転生して型月版・沖田総司になったけど、労咳を克服したら明神弥彦の母になっていた件 〜るろ剣世界で最強のママやってます〜   作:だいたい大丈夫

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歴史を知っているはずだった河上彦斎。

池田屋事件は、まだ一ヶ月先。
そう信じていた彼女は、宮部の命を救うための準備を進めていた。

しかし、暦の違いという致命的な見落としが、すべてを狂わせる。



その日、池田屋は燃えた

【京の町】

 

じめじめとした、まとわりつくような不快な湿気が京の町全体を重苦しく覆い尽くしている。

 

暦の上では六月。前世の記憶でいうところの梅雨の真っ只中というやつだ。

 

八月十八日の政変からこっち、ずっと京を離れて身を潜めていた宮部先生が、ようやくこの危なっかしい最前線の現場へと戻ってきているのだ。古高俊太郎という商人に身分を偽らせて潜伏させている拠点の奥深くで、私たちは久しぶりの対面を果たしていた。

 

「彦斎殿。よくぞここまで、たった一人で我々を裏から支えてくれました。貴女の尽力のおかげで、これでようやく、私も再びこの京の表舞台に戻ってこられた。本当に、なんとお礼を言っていいか……」

 

その真っ直ぐすぎる言葉の響きに、私は内心で盛大にドヤ顔をキメていた。もちろん表面上は、あくまで謙虚で忠実な部下という完璧な美少年の仮面を被ったままだ。

 

「いえいえ、そんな水臭いことをおっしゃらないでくださいな。宮部先生あっての肥後勤王党なんですから。私はただ、先生が戻られる場所を綺麗に整えて、留守番をしていただけですよ」

 

『フフ、留守番って言っても、ただ大人しく座布団の上で待っていたわけじゃないのよ。私が裏で、先生の復帰の邪魔になりそうな保守派の連中や、口ばかりで生産性のないバカな志士たちを、物理的に片っ端から間引いておいたおかげなんだから。いわば、これは私の天才的なリスクマネジメントと、徹底した競合他社の排除というコンサルティング業務の輝かしい成果よ』

 

私が暗躍したからこそ、長州や肥後の勢力は再び京で息を吹き返しつつあるのだ。

 

「そう言われると、少しこそばゆいですな。しかし、貴女のその揺るぎない忠誠心には、本当に頭が下がる思いです。これからも、我らの大義のために、どうかその知恵を貸していただきたい」

 

「もちろんです、先生。私たちは一つの大きなプロジェクトを動かす運命共同体ですからね。最後まで、きっちりとサポートさせていただきますよ」

 

今はまだ六月。私が歴史の知識として完璧に記憶している運命のデッドライン、『池田屋事件』の発生日は七月八日だ。まだ一ヶ月以上の十分な猶予がある。この一ヶ月の間に前倒しで色々な手を打ち、事件そのものを未然に防ぐ完璧な防波堤を構築してあげる予定だ。

 

 

 

 

 

 

 

今日は六月五日の朝。

 

相変わらず京の空はどんよりと重たく曇り、今にも泣き出しそうな嫌な色をしている。

板の間で身支度を整え、今日一日のタスクを確認していると、少し緊張した面持ちの宮部先生が歩み寄ってきた。その手には、厳重に封がされた一通の書状が握られている。

 

「彦斎殿。朝からすまないが、一つ頼みがある。この手紙を、薩摩藩邸の西郷殿に直接届けてもらえますか? 他の者には絶対に任せられない、極秘の書状です」

 

声を潜めて差し出された書状。

薩摩藩邸。西郷吉之助。

なるほど、ついにあの男を本格的に巻き込むステップに移行するのね。

 

「良いですよ? お安い御用です。でも……」

 

「古高さんが新選組に捕まったって情報が入ったばかりで、現場は少し混乱していますよね。それに、今日は池田屋で、長州の稔麿さんや桂さん達と今後の対策を練る重要な会合があるんじゃないんですか? そんな大切な日に、私を外に出してしまっても大丈夫なんですか?」

 

懸念を口にすると、宮部先生は少しだけ苦い顔をしてから、ゆっくりと首を横に振った。

 

「これは、我々にとっての『保険』なのです。古高が捕縛されたことで、幕府の犬どもが我々の尻尾を掴みかけているのは間違いない。池田屋での会合は、その対応策を協議するためのものですが、最悪の事態も想定しておかねばなりません。薩摩の武力は、いずれ必ず我々の倒幕という悲願に必要となる。彦斎殿も、いつもそう仰っているでしょう? 今ここで薩摩との繋がりを太くしておくことは、何より優先されるべき重要な任務なのです」

 

その言葉に、脳内のパズルのピースがカチッと音を立ててはまるのを感じた。

 

『……やったわ!! ついに、私の地道なコンサルティングが実を結んだのよ!』

 

『私がずっと西郷さんに媚を売って、薩摩の力を取り込むべきだってプレゼンし続けてきた成果が、ついに宮部先生の心を動かしたのね! 長州と薩摩が手を結ぶ『薩長同盟』は歴史の既定路線だけど、私の圧倒的な手腕があれば、この早さで肥後と薩摩が手を結ぶ『肥薩同盟』が成立するってことよ! もしこれが今日、このタイミングで結ばれれば、薩摩の強大な軍事力が私たちのバックにつく。そうなれば、新選組のチンピラどもなんて恐るるに足らないわ。池田屋事件を迎えるまでもなく、歴史のシナリオが完全に私の手で安全なルートに書き換わるのよ……! ああ、私ってば、本当に恐ろしい子! 自分の天才っぷりが怖い!!』

 

歴史の巨大なうねりを完全にコントロールしているという全能感に酔いしれる。

今日という日が、私の完璧なサクセスストーリーの最大のターニングポイントになる。そう疑いもせずに信じ切っていた。

 

「承知いたしました、先生。この手紙、私の命に代えても必ず西郷様にお届けして、良い返事を引き出してまいります。先生も、池田屋の会合、気をつけてくださいね」

 

「うむ。頼んだぞ、彦斎殿。貴女の交渉術には全幅の信頼を置いている」

 

互いに深く頷き合い、それぞれの戦場へと向かう。

まさかこれが、最後の会話になるなんて。天才であるはずの私の脳みそは微塵も予測できていなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 

【薩摩藩邸】

 

夕刻。

太陽が西の山に沈みかけ、京の空がどす黒い紫色に染まり始める頃。

 

私は薩摩藩邸の最も奥まった座敷に案内されていた。

部屋の真ん中には立派な膳が並べられ、薩摩の豊かな財力を象徴するような夕食が所狭しと並んでいる。豚肉の豪快な角煮、新鮮な海の幸、強烈なアルコールの匂いを放つ薩摩の焼酎。

 

その膳の向こう側で、まるで岩山のように巨大な体躯を揺らして座っているのが、西郷吉之助――のちの西郷隆盛だ。

 

どんぐりのように丸く、底の見えない真っ黒な瞳が、私の一挙手一投足を値踏みするようにじっと見つめている。

 

宮部先生からの書状を渡し、現代のビジネス知識をたっぷりとまぶした口頭でのプレゼンテーションを終えたところだった。西郷は豚の角煮を美味そうに頬張りながら、私の言葉を反芻している。

 

「どうです? 西郷様。宮部先生からの提案、そしてこちらの提案に乗る……というのは。尊皇攘夷なんていうカビの生えた精神論は一旦横に置いておきましょう。私が提案しているのは、幕府というあちこちガタがきて雨漏りしている老朽化した不良物件を、根本から刷新して、全く新しい秩序を立ち上げるという、極めて実利的なお話です。薩摩藩が初期投資をしてくだされば、見返りは莫大なものになりますよ」

 

手元の盃に注がれた焼酎の匂いに少し顔をしかめながらも、余裕たっぷりの営業スマイルを浮かべて西郷の目を真っ直ぐに見つめる。

 

「彦斎どん。おはんは、本当に恐ろしか御仁じゃ。こんな若くて、しかもおなごにしておくのが心底惜しか知恵を持っておられる。その見事な深慮遠謀、ただの剣客の口から出る言葉とは思えん。幕府を不良物件に例え、新しい国を秩序と呼ぶ。その合理的な考え方、おいには実に面白く響きもす」

 

『この感触なら、薩摩からの出資、つまり軍事的なバックアップを取り付けるのは確実ね。やっぱり私のプレゼン能力は時代を超越しているわ。これで肥薩同盟は成立よ。私の完全勝利だわ』

 

さらに色っぽい流し目を西郷に送る。男を操るには、知性だけじゃなくて、この美貌も最大限に活用しなくちゃいけない。

 

「彦斎どん。一つ、個人的なことを聞いてもよかですか」

 

西郷が、突然声のトーンを少し落として、探るような目で私を見る。

 

「なんでしょうか?」

 

「彦斎どんは、いったいおいくつになられますか? その落ち着きぶりと、世の中の裏の裏まで見透かすような恐ろしい眼差し……どうしても、十代の若者のものとは思えんのです」

 

クスッと小さく上品な笑い声を漏らす。

 

「あら、西郷様。女性に向かって年齢を聞くなんて、少し野暮じゃありませんこと? ……まあ、強いて言うなら、三十ですね。私の魂に刻まれた精神年齢ということであれば、もっと上かもしれませんけれど」

 

前世の本当の年齢をほのめかすように答えると、西郷は少しだけ目を丸くして、それから深く深く頷いた。

 

「なるほど……三十、ですか。しかし、そのお顔立ちは真に、美しか……。まるでこの世の者ではないような、妖しい魅力がごわす」

 

「知ってます」

 

自分が絶世の美女であることなんて、鏡を見れば毎日嫌というほど確認している事実だ。変に照れる方が不自然というもの。

 

堂々とした態度に、西郷は一瞬面食らったような顔を見せたが、すぐに「ワハハハハ!」と部屋が揺れるような大笑いを始めた。

 

「おはんは、本当に底の見えん御仁じゃ! 気に入り申した! 今夜は朝まで、じっくりと語り明かそうではごわさんか!」

 

よし、完全に落ちた。私の完璧なペースだ。このまま朝まで接待して、確固たる同盟の約束を取り付けるのよ。

 

そう確信して、西郷の盃に再び焼酎を注ごうとした、まさにその時だった。

 

藩邸の扉が凄まじい音を立てて、悲痛な叫びが響いた。

 

「なっ!?」

 

気になって外に出て広がったのは、信じられない光景。

全身が真っ赤な血で染まり、泥と汗でぐちゃぐちゃになった男が、まるで壊れた人形のように転がり込んでくる。

 

土佐藩の望月亀弥太。今日の池田屋の会合に参加しているはずのメンバーの一人だ。

着物はズタズタに切り裂かれ、あちこちからとめどなく血が流れ出している。尋常な怪我じゃない。致命傷の一歩手前だ。

 

「はぁっ……はぁっ……はぁっ……!!」

 

望月は血反吐を吐きながら、必死に床を這いつくばって私と西郷の方へと手を伸ばしてくる。

 

「どうした!? 何があったのよ!?」

 

慌てて駆け寄ろうとすると、望月は絶望に染まった目で私を見上げ、喉の奥から絞り出すように声を振り絞った。

 

「助けて、くれ……!! 池田屋に……!! 池田屋に、新選組の連中が、踏み込んできたんだ!!!!」

 

その言葉が耳に飛び込んできた瞬間。

 

頭の中が真っ白になる。

 

「……なっ!?」

 

『バカな!! 池田屋に新選組が踏み込んだ!? なんで!? どうして!? 歴史の教科書じゃ、池田屋事件が起きるのは七月八日だったでしょ!? 今は六月よ!? 六月五日なのよ!? まだ一ヶ月以上も先のはずじゃないの!?』

 

七月八日。

 

新暦。

旧暦。

太陰太陽暦。

 

『あ…………っ!!!』

 

『嘘でしょ……まさか、そういうこと!? 幕末のこの時代のカレンダーは、太陽暦じゃなくて太陰暦なのよ!! だから、私が後世の知識として記憶している新暦の『七月八日』っていうのは、この時代のリアルタイムの暦に換算すると……まさに今日、『六月五日』のことじゃないの!!!!!』

 

自分が犯した、あまりにも初歩的で、そしてあまりにも致命的な勘違い。

 

『あああああああ!!! 私はバカだ!! 本当に大馬鹿野郎だ!!! 天才だなんて自惚れて、スケジュールの管理を完全に間違えていたのよ!! 宮部先生が、今、池田屋で新選組の刃に囲まれている!! 私が、私があんな呑気なことを言っていたせいで!!』

 

でも、今ここで後悔して立ち止まっている暇はない。一秒でも早く助けに行かなければ、宮部先生が殺される。

 

「西郷先生!! お願いします!! 今すぐ兵をお貸しください!! 池田屋にいる仲間を救わなければならないんです!! 早く!! あなたの力が必要なんです!!」

 

普段の余裕に満ちた態度など完全にかなぐり捨てて懇願する。今はただ、暴力という名の助けが必要なのだ。

 

しかし。

 

西郷吉之助は、先程までの好意的な笑顔を完全に消し去り、一切の感情を排した無機質な目で私を見下ろしていた。

 

「……………すんもはん」

 

「薩摩は、動けなか」

 

「は……!? なんで!? さっきあんなに意気投合したじゃないですか!! 新しい秩序を作るんでしょ!?」

 

私が声を荒らげると、西郷は感情を殺した政治家の顔になって静かに首を振る。

 

「それはそれ、これはこれごわす。今の状況で、なんの準備もなしに新選組と直接事を構えるのは、あまりにも危険が大きすぎる。組織を危険に晒してまで、今ここで肥後や長州の急進派を助ける義理も、そして大義名分も、我々には一切ありもはん」

 

私が先程まで口にしていた「実利的なビジネス」というロジックを、そのまま私に突き返してきたのだ。政治的な判断としては、西郷のこの対応は100%正しい。

 

「く……この、筋肉だるま……!! 所詮は計算高いだけの薄情者じゃないの!! 肝心な時に何の役にも立たない、使えないおじさんね!!」

 

怒りに任せて、西郷に向かって最悪の罵倒を吐き捨てる。西郷は顔色一つ変えずに、ただ無言で私を見据えている。この男は、本物の化け物だ。私の浅知恵なんて、最初からすべて見透かしていたのだ。

 

「彦斎殿……!! 今なら、まだ間に合うかもしれない……!! 宮部先生や稔麿さんも、中で必死に戦ってる……!! 早く、行ってやってくれ……!!」

 

倒れ伏した望月が、血反吐を吐きながら私の足首を掴んで懇願する。

 

「……言われなくても、行くわよ!! 私一人でも、全員斬り伏せて宮部先生を助け出してやる!!」

 

望月の手を振り解き、薩摩藩邸の縁側から夜の庭へと一気に飛び出す。

雨上がりのぬかるんだ地面を強く蹴り上げ、一直線に池田屋のある三条木屋町を目指して疾走する。

 

『間に合え! 間に合え! 間に合え!!』

 

頭の中ではそればかりがぐるぐると渦巻いている。

私が天才である証明を、歴史を支配する力を、今ここで見せつけなければ、私の存在価値なんて何一つない。

 

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

 

 

 

【池田屋】

 

 

二階の奥座敷から階段、そして一階の土間に至るまで、そこはすでに凄惨な地獄絵図と化していた。

 

「御用改である!! 刃向かう者は容赦なく斬り捨てる……!」

 

新選組局長、近藤勇の声が、池田屋の建物全体をビリビリと震わせる。その手には長曽祢虎徹が握られ、すでに何人もの志士の血を吸って赤黒く光っている。

 

幕府の治安維持を担う彼らの突入は、まさに電光石火。長州や肥後の志士たちにとって、それは最悪の奇襲となっていた。

 

「ちょっと近藤さぁーん! 勝手に見せ場取らないで下さいよー!」

 

死闘が繰り広げられるシリアスな空間に、場違いなほど明るく、そして高く澄んだ声が響き渡る。

 

積み重なった死体の山の上に軽やかに降り立った小柄な人物。

鮮やかな桃色の髪をふわりと揺らし、ダンダラ模様の浅葱色の羽織を纏った美少女。新選組一番隊組長、沖田総司その人である。

 

彼女は愛刀である加州清光を肩に担ぐようにして持ち、不満げにぷうっと両頬を膨らませている。

 

「ん?? 何を言っているんだ総司! 俺は局長だぞ!! 先陣を切って名乗りを上げるのは、局長として当然だろうが!」

 

「私は一番隊組長でーす! 一番なんだから、私が一番最初に突っ込んで一番最初に名乗るのが筋じゃないですかー! もう、はい、やり直し! 御用改であーる!! ――『無明三段突き』!」

 

沖田は文句を言いながらも、次の瞬間には一切の予備動作なしに刀を構え、恐るべき踏み込みで階段に群がっていた志士たちの集団へと飛び込んでいく。

 

シュンッ!! という、空気を切り裂くような甲高い音が一つだけ鳴る。

しかし、放たれた剣閃は同時に三つ。物理法則を無視したかのような超絶的な刺突が、三人の志士の喉元を同時に貫いている。

 

ポポポン、と。

まるで冗談のような軽い音を立てて、三人の首が空高く舞い上がり、天井の梁に激突して血の雨を降らせる。

 

「……あ、やっば。ちょっと力入りすぎて、斬っちゃいました。てへっ☆」

 

沖田は自分の顔に跳ねた血の雫を指でペロリと舐め取りながら、悪びれる様子もなく頭を小突いている。その足元には、また新しく三つの首なし死体が転がっている。

 

「………お前なぁ……。少しは真面目にやれよ。お前がそうやって無駄に派手に血を散らすから、床が血糊で滑って戦いにくいんだろ」

 

遅れて二階へと上がってきた二番隊組長の永倉が、呆れたようにこぼす。

 

「えーい! 細かいことは気にしないの! 平助! ガムシンさんも!! どんどん突撃よー! このまま全員ぶっ倒しちゃえー!!」

 

沖田は永倉の苦言を完全にスルーして、無邪気な子供のように剣を振り回し、さらに奥の部屋へと楽しそうに突進していく。

 

「いや! ちょっと待ってくださいっ!! 魁先生は僕ですよ!! 女に先陣切られて、後ろからついていくだけとか、男の面子丸潰れじゃないですか! 待ってよ総司ー!」

 

八番隊組長の平助が、半泣きになりながら愛刀上総介兼重を握りしめ、沖田の背中を慌てて追いかけていく。

 

「待てお前ら!! 局長の俺を差し置いて勝手に進むな! うおおおおお!! 置いていくなァァ!!」

 

近藤もまた、刀を振りかざしながら若い隊士たちの後をドタドタと追いかけていく。

幕末最大の武力衝突であるはずの池田屋事件は、新選組の面々にとっては、まるで部活の延長戦かのような異様なテンションで進行している。

 

しかし、そんな彼らの能天気なノリとは裏腹に、襲撃を受けた長州・肥後の志士たちは、まさに文字通りの地獄のような絶望的な防衛戦を強いられている。

 

「退路を確保せよ! 全員で固まって戦うな、各個撃破されるぞ! できる限り若手を裏口から逃がせ!!」

 

長州の吉田稔麿が、血塗れの刀を構えながら周囲の志士たちに指示を飛ばしている。

彼の顔にはすでに数カ所の切り傷があり、息も絶え絶えだ。

 

「ここで防ぐぞ! 階段を死守しろ! 新選組の連中を絶対に二階の奥へ行かせるな! 耐えれば……耐えればすぐに彦斎が駆けつけてくれるはずだ!!」

 

宮部も最前線に立って刀を振るいながら、必死に仲間を鼓舞している。

 

「桂さんに連絡を走らせろ! それから、緋村にも声をかけるんだ!! 奴の剣があれば、この状況を打破できるかもしれない!!」

 

宮部の言葉には、確かな希望が縋り付くように込められている。

彼は心の底から信じているのだ。自分の最高の理解者であり、最強の剣客であるあの美しい若者が、この絶望的な窮地に必ず間に合ってくれると。

 

だが、彼らが待つその人物は、まだ池田屋の門すら潜れていない。

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『私なら絶対に間に合う! 私は何をやらせても完璧な天才なのよ! 足の筋肉の限界なんて、アドレナリンをドバドバ出してごまかしてやる!! 宮部先生!! 宮部先生、どうか無事でいて!!!!』

 

頭の中では、宮部先生の顔ばかりがぐるぐると渦巻いている。

 

あのまっすぐな瞳。私を心から信頼してくれているあの声。

歴史の知識を持っていたのに、暦の違いというあまりにもバカバカしいミスで、彼を死地に取り残してしまった。

 

もしこのまま宮部先生が死んでしまったら、私のこれまでの完璧な計画は全部パーになる。それだけじゃない。胸の奥が締め付けられるように痛いのだ。

絶対に死なせない。歴史のシナリオなんて、私がこの足とこの剣で全部ぶち壊してやる。

 

三条木屋町の通りが見えてくる。池田屋まで、あと少し。

あと少しで、先生のもとへ辿り着ける。

 

その時だった。

 

ガキンッ!!!

 

耳をつんざくような硬質な金属音と共に、鼻先ほんの数ミリの空間を、凄まじい速度の銀色の剣閃が薙ぎ払う。

鋭い風圧で、前髪が数本パラリと切り裂かれて地面に落ちる。

反射的に急ブレーキをかけ、地面を滑るようにして後方に飛び退く。

 

「っ!! 何奴だ!!?」

 

背中の刀に手をかけ、怒りに満ちた声で前方の暗闇を睨みつける。

提灯の薄暗い明かりすら届かない深い路地裏の影から、一人の男がゆっくりと姿を現した。

黒ずくめの着流しに、異様に黒々とした装飾が施された日本刀を提げた男。年齢は私より少し上くらい。鋭い目つきで、私のことを獲物を見るように見据えている。

 

「京都の町に火をつけ、その混乱に乗じて帝を強引に自分たちの領地へ移そうとは……全く、過激で自分勝手な連中だ。我ら『時守』は、この国の正当な歴史の歩みを不当に改竄しようとするお前たち過激派を、ここで完全に排除すると決定した」

 

男が、抑揚のない声でそう宣言する。

京都放火と帝の拉致。それは確かに、池田屋に集まっている志士たちが企てていた計画だ。でも、どうしてこの男がそれを知っているの?

 

「時守……? 何よそれ、そんな名前の組織、聞いたこともないわ。……計画にない、とんだイレギュラーね」

 

私の知識には、そんな怪しげな組織の名前は一切登録されていない。新選組でも見廻組でもない、完全に正体不明の勢力だ。

 

「俺は『時の番人』の十二番。……肥後のヒラクチ、河上彦斎。お前の命、歴史の平穏のためにここで貰い受ける」

 

男が黒い刀をスッと正眼に構える。一切の隙がない、恐ろしく洗練された構えだ。

 

「どけ!! 私には今、あんたなんかの相手をしてる時間がないのよ!! 今すぐ、先生のところに急がなきゃいけないんだから……!!」

 

声を張り上げ、腰を深く沈める。

全身の筋肉に力を込め、爆発的な勢いで地面を蹴る。

超低空の姿勢のまま、瞬きする間もないほどの突進から、必殺の抜刀術を放つ。

 

――薙ぎ!!

 

ツバメが水面をすれすれに飛ぶような、下から上への鋭い斬り上げ。

これまでの暗殺業務で、誰一人として反応すらできなかった私の一撃必殺の技だ。

いける。このままこいつの腕ごと斬り飛ばして、池田屋へ向かう。

 

ガギィィィン!!!!!

 

「なっ……」

 

信じられない光景に、思わず息を呑む。

私の神速の凶刃は、男が盾のように構えた黒い刀の刀身によって、いとも容易く、そして完全に受け止められていたのだ。

腕が痺れるほどの衝撃が返ってくる。

 

「……私の剣を、防いだって言うの!?」

 

「そう容易く、この道を通すわけにはいかん。お前はここで終わるべき存在だ」

 

男は涼しい顔のまま、私の刀を力強く弾き返す。

体勢を崩さないように、数歩後ろに飛び退いて距離を取る。

 

「我が名は明神弥太郎!! いざ、尋常に勝負!!」

 

明神弥太郎。

男が名乗ったその名前に、頭の片隅で何かが引っかかる。

 

『……明神? なによその名字……。どこかで聞いたことがあるような、ないような……』

 

でも、今はそんなことを思い出している場合じゃない。

目の前のこの男は、本気で私を殺しにきている。そして、実力は間違いなく超一流だ。すぐに片付けられる相手じゃない。

 

『ここでこんな奴に足止めを食らえば、宮部先生が……! 池田屋の皆が……!!』

 

焦燥感が、心を激しくかき乱す。

なんでこんな時に、歴史の教科書にも載っていないようなモブキャラクターが立ち塞がるのよ。

 

「ふざけないでよ。どこの馬の骨とも知らないモブが、歴史の主人公である私の邪魔をしないで!!」

 

 

宮部先生、お願いだから生きていて。

必ずあなたの元へ行くから。




ここまで読んでくださりありがとうございます。

今回は、お彦の最大の誤算と、池田屋事件の開幕を書きました。
天才を自称していた彼女が、よくある暦の違いで完全に足元をすくわれる流れになっています。

お彦の焦り、西郷の判断、そして明神弥太郎の登場がどう見えたか、感想をいただけると嬉しいです。




明神弥太郎

【挿絵表示】

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