レースが始まる前の控室。アーモンドアイは高村と一緒に作戦を決めていた。
「おそらくだけど、アイは自由に走らせてもらえないと思う。ヴェガスクライがアイを徹底的にマークするはずだ」
淡々といつもと変わらない様子。強大な相手からマークされるという事実、本当ならもっと狼狽えてもおかしくない情報を、高村はなんでもないように告げている。
そのことを指摘はしない。むしろ、胸を高鳴らせる一因になっている。自分はそれだけ信頼されていると思うと、嬉しい気持ちの方が勝るからだ。
ただ、今はその嬉しい気持ちよりも優先すべきことがある。今回のレースにおいて最重要で警戒すべき相手、ヴェガスクライの情報だからだ。少しでも有利にするために、一言一句聞き逃さないようにしなければならない。
「へぇ。その心は何かしら?」
「そもそもヴェガスクライは君を指名してきた。僕らは戦うつもりだったとはいえ、向こうが挑戦状を叩きつけてきたんだ。君を意識していることは間違いない」
「そうね。確実に意識されていると思うわ」
ヴェガスクライは自分を意識している。それはレース前の段階で分かっていた。心当たりが多すぎるから。
引退する旨を発表した場で、ヴェガスクライはアーモンドアイを挑発した。自らが主戦場としているオーストラリアで戦おうと、どちらが最強の名に相応しいかを決めようと言い放った。
インタビューの内容も、言葉の端々から意識されているような発言が多くあった。どちらが最強かを決めよう、と口にしていたことを思い出す。
「おまけに、自分のホームスポットを指名してきたでしょ? 多分だけど、凄く覚悟を決めてきてると思うの」
「だろうね。絶対に負けられない場所で、自分の強さを示そうとしている。他のレース場だったら、なんて言い訳ができないように、自ら退路を断った」
「それに、わたし達はあくまで挑戦者だもの。待っているなんて似合わない、挑みに行く方が性に合っているわ」
自信に満ちた発言を思い出して、笑う。ヴェガスクライは心も強いウマ娘であり、間違いなく時代の最強と呼ぶに相応しいウマ娘であると、そう確信している。
「実績に裏打ちされた強さ。現在における最強のウマ娘、ヴェガスクライさん。腕が鳴るわね! それで、どうしてわたしを徹底的にマークするのかしら?」
そういえば、徹底的にマークされる理由の詳細について聞いていなかった。今思い出したかのように切り出す。
高村は特に気にした様子を見せない。さっきの話の続きと言わんばかりに、普通に仕切り直した。
「意識されているからこそ、だよ。君に変なことをされないようにするためだ」
「う~ん……あ! 凱旋門賞の時みたいな感じかしら?」
頷く。正解であることを示すように。
「下手な小細工をされないために、君を封じ込める。他のウマ娘がマークするかもしれないけれど、自分がした方がより確実。そう判断するからこそ、ヴェガスクライは君をマークする可能性が高い」
「それに、わたしをマークしない可能性があるものね。そうなるくらいなら自分が、って感じかしら?」
「いや、どっちかというと……自分がマークした方が確実に勝てる、って判断だろうね」
真っ向から破りに来る。小細工も下手な作戦も使わせない、純粋な力勝負で戦いに来る。
その理由は単純にして明快。自分の強さに絶対の自信を持っているからだ。純粋な力勝負なら自分に分がある、勝ちの最善手はこちらをマークすることと理解したから。
だからこそ、ヴェガスクライはアーモンドアイをマークしてくる、と判断した。
「わたし達が最大の障害と判断した。他を切り捨ててでも全てのリソースをわたし達につぎ込む、ってわけね」
「そう。僕らに勝てばレースに勝てる。そう結論を出した場合、僕らをマークしてくる可能性が凄く高い。競り合いは必至だ」
「スタートも瞬発力も、どっちもわたし以上。オーストラリアで最強ってことは、そういうことだもの」
高村の表情に怯えは──ない。当然、アーモンドアイにもそんなものはなかった。
あるのはただ1つ。自らの勝利を信じる心のみ。
「それで? いつから気づいていたの? マークしてくる可能性が高いってことに」
「……なんのことやら」
「誤魔化さなくてもいいわ。バクシンオーさんとの特別指導を増やした理由、これのためでしょ? 競り合いになった可能性を考慮して、バクシンオーさんとの時間を増やした。違うかしら?」
「……ま、気づいてるよね。そういうことだよ。全てはこのレースで勝つための変更だ」
高村はアーモンドアイの勝利を信じている。アーモンドアイもまた、自らの勝利を信じている。2人の目に、曇りは一点もなかった。
◇
チッピングノートンステークスが開催されるランドウィックレース場。会場は大盛り上がりであり、凄まじい歓声が場を支配している。右も左も声を上げている人しかいない。
その理由は1つだ。今目の前で繰り広げられているレースを観たら、誰もが声を上げるだろう。
《まもなく第4コーナーに差し掛かる、第4コーナーに入る各ウマ娘。先頭を走るのはヴェガスクライとアーモンドアイの2人! 後続もしっかりと着いてきているぞ、3バ身以内を走っている!》
《凄いペースだね! だけど、置いていかれたらそのまま決められかねない。追いつくためには今の位置を離れるわけにはいかない。マイルなのに凄まじい消耗戦だ!》
《本来であれば差し切りが決まりやすいはずのランドウィックレース場。しかし、ちょっとでも判断を誤れば前を走る2人に逃げ切りを許してしまう! それができる、それだけのことができるのがこの2人! ヴェガスクライとアーモンドアイの競り合いは、序盤からずっと続いているぞ!》
最強の座をかけて戦う2人が、レースの序盤から競り合っているのだ。熱い勝負を繰り広げ、隣を走る相手を競り落とさんばかりの覇気で走っている。こんなレース、歓声を上げない方が無理だ。
ランドウィックレース場は最後の直線に坂がある。欧州ほどの勾配はないが、スタミナを削られることは必至。思う以上にパワーを使うレース場だ。
そのためか、逃げ切りや先行からの抜け出しよりも差し切りや捲りが決まりやすい傾向にある。データ的にも、中団からの差し切りが多い印象だ。
だが、先頭を走る2人には関係ない。
「『まだ競り合ってるぜあの2人! 一体、どっちが先に落ちるんだ!?』」
「負けるなー! アーモンドアイー!」
「『競り落とせヴェガスクラーイ!』」
データによる理論は意味をなさない。統計的に決まりやすいなど知ったことじゃない。有利・不利はすでに頭になく、あるのはこのレースをいかにして勝つか。そのために、どうやって隣を走るコイツを振り切るかしか考えていない。
アーモンドアイもヴェガスクライも必死だ。
(やはり、強いねアーモンドアイっ! 私とここまで競り合えるなんて!)
(これが世界最強の女王の実力……全然引き離せないっ!)
身体がぶつかりそうなほど近くで、お互い相手のことを睨みながらレースを進めている。内を走るヴェガスクライが若干有利な点を除けば、2人はほぼ互角の戦いを繰り広げていた。
(というか、本当にシニア上がりたてなのか彼女は! 私はもっと苦労してたよ!)
(衰えなんて全然ないじゃない! ますます燃えるわっ!)
一歩も退かない。絶対に勝ちを譲らない。意地と意地がぶつかり合うデッドヒート。
(だけど、強い相手との勝負は燃え上がる! 挑発した甲斐があったもの!)
(もっと、もっと強く! 彼女に勝つために、もっともっと力を!)
一瞬でも目を離せば、そのまま決着が着いてしまうような。そんな勝負が先頭で展開されている。
ヴェガスクライは心の底から楽しむ。アーモンドアイというウマ娘に、尊敬の念を抱く。
(なんてヤツだ、アーモンドアイ。ここまでやるなんて、ここまで追い詰めて来るなんて!)
シニア上がりたてとは思えない完成度。しかも、自分すら食われかねない強さを発揮している。
(願うならば別のレース場でも! そうでなければ、彼女に失礼だ!)
湧き上がる衝動。それでも勝ちは譲らないという意地。牙をむき出しにして、勝利に向かって突き進む。
アーモンドアイもまた、心の底から楽しんでいた。ヴェガスクライ同様、尊敬の念を抱く。
(やっぱり強いわ、ヴェガスクライさん! 本当に、楽しくてたまらない!)
自分の全てを持ってしても敵うかどうか分からない相手。それでも一歩も譲る気はない。勝利というトロフィーは、絶対に渡さない。
(次も、その次もまた挑みましょう! 進化したヴェガスクライさんを相手にして、わたしは勝つの!)
絶対に勝つ。アーモンドアイにあるのはそれだけだ。
競り合い続ける2人。デッドヒートは終わらない。
「『最高に熱い勝負じゃないか! 逃げずに挑んできたこと、褒めてあげるよ!』」
「『当然よ! アイは真っ向勝負でも強い、そう証明するって言ったでしょ!』」
「『上等だ! ホームスポットを選択した以上私も負けられないんだよ!』」
「『勝つのはアイよ!』」
熱い戦いに、応援の熱はさらに上がっていった。会場のボルテージが天井知らずに上がっていく。他のことには目もくれない、先頭2人の競り合いだけに注目していた。
お互いに譲らないまま最後の直線へ。ここでランドウィックレース場が牙をむく。
《第4コーナーを抜けて最後の直線へ! ランドウィック最後の直線、緩やかな上り坂“ザ・ライズ”が立ちはだかる!》
《傾斜こそ緩やかだけど、気づけばスタミナをごっそり持っていかれるのがランドウィック最後の直線。特に、先頭を走っていた2人はキツいと思うよ!》
《残り400m、ここで追いつきたい後続勢もペースを上げてきた! しかし差を詰めさせない先頭の2人ヴェガスクライとアーモンドアイ! ここまで来たら内側外側の有利不利は関係ありません! ヴェガスクライとアーモンドアイがひたすらに競り合っている! 追いつけるか、捲れるか後続!》
最後の上り坂。消耗が激しい2人にとっては地獄のような展開が待っていることだろう。ただでさえ削られているのに、さらに激しくなるのだから。
だが、2人には関係なかった。
「ッ、ッ!」
「っ、ッ!」
声を出す暇すら惜しむ。体中から力をかき集めて、脚を回すことだけに集中している。ガス欠寸前になろうとも、根性だけで走っている。
諦めの文字は2人にはない。あるのは、勝利の文字のみ。
(ここで、コイツを!)
(絶対に、勝つんだから!)
もはや隣を見ることすらしない、否、できない。前だけを見続けて、ゴール板がある景色だけを見据える。
2人に周りの歓声は届かない。後ろからの足音も気づかない。すぐに触れられるほど近くにいるのに、お互いの呼吸や大地を蹴る音も聞こえていない。
無音の空間。自分だけの領域に入っているような、極限の集中状態。この状況で2人は、領域へと足を踏み入れていた。
「勝つ、勝つ……っ!」
2人してうわ言のように勝つと口にして、必死に脚を回す。残り200を切った段階で、2人のスタミナは……底を尽きかけていた。
《残り200m、残り200m! ここで後続が追い付くかどうか! その差が3バ身から2バ身に縮まった! 2バ身は十分に射程圏内、先頭2人はここで終わりなのか!?》
《いや、まだだよ!》
《だが譲らない譲れない!このデッドヒートはまだ終わらない! 2バ身から先を縮ませない2人、決着はここで着けてやるぞと力を振り絞っている! さぁ序盤から最後までのデッドヒートは続くのか! それとも後続が捲るのか!》
全身の筋肉が悲鳴を上げている。今すぐにでも止まるべきだと危険信号を発している。序盤から競り合い続け、スタミナのことなどガン無視で走り続けてきた。その代償が今、最後の直線で襲い掛かっている。
知ったことか。勝つために全てを注ぐのは当然のことだ。ここで退いて、負けたらどうする気だ。そんな簡単に、隣の相手に勝利の美酒を譲ってもいいのか。そう叱咤し、走る脚を緩めない。一切ペースを緩ませずに走り抜ける。
周りのことなんて気にしない。世界に自分一人だけになったかのような感覚の中、とにかく脚を動かすことだけを考える。
刹那の一瞬。永遠にも感じられる時間の中で。
「『イカ、っれ……て、る……っね!』」
アーモンドアイの身体が。ヴェガスクライの身体の半歩先を行き。
《ア、ア、アァァモンドアァァイ! アーモンドアイが最後の最後に抜け出したッ! アーモンドアイが半歩先に抜け出した! 新たな世界女王の誕生だ! 今まさに世界の頂点に立ったのはアァァモンドアァァイぃぃぃ!》
勝者は天高く、こぶしを突き上げた。
アイちゃん強い子一等賞。