞼を閉じる。

 俺たちも固唾を飲んで見守る。

 放たれた拳が岩に食い込む。

 一撃。

 

 知覚できないほどの空白。

 二撃。

 

 岩盤の表面に、蜘蛛の巣状の亀裂が走る。

 砕けるには至らない。

 

だが、音の質が、伝わる振動が、今までとは明らかに異なっていた。

 左之助さんは自身の拳を見つめる。

 

「……今のか」

 

 安慈和尚が深く頷く。

 

「近い」

 

その夜、左之助さんは口数を減らし、焚き火の傍らで黙々と拳を冷やしていた。燕師範代が、焼けた蛙の串を差し出す。

 

「食べますか」

 

「おう。あんがとよ」

 

「左之助さん、明日できると思います」

 

「何で分かる」

 

「弥彦君が、そういう顔をする時があります。意地になってるけど、ちゃんと前に進んでる顔です」

 

「へえ。俺は弥彦に似てるのか」

 

「はい。二人とも、殴られても立つ感じが似ています」

 

「そりゃいいな」

 

七日目の朝。

 山肌を撫でる空気は凍てつくように冷たい。

 左之助さんは岩の前に立つ。俺たちはその後方に控え、安慈和尚は腕を組んでその背中を見据えている。

 

「いくぜ」

 

 無駄な力みのない、自然体の挙動。

 

 初撃。

 対象の抵抗を感じ取る。

 

 刹那の遅延。

 次撃。

 

 爆発音に似た轟音。

 

 岩石の塊が、内側からの圧力に耐えきれずに木端微塵に弾け飛ぶ。左之助さんの生身の拳が、岩を砂礫に変えたのだ。

 

「……できた」

 

 震える手を見つめる。

 

「できたぞ……」

 

 次の瞬間、血まみれの拳が天を突いた。

 

「やったぞおおおお!!」

 

「相楽左之助。お前は大した男だ。銃や鎌で応用した者たちとは違い、己の肉体で極みに到達した。お前こそ、真の継承者だ」

 

宇佐美さんが俺の耳元で囁く。

 

「俺たち、完全に邪道枠だな」

 

 水野さんが肩をすくめる。

 

「実戦では勝てばいいんですけどね」

 

「でも、少しばかり悔しさを感じます」

 

「分かります」

 

 燕師範代が、明るい音を立てて拍手する。

 

「左之助さん、すごいです。一週間もかけて頑張りましたね」

 

 左之助さんの顔から、達成感がわずかに削ぎ落とされる。

 

「燕、それ褒めてるか?」

 

「褒めてます。私は一日でしたけど」

 

「言わなくていいんだよ、そこは」

 

 安慈和尚がこめかみを押さえる。

 

「才能というものは、こうも残酷なのか」

 

修練の総仕上げを終え、左之助さんが和尚に向き直る。

 

「ところで和尚。そろそろ本気で道に戻りたい。中山道の本道ってどっちだ?」

 

 安慈和尚は、山脈の向こう側を指し示す。

 

「ここは下諏訪だからな。あちらに行けば宿場に出る。そこから西へ向かえばよい」

 

 その瞬間、左之助さんの動きが完全に静止した。

 拳の血を拭う手が、空中で凍りついたように止まる。

 

「……下諏訪?」

 

 安慈和尚が頷く。

 

「そうだ。ここは下諏訪の山奥だ」

 

 左之助さんが片手で顔を覆う。

 喉の奥から、乾いた音が漏れる。一見すると笑い声のようだが、感情の色が全く異なっていた。

 

「ハッ……ハハ……そうかよ」

 

誰も口を挟むことができない。

 

「どうりでな。俺の勘が外れたんじゃねえ。いや、外れたんだろうが……そうか。ここか。ここに来ちまったのか」

 

燕師範代が、和尚の袖を軽く引く。

 

「和尚様」

 

「どうした」

 

「左之助さんは、赤報隊の生き残りなんです」

 

「赤報隊の隊長、相楽総三様たちが処刑された場所が、下諏訪なんです。左之助さんにとって、ここは……たぶん、一番悲しい場所です」

 

和尚が短く息を呑む。

俺も知識の範疇としては把握していた。赤報隊が偽官軍の汚名を着せられて処刑された事実。左之助さんが、その無念を背負って生きていること。

 

 だが、情報としての知識と、その因縁の地を踏みしめる現実は全く違う。

 下諏訪。

 

 その地名がもたらした重圧が、左之助さんの背中を別人のように変質させていた。

 やり場のない怒りと、底知れぬ悲哀。

 

「俺はよ、子供だった。先生が言う新しい時代を信じた。年貢半減。弱い奴が少しでも楽になる世の中。そういうのが来ると思ってた」

 

「だが政府は、都合が悪くなったら先生たちを偽官軍にした。全部なすりつけて処刑した。新しい時代を作るとか言いながら、最初にやったのがそれだ。俺は忘れねえ」

 

 安慈和尚は、深く目を伏せる。

 

「そうか。お前の怒りは、この地に根を張っているのだな」

 

「ああ。俺は政府が嫌いだ。あいつらが掲げる正義も、国も、綺麗事も信用しねえ。琴姐さんがあっちに行ったのも、たぶん分かる。敗者のままじゃ終われねえって気持ちは、分かる」

 

 砕け散った岩の残骸へ視線を落とす。

 

「でも、お彦をあんな目に遭わせた。弥彦を泣かせた。それは別だ。そこはぶん殴る」

 

あまりにも左之助さんらしい帰結だった。

 政府への憎悪と、仲間を傷つけられた怒り。相反するはずの感情が、一つの拳の中で矛盾なく同居している。

 

 安慈和尚が、経文を唱えるような低い声で応じる。

 

「私もまた、政府を許せぬ者だ。守るべき子らを守れなかった。あの時代に、力がなかった。だから破壊を選ぶ」

 

「和尚もか」

 

「そうだ。私は救えなかった者たちのために、この拳を振るう」

 

 左之助さんの視線が、和尚を真っ直ぐに射抜く。

 言葉以上の何かが、二人の間で交錯しているのが分かった。

 

 時代に踏みにじられた者同士の共鳴。

 この邂逅が単なる偶然なのか、それとも下諏訪の地に眠る無念が引き寄せた必然なのか。

 

「和尚」

 

「何だ」

 

「二重の極み、ありがとな」

 

「礼はいらぬ。お前が何に使うか、それを見ればよい」

 

「まずはお彦の仇だ」

 

「そして?」

 

「いつか、腐った政府の面をぶん殴る」

 

 安慈和尚はゆっくりと頷く。

 

「ならば、その拳を折るな。怒りに呑まれず、怒りを極みに変えろ」

 

「おう」

 

俺たちは出発の準備を整えた。

 

 別れ際、燕師範代が深く頭を下げる。

 

「和尚様。私、ちゃんと強くなります」

 

「無理をするな」

 

「無理しないと届かない相手がいます」

 

「ならば、壊れる前に休め」

 

「お彦さんみたいですね」

 

「その者は、良い師なのだろう」

 

 燕師範代の顔に、柔らかな笑みが広がる。

 

「はい。怖くて、変で、優しい人です」

 

「そうか」

 

 左之助さんは歩み寄り、安慈和尚と拳を突き合わせた。

 

「また会うかもな」

 

「その時、お前がどちら側に立つかは分からぬ」

 

「敵ならぶん殴る」

 

「よかろう」

 

 

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 

【下諏訪宿・近郊】

 

 

 木々の隙間から、下諏訪の宿場町の屋根が見え始める。

 

 左之助さんの足が止まる。遠くの景色を、静かに見渡す。

 

 ここで、彼の信じた大人が死んだ。彼の中の何かが決定的に壊れ、同時に何かが形作られた場所。

 

 俺たちは言葉を発さず、彼の時間を見守る。

 左之助さんは、傷だらけの拳を強く握りしめた。

 

「隊長。俺、強くなったぜ」

 

「この拳で、今度こそ守る。奪われっぱなしじゃ終わらねえ」

 

 梢が揺れる音が返るだけで、当然ながら返答はない。

 だが、左之助さんの口元に、微かな笑みが浮かんだ。

 

「行くぞ、お前ら。京都だ」

 

「今度こそ道を外れないでくださいね」

 

 俺が釘を刺すと、左之助さんが肩越しに振り返る。

 

「列、お前、俺への信用なくなってねえか」

 

「最初から地理に関する信用はありません」

 

「ひでえ」

 

「戦闘面では信用しています」

 

「ならいいか」

 

 燕師範代が、懐から折り畳まれた地図を取り出す。

 

「次は私が」

 

「燕師範代、地図は俺が持ちます」

 

「むう。山の気持ちなら分かるのに」

 

「山の気持ちはもう十分です」

 

 宇佐美さんと水野さんが、堪えきれずに吹き出す。

 俺は地図を受け取り、正しい方角へ向きを合わせる。下諏訪から京都までの道程は長い。だが、確かな道筋は示されている。

 

俺たちは、京都への道を進む。




読んでくださってありがとうございました。
今回は二重の極み修行と、左之助にとっての下諏訪の話でした。燕たちの応用修行や、左之助と安慈のやり取りなど、印象に残った場面があれば教えていただけると嬉しいです。

弥彦の父親は誰だと思いますか?

  • 明神弥太郎
  • 四乃森蒼紫
  • 志々雄真実
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