転生して型月版・沖田総司になったけど、労咳を克服したら明神弥彦の母になっていた件 〜るろ剣世界で最強のママやってます〜 作:だいたい大丈夫
自分は天才で、歴史を変えられる。
そう信じて疑わなかった少女が、やがて『河上彦斎』という名を背負うまでの物語です。
時の番人一覧【ネタばれあり】
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河上彦斎になる日
【東京 帝都病院】
なんだか、すごく寒い。いや、違う。熱いのか。自分の体がどうなっているのか、もう自分でもよくわからない。
右腕は完全に串刺しにされている。そこから左胸、そして背中へとまっすぐに貫かれた大きな傷跡。誰がどう贔屓目に見ても、これは致命傷以外の何物でもない。
「しっかりしなさい!お彦!目を閉じちゃ駄目よ!」
鼓膜を打ち据える恵の声が、まるで深い泥沼の底から響くように遠い。
傷口を塞ごうとする彼女の手のひらの圧迫感。しかし、そこから私の持つ熱が、とめどなく外の世界へと溢れ出していくのがわかる。
ごめんね、恵。
その治療、たぶん無駄になっちゃう。
いくら呼びかけられても返事をする力もなくて、私の意識はずるずると深い泥の底へと沈み込んでいく。
『私の犯した罪は……』
光の届かない思考の淵で、自らに問う。
『信頼を預けてくれた人達を……結局、誰も救えなかったこと』
ああ、本当に私は大馬鹿野郎だ。自分のことを天才だなんて本気で信じ込んでいて、でも肝心な時には全く何の役にも立たないんだから。
だから、宮部先生も……稔麿さんも……みんな死んでしまった。
あの夜。あの池田屋の夜から……私の時間は完全に止まったままで、私はきっと、あの時に死んでいたんだ。生ける屍みたいに、ただ漫然と息をしていただけなんだ。
◇
【京都】
幕末、元治元年六月五日。
『池田屋事件』の正確な日付をすっかり忘れていたのは、本当に一生悔やんでも悔やみきれない痛恨のミスだった。私には未来の、歴史の知識がちゃんとあったはずなのに。
新選組がいつ、どこで、誰を襲うのか、歴史の授業で習うような常識だったはずなのに。宮部先生たちがここで死ぬことは、歴史の必然として最初から分かっていたはずだった。
『間に合う!私は絶対に間に合う!!だって私は……天才なんだから……!』
生ぬるい風が吹く京都の闇夜を、私は神速で駆け抜けていた。
心臓が破裂しそうなくらい脈打っていて、息をするたびに肺がヒューヒューと鳴って痛かった。それでも、足は絶対に止められなかった。
『大丈夫……!絶対に大丈夫!!!!』
私が助けに入る。私がこの手で歴史を変える。私がみんなを救うんだ。
そんな何の根拠もない自信だけで、私は真っ暗な京都の町をひたすら走り続けていた。あの時の私は、自分がこの世界の主人公なんだって、本気で信じて疑っていなかったんだ。
【肥後の国 小森家】
もっとずっと昔の話をしよう。
天保五年。
自分が前の世の記憶をバッチリ持っている『転生者』だってことに気づいたのは、一体いつだったかな。物心ついた時には、もう自分が他の子供たちとは決定的に違う、特別な存在だと分かっていたと思う。
だって、周りの大人が何を考えているのか、手に取るようにわかってしまったから。
「お彦、お前は本当に凄いねえ。こんなに小さいのに、もう大人の言葉が理解できるなんて」
ある日、母上が私の頭を優しく撫でながら、目を細めてそう言った。
「母上。これくらい造作もないことです。私は天才ですから。近所の鼻垂れ小僧たちと一緒にしないでくださいね」
私は少しも謙遜せずに、堂々と胸を張って答えた。子供特有の舌足らずな発音じゃなくて、はっきりと大人びた口調で返す私を見て、母上は少し驚きながらも嬉しそうに笑っていた。
「フフフ。本当にそうだねえ。お前がもし男に生まれていたら、今頃は藩主さまに見込まれていたかもしれないねえ。学問もそうだけど、作法だって教えなくても何でもできてしまうなんて……本当にお前は、私たちの誇りよ」
そう、私は何でもできた。これは決して自慢なんかじゃない。もともと前の世界でも、私はかなり優秀な部類だったのだ。現代の知識と大人の思考回路を持ったまま江戸時代に生まれたんだから、周りから神童扱いされるのは当然の結果だ。
。
過去の下級武士の貧しい家で、ただ歴史の波に埋没して終わるような、そんなありふれた女の人生を送るつもりは全くなかった。私には特別な役割がある。この時代を、この世界を導く使命があるんだって、本気で思い込んでいた。
◇
やがて私は、同じ下級武士である河上家へ養子に出された。
その時も私は、自分が特別に優れていて、あまりにも優秀すぎるからこそ、河上家から「ぜひに」と請われたのだとばかり信じていた。
「お彦ちゃんは本当に頭が良いから、きっと河上家でも上手くやっていけるわよね。うちの誇りよ」
賛辞を真に受けていた当時の私は、己の才に酔いしれていた。現代知識をひけらかす異質な子供。それが実家からの厄介払いだったと悟るのは後のことだ。
ある日、木片を振るう私に、養父となる河上源兵衛が声を掛けてきた。
「お彦、お前……剣術に興味があるのか?さっきから、道場の方をずっと熱心に見ているな」
「はい。義父上。女だてらにと笑われるかもしれませんが、少し興味があります。あの人たちの動き、なんだか無駄が多いように見えて……私にもできそうな気がして」
「ほう、無駄が多いか。言うじゃないか。ふむ……護身には、やってみるのもいいかもしれんな。よし、少し竹刀を握ってみるか?」
道場に上がり、身の丈に合わない竹刀を握る。
「おいおい、小娘が相手か?怪我しても泣くなよ?」
嘲弄の視線を向ける大人たち。
「ふっ!!」
踏み込み、間合いを潰す。
力学と合理性。型に縛られた彼らの動きは、ひどく緩慢に見えた。重心の崩れを見極め、最短経路で打ち据える。
私の竹刀が青年の小手を捉え、彼が床に倒れ伏す。
「それまで!!!」
「お彦!凄いぞ、良いぞ!お前にはとんでもない剣の才能がある。本当に惜しいな、もしもお前が男であれば、藩の剣術指南役も十分に務まっただろうに!」
興奮を隠しきれない義父上の声。
「義父上のおかげです。ですが、私ほどの腕前なら、女でも指南役になれるかもしれませんよ?だって、私は天才ですし」
「ハハハハ!それは良い!そうなれば我が河上家にとっても大いなる快挙だ!」
義父上は、女だからと私を馬鹿にして差別するような人ではなかった。あの窮屈な時代には本当に珍しい、とてもおおらかで進歩的な人だったと思う。
私は剣術の腕を磨きながら、近所の子供たちや大人に読み書きや算術を教える寺子屋のようなことを始めて、少しばかりの小銭を稼いで家計を助けていた。
『河上家の天才娘』。
その評判は、じわじわと城下町に広がり、ついにはお城の奥深くまで届いたらしい。
「お彦!喜べ!お前、藩主様の目にとまったぞ!なんと、お側で仕えてほしいとのことだ!」
紅潮した顔で息を切らす義父上。
「え?私がですか?よろしいのですか?私はしがない下級武士の娘ですが……」
驚愕を取り繕いながら、内心では計画の進行に口角が上がるのを堪えていた。
「そこは女の良いところだな。正室や側室としてなら身分が壁になるが、側女としてなら、ある程度は目溢ししていただける。お前が殿のお気に入りになって、もしもお子でも産めば、お前も我が家も一生安泰だぞ!」
義父上は手放しで喜んでいる。私を売るような真似をしているという罪悪感は、微塵もないようだった。それだけ、貧しい下級武士にとって藩主の目に留まるというのは、夢のような出世物語だったんだ。
「…………承知しました。義父上のご期待に沿えるよう、精一杯務めさせていただきます」
こうして私は十六歳で、藩主邸の下女の一人として仕えることになった。
◇
広い屋敷の奥の生活は退屈だったけれど、私は虎視眈々とチャンスを狙っていた。そして、ついにその日が来た。
「お彦にございます。お呼びにより推参いたしました」
襖を開き、平伏する。
「うむ……お前の評判は聞き及んでおる。学問にも秀で、剣の腕も立つという変わり者だそうだな。面をあげよ」
「はい」
頭を上げた私を見た藩主様は、一瞬、呼吸を止めた。
「……………美しい」
細川斉護様は、当時四十七歳。今の感覚で言えば、完全に中年のおじさんだ。
当時の熊本藩は莫大な借金まみれで財政は火の車。どうにかして立て直そうと改革志向を持っていた斉護様は、頭の固い保守派の家臣たちとぶつかって、毎日酷く気苦労を重ねられているようだった。
目の前の疲れ切った顔を見つめながら、私の頭の中では完璧なシナリオが組み立てられていた。
『いける。私なら、この人を完全に説き伏せられる』
三十も年上のおじさんだけど、私にはすごく優しいし、何より絶大な権力がある。
『私のこの若さと美貌、そして時代を先読みする知恵。私の身体に完全に溺れてくれれば、この人は私の言いなりになる』
歴史の知識を総動員して、彼に的確なアドバイスをする。彼を癒やし、彼を操る。
そんな、絵に描いたような悪女ムーブも良いかなって、本気で思っていた。
自分の手で、この藩を裏から操って、財政改革を成功させる。そして、優しくしてくれた義父上には、もっともっといい目を見させてあげたい。
そう、本気で思っていたのだ。
自分の手で、歴史の巨大なうねりを思い通りに支配できると。
◇◇
【熊本城】
私の耳に届くのは、ゼエゼエというひどく重くて濁った呼吸音だ。
熊本藩第十代藩主、細川斉護様。御年四十七歳。
その藩主様が、十六歳の私の白い肌に、まるで命綱にでも縋り付くように顔を埋めている。
「はあ……はあ……お彦……。お主の肌は、どうしてこれほど……吸い付くように温かく、滑らかなのだ……」
おじさん特有の脂汗と加齢臭が混ざった匂いは、正直言ってかなりキツい。鼻をつまみたくなるレベルだ。でも、私はそんな素振りは微塵も見せずに、艶やかな微笑みを浮かべて殿の背中を優しく撫でる。
これがこの熊本藩を丸ごと買い叩くための「軍資金」だと思えば、安いものだ。私は天才だから、これくらいのリスクとリターンは冷静に計算できている。この老い先短いお殿様を完全に骨抜きにして、私の思い通りに動く操り人形にする。
そして、この借金まみれの泥船みたいな熊本藩を、最強の軍事・経済シンジケートに作り替えてあげるのだ。私の知力とこの身体は、そのための最高の武器になる。
「……殿。お彦は殿のものです。殿が望まれるなら、この身も心も、すべてを捧げ尽くす覚悟でございます。ですが、殿がこのお彦に溺れるあまり、本来なすべき藩の政を疎かにされては……お彦、悲しゅうございます。殿には、この肥後を、ひいては日の本を導く偉大な君主でいていただきたいのです」
瞳を潤ませてみせると、斉護様はわずかに身を離す。
「む……。分かっておる。お主がこの間申した『富国強兵』、そして領民すべてを兵として鍛え上げる『徴兵の仕組み』……。あれは実に鮮烈であった。長年ふんぞり返っている保守派の老害どもは、身分制度を揺るがす気かとすっかり腰を抜かしておったが、儂は個人的には非常に面白いと思うておる。だが、いきなり実行に移すには、まだ反発が大きすぎるのだ」
「ええ、急進的な改革にはハレーションがつきものです。ですが、尊皇攘夷なんていう実体のない古い言葉に惑わされてはいけません。今の世を動かし、そしてこれからの時代を生き残るために必要なのは、精神論ではなく『カネ』と『力』です。幕府という名前の巨大なボロ船が完全に沈没してしまう前に、この肥後藩を絶対に沈まない不沈戦艦に作り替えねばなりません。そのためには、古いしきたりにしがみつく老害たちを黙らせる絶対的な権力が必要です。殿にはまだ……あと三十年は生きて、この国の行く末を見守っていただかなくては」
胸を指先でなぞりながら、甘い言葉を注ぎ込む。三十年後なんて、この人は絶対に生きていないけれど、男の人はこういう分かりやすいおだてに弱いものだ。
「ハハハ……三十年とは無茶を申す。儂ももう若くはないのだぞ。だが……そうだな、お主のような賢く美しい女子との間に新しい子が成せれば、その子が儂の意志を継ぎ、次代の肥後を担うという道も開けるやもしれんな……」
あ、それは歴史が大きく変わっちゃうから絶対NGだ。次男の慶順様、のちの長岡護久様が跡を継ぐのは歴史の既定路線。私がここで余計な子供を作って後継者争いなんて引き起こしたら、せっかくの私の天才的な計画が台無しになってしまう。
まあ、そもそも心配する必要はない。このおじさんの「銃」は、悲しいくらいに弾切れが早すぎて、子供を授かるなんて物理的に無理そうだから。
「いけませんよ。殿にはすでに立派な世継ぎがいらっしゃるではありませんか。お家騒動の火種を作るような真似は、このお彦が許しません。……それよりも、殿。先の見えない未来の話より、今この時のことを考えてくださいませ。今夜は……もっと深く、私に刻み込んでください。殿の内に秘めた熱い覇気を、私の中の奥深くに……」
耳元での囁きに、斉護様は顔を紅潮させる。
「うむ……!よし、ういやつめ……!お主のその期待、しかと応えてみせようぞ!」
しかし、数分もしないうちに、その激しい動きはピタリと止まり、やがて隣でスースーという寝息に変わる。
私は重たい腕をどかし、冷たい天井をじっと見つめながら、深いため息をつく。
……終了? 本当にこれで終わり? 早すぎる。いくらなんでも早すぎる。期待した私が大バカだったわ。これじゃ欲求不満もいいところだ。私のなかに渦巻いている若さを持て余した「抑止力」が、このままじゃ暴発しちゃいそうよ。
あーあ、どこかに、もっと私のこの有り余る知性と、熱を持った肉体を、心の底から満足させてくれるような「本物」の男はいないかしらね。
◇◇
【熊本城下・私塾】
数日後。私は城を抜け出し、城下にある私塾へと足を運んでいる。
私の目の前に座っているのは、熊本藩士であり後の肥後勤王党の領袖、宮部鼎蔵先生。三十代の働き盛りで、厳格な国学者として知られる人物だ。
「貴女が、近頃殿のお側近くに仕え、何やら入れ知恵をしているという河上お彦さんですか。……なるほど、噂通りの才女、いや、男を惑わす妖女の風情だ。その若さで殿を骨抜きにするとは、大した度胸をお持ちのようだ」
明らかな警戒と、少しばかりの軽蔑が含まれている。でも、そんなことで怯む私ではない。
「ご丁寧なご挨拶ですね、宮部先生。妖女だなんて買い被りです。私はただ、この美しい国が、海の向こうからやってくる黒船という得体の知れない怪物に飲み込まれてしまうのを、どうしても防ぎたいだけなのです。日本の歴史と精神を深く国学で修められた先生にこそ、私のこの切実な危惧が分かって頂けるのではないかと思い、こうして足を運んだ次第です」
「……国を憂う心があると言うのか。ならば聞こう。先月、長州の吉田松陰という男が、下田で異国の船に密航を企て、失敗して幕府に捕らえられた。この事実を、貴女はどう見る」
試している。私が単なる口先だけの女かどうか、見極めようとしているのだ。
「吉田松陰の行動は、確かに無謀で短絡的です。ですが、この国を目覚めさせるための『必要な犠牲』だと私は見ています。彼のような狂熱がなければ、今の眠りこけた日本は動かない。それに、幕府は異国の脅威に怯えきっていますが、実は今、あちら側も一枚岩ではないのです。ロシアの軍艦が日本近海をうろついていますが、彼らは今、ヨーロッパの黒海周辺で、イギリスやフランス、オスマン帝国を相手にした大規模な戦争――クリミア戦争にかかりきりです。極東の小さな島国である日本を、本気で構っている暇なんて、彼らには今のところありません。つまり、列強の足並みが揃っていない今こそ、我々にとっての猶予期間。この好機に、内部から腐りきった幕府の体制を突き崩し、新しい強い国を創り上げる絶好のチャンスですわ」
私の説明を聞くにつれ、宮部先生の目が驚愕に大きく見開かれていくのがわかる。
「……クリミア戦争、だと。異国同士が遠い地で戦争をしていると?一体なぜ、貴女が異国の、それも最新の内情までそれほど正確に把握しているのだ。……貴女は、本当に何者だ?ただの下女が、いや、一介の藩士でさえ到底知り得るはずのない知識だぞ」
「言ったでしょう?私は天才なんです。孫子曰く、『敵を知り己を知れば百戦危うからず』ですわ。海外の情勢を知らずして、どうして攘夷だの開国だの議論できましょうか。私は殿の耳を通して、藩の、いやこの国の舵取りを正しい方向へ導きたいのです。ですが、表向きはただの側女。私がどれだけ正論を説いても、家老たちは女の戯言と取り合わない。だから、実働部隊が必要なのです」
沈黙の後、宮部先生は力強く頷いた。
「……面白い。実におぞましく、そして面白い。お彦殿、貴女のその世界を見通す『眼』、そしてその底知れぬ知略、勤王のために貸していただきたい。女の身である貴女が表舞台に立てぬというのなら、私が貴女の手足となり、影となりましょう。共に、この狂った世を正そうではないか」
やった。これで熊本藩のトップと、急進派のリーダーの両方を手に入れた。私の計画は、これで一気に加速する。
◇◇
【熊本城】
安政七年。
室内は薬の匂いと、死期の近い独特の気配に満たされている。
布団に沈む細川斉護様は、かつての面影を完全に失っていた。
「お彦……すまぬ。……お主と約束した三十年は……どうやら、無理なようだ……」
体温を失いつつある手が、私に伸びる。私はその冷たさを振り払うことなく、むしろ両手で優しく包み込むようにして、悲しげな表情を顔に貼り付ける。
「……殿。どうか、そのような気弱なことをおっしゃらないでください。それに、お気になさらず。私は殿のお側にいられただけで、十分に幸せでございました。殿から頂いた温かい寵愛と、政について語り合った数々の知識、決して無駄にはいたしませんから」
「そうか……。お主のような賢い女子を……もっと良い地位に……確かな身分に、置いてやりたかったが……儂の力が、足りなかった……許せ……」
懺悔の言葉を浴びながら、私の思考は氷のように澄み切っていた。
『あれ、史実より死ぬのが早いんじゃないかしら。歴史の知識だと、もう少し先だった気がするけれど……まあ、誤差の範囲ね』
これでようやく手足に絡みついていた重たい「枷」が外れるのだ。このおじさんとの、正直言ってひどく退屈で単調だった夜の情事も、今思えば私の壮大な計画のための、ほんの短い余興に過ぎなかったわね。
私の身体を代金にして得たものは、決して少なくない。藩の内部事情、家臣たちの力関係、そして何より「藩主の寵愛を受けた女」という事実と時間。
「殿……。どうか、安らかに……」
繋いでいた手から完全に力が抜け、布団の上にポトリと落ちる。
私はその手を綺麗に布団の中にしまい直し、乱れた着物の襟を正す。頬を伝う涙なんて、ただの一滴も流れない。泣く理由がどこにもないのだから当然だ。
板張りの廊下には、宮部先生が待機していた。
「……殿が、亡くなられたか」
「ええ。たった今。とても安らかな最期でしたわ」
「そうか。……お彦殿。これで貴女の城での立場は、非常に危うくなる。後ろ盾であった殿を失えば、以前から貴女の存在を疎ましく思っていた保守派の連中が、一斉に牙を剥くぞ。奴らは貴女を殿をたぶらかした『妖婦』と呼び、間違いなく排除にかかるだろう。命を狙われる危険すらある」
「構いませんわ。そもそも、こんなカビの生えたようなお城の中に、いつまでも閉じこもっているつもりはありませんでしたから。宮部先生、直ちに肥後勤王党を本格的に立ち上げます。轟、高木、そして松村。彼らに声をかけて、いつでも動けるように準備をさせてください。私は今日限りで、この城を降りますわ」
「本当に、引き留めぬのか?この城で貴女が築き上げた地位や、関わってきた人間たちはどうなる。誰一人として、貴女の出立を惜しむ者はいないとでも言うのか」
「嫌われていたんでしょうね、きっと」
「出る杭は打たれると言いますけれど、出すぎた杭は理解すらされないのよ。それに、天才というものはいつの時代も孤独なものと相場が決まっているんです。凡人たちとの馴れ合いなんて、私には必要ありませんわ」
「……先生、次は京です。こんな田舎で小競り合いをしている暇はありません。歴史の巨大な歯車は、あそこでしか回らないのよ。私たちが向かうべきは、日本の中心、京都です」
◇◇
「お彦殿。これからの京での本格的な活動にあたり、私から一つ提案がある」
地図から目を離した宮部先生が、鋭い視線を向けてくる。
「提案?なんですか、改まって」
「貴女のその女の身では、どうしても限界がある。これから各藩の志士たちや、名の知れた大物たちと直接交渉や密談を行う機会が格段に増える。だが、このご時世、女が政治の表舞台にしゃしゃり出ることを良しとしない石頭ばかりだ。話し合いの席に着くことすら拒絶されかねない。……だから、今日から名を改め、完全に男として振る舞って頂きたいのだ」
なるほど、確かに一理ある。現代ならともかく、今はゴリゴリの男尊女卑の時代だ。いくら私が天才的な頭脳を持っていても、「女のくせに」というだけで話を聞こうとしない連中が大勢いるのは、熊本で身をもって経験している。
「男に?まあ、毎朝身支度をするのは面倒くさいけれど、目的を達成するためなら、確かにその方が都合が良いわね。服の袖も邪魔にならないし、動きやすくていいかもしれないわ」
「……名前を変えるのね。どんな名前がいいかしら?」
「……貴女のその、常人には及びもつかない鋭い知性と、時折見せる、他者の命すら何とも思わないような酷薄さ……。そして、熊本のあの河上家に養子に入ったという奇妙な縁もある。すべてを踏まえて、こう名乗るのはどうだろうか」
彼は私を指差し、その名を告げた。
「……『河上彦斎』これで、行こう」
「……え?」
「どうした?気に入らぬか。河上家の人間として、そして『彦』の字を残しつつ、男として通用する立派な響きだと思うが」
『河上彦斎。……幕末四大人斬りの一人、あの河上彦斎!?嘘でしょ……私が?あの、殿の寝室で愛想笑いを浮かべながら腰を振っていたこの私が、歴史に血塗られた名を残す、あの狂気の人斬りになるっていうの!?』
小柄で、女性のように色白で美しい容姿を持っていたと言われる人斬り。
異常なまでの剣の才能。
そして、冷酷無比な暗殺者。
……全部、いまの私にぴったりと当てはまるじゃないか。
「……ふふ……ふふふ……」
抑制の利かない笑いが込み上げ、部屋に反響する。
「あははははは!最高!最高じゃない!私にぴったりの名前よ、宮部先生!彦斎……河上、彦斎!ええ、とってもいいわね。最高に狂ってるわ!」
不気味なものを見る宮部先生の視線をよそに、笑いは止まらなかった。
『そうか、そういうことだったのね。これが運命……いや、歴史という名の強固なシナリオの強制力ってやつなのね。私がいくら足掻いて違う生き方をしようとしても、結局この時代は私を『河上彦斎』という役割に押し込めるのね』
なら、上等じゃない。その強制力に、全力で乗ろう。
ただ歴史通りに人斬りとして使い捨てられるつもりなんて毛頭ない。この河上彦斎という暴力と、未来の知識というカード。この二つを掛け合わせれば、不可能なことなんて何もない。
池田屋事件も、その先の明治維新も私がすべてを支配する完璧な歴史を創り上げてやる。
笑いを収め、立ち上がる。
壁に立てかけられた大小二振りの刀を手に取り、帯に差す。
腰に伝わる金属の重みが、思考を冷ややかに研ぎ澄ませていく。
鏡を見ずともわかる。
そこにはすでに、他者の命を奪うことへの躊躇いを喪失した、どす黒い狂気が宿っていた。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
今回は、お彦がなぜ河上彦斎になったのか、その始まりの話でした。
天才として歴史を支配するつもりだった彼女が、逆に歴史の役割へ呑み込まれていく流れが伝わっていたら嬉しいです。
お彦の過去編として重かったか、あるいはもっと見たい部分があったか、感想をいただけると励みになります。
弥彦の父親は誰だと思いますか?
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明神弥太郎
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四乃森蒼紫
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志々雄真実