曇り空が広がるイギリスのアスコットレース場。雨の影響でバ場の状態が心配される中、多くのレースファンが集まっていた。その数は、今までの長距離レースからは信じられないほどであり、マイルや中距離レースに負けず劣らずの客入りを見せている。一般客に関しては、例年の4倍、5倍近い人数だ。
レース中も落ち着かない様子の観客が多く、お目当てのレースが早く始まらないかと逸っている。他のファンと交流しながら観戦したりと、思い思いの時間を過ごしていた。
どうして例年以上に集まったのか? その理由はたった1つである。
「『早く見たいぜ、ゴールドカップをよ!』」
「『世界の女王になった私達のアーモンドアイが、長距離だとどんな走りをするのか。楽しみで仕方ないわ!』」
「『前回覇者VS全てを統一する女王。この戦いは見なきゃ損だろ!』」
アーモンドアイが出走するからに他ならない。会場を埋め尽くさんばかりの客入りは、アーモンドアイを目当てに集まっていた。
凱旋門賞でコンストリブルを倒し、欧州最強の女王として君臨。それだけに留まらず、香港スプリントで短距離の女王へ。チッピングノートンステークスでは豪州の世界最強女王、ヴェガスクライを下し、世界最強女王として名を轟かせることになった。
後に残ったのはダートと、長距離。今回は長距離に出走し、現・欧州最強ステイヤーであるプライベートベーリングと戦いに来た。本人がインタビューでそう答えた。
楽しみにならないはずがない。すでに3つの階級を手中に収めた彼女が、いったい長距離ではどのようなレースをしてくれるのか? セントレジャーステークスからどんな進化を遂げているのか? 気になって仕方がなかった。
ついでに、観客の中には彼女を欧州のウマ娘として扱っているファンもいた。本来は日本のウマ娘なのだが、欧州を主戦場にしているので仕方ないかもしれない。
レースプログラムが進む中、ついにその時が来た。アスコットゴールドカップ──アーモンドアイが出走する、超長距離のレースの順番が。
一番最初に登場したのは、アーモンドアイ。いつものように煌々とした輝きを纏いながら、見る者をワクワクさせる期待感を抱かせながら入場してきた。
まばらな拍手を受けながら、自信に満ちた表情でレース場へと足を踏み入れる。一挙手一投足、些細な動きさえも見逃さないとばかりに、会場中から視線を受けていた。
揺らがない。立ち居振る舞いを変えることなく、委縮なんて微塵もしていない様子で準備運動に入った。
芝の感触を確かめるように、1つ2つステップを踏み。
「……よし!」
確認が取れたら、筋肉をほぐすために身体を動かす。遅れて入場してくるウマ娘には目もくれず、自分のことだけに集中していた。
周りのウマ娘がアーモンドアイに鋭い視線を向ける中、最後の1人が堂々と入場する。
《最後に登場するのは前年度ゴールドカップ覇者、プライベートベーリング。欧州ステイヤー最強と名高い彼女、しかし今回は不満が残る2番人気に甘んじています。1番人気は当然、アーモンドアイ!》
《レースは人気じゃ決まらないよ。だけど、アーモンドアイが1番人気になるのも頷けるよね》
《ついに長距離にまでその手を伸ばしてきたアーモンドアイ。全距離を統一する王者になれるかどうか? プライベートベーリングとアーモンドアイが睨み合っています》
プライベートベーリング。堂々と入場し、アーモンドアイへのもとへと足を運んでいた。
芝の感触を確かめるように歩き、目の前までくると。
「『久しぶりだね、アーモンドアイ。きみと戦うこの日を、ぼくは楽しみにしていたよ』」
挑発するような笑みを浮かべ、アーモンドアイを見据えていた。
「『きみはここまで負けてこなかった。本当に凄いことだ、賞賛に値する』」
「『ありがとう。でも、そんなことを伝えるために来たんじゃないんでしょう?』」
同じように、挑発的な笑みで返す。プライベートベーリングとアーモンドアイ。本レースにおける二大巨頭の睨み合いだ。
プライベートベーリングは揺らがない。
「『きみは今日、初めて敗北することになる。無敗記録が破れるのが、残念でならないね』」
「……へぇ?」
「『ここじゃなければ良かったかもしれないね。それなら、まだ無敗記録は続いていたかもしれないのに』」
安い挑発。明らかにアーモンドアイを焚きつけるための言葉。心にもない言葉をすらすらと並べていた。
だが、アーモンドアイは。
「『無敗記録なんて興味はないわ。わたしは、記録になんて興味はない』」
毅然とした態度で答えた。変わらない表情で、プライベートベーリングの言葉に素直な言葉で返す。
「『わたしはただ全力で走るだけ。全力で走って、勝つ。それがここまでの16回、負けずに続いてきただけよ』」
「『いや、それ十分凄いこと』」
「『だからね、今回も全力で走るわ。全力で走って、貴方に勝つ。プライベートベーリングさん』」
指を突きつけて、高らかに宣言する。アスコットレース場に響き渡る声で、堂々と。
「『勝つのはわたし。ゴールドカップを勝つのはアイ。アーモンドアイに、負けはないわっ!』」
自分が勝つ。そう言い放った。長距離最強の女王に対し、全く臆さずに告げたのである。
目を見開いた。次いで浮かべるのは──笑み。
(なるほど。これが彼女の根源的な強さ。どこまでも勝利に走り続ける、アーモンドアイの強さ!)
「『これは、挑発ごときでどうにかなるものじゃないね。さっきの言葉は取り消すよ。ごめん』」
先ほどの言葉を詫びるかのように頭を下げるプライベートベーリング。すぐさま顔を上げ、アーモンドアイを睨みつけた。
「『ぼくの全力をもって相手をしよう。ぼくにも欧州最強ステイヤーとしての意地があるからね……きみを負けさせるのは、ぼくだ』」
「『えぇ! それでも、勝つのはわたしよ!』」
これが最後の会話。プライベートベーリングはウォーミングアップを始め、アーモンドアイも自分のことに集中し始めた。
レース前からバチバチの2人。声こそ出さなかったものの、ファンのテンションはかなり上がっている。レース前から火花を散らす会話に、盛り上がっていた。
気づけば発走前。ウマ娘達がゲートに向かい、準備を整える。
《ロイヤルミーティング3日目。今日のメインレースでもある第4競走ゴールドカップの時間だ。距離は約4014m、バ場の状態は稍重、それも重バ場に近い稍重です。かなりタフなレースになると予想されます》
《長丁場のレースに芝の状態。スタミナには十分に気を付けないとね》
《出走するウマ娘は12人。大注目の1番人気はアーモンドアイ、世界最強の女王様だ。ついに長距離の舞台にまで上がってきた彼女、どんな走りをするのか非常に楽しみです》
最後のウマ娘がゲートに入り、態勢が整った。ヒリついた空気の中、観客の息を飲む音が聞こえるほどの静寂。言葉は一切出てこず、緊張の瞬間を見守っている。
待って、待って、待って。その時が訪れた。
《ゴールドカップが今、スタートしました。ゴールドカップが始まります、ステイヤーズミリオン本戦の第一戦が始まりました! ハナを奪うのは、アーモンドアイだ。アーモンドアイがペースを握るか、アーモンドアイが先頭に躍り出ます。後ろには8番だ》
《さて、ペースメーカーになろうとしているアーモンドアイを止めようとしているのかな? 他にも3番と10番も向かっているね》
《プライベートベーリングは前から4番目につけようとしている。11番と同じ位置、先行の位置につけようとしているぞ。ペースを握るアーモンドアイと、そのペースで走ろうとするプライベートベーリング。さぁ、ゆったりとホームストレッチに向かいます各ウマ娘》
ゲートが一斉に開き、ウマ娘達が飛び出す。アスコットのニューマイルコースから始まって、ホームストレッチへと進んでいく。
ハナを取っているのはアーモンドアイ。逃げの位置に見えるが、実際には先行の位置だ。
というのも、ゴールドカップは長丁場という関係上ペースがゆったりとする傾向にある。コースの造りも加わり、走破タイムが4分を超えるのが当たり前。走り切るためか、序盤はゆったりとした展開になるのが通例だ。
なにより、4分もあれば位置取りはほぼ関係なくなる。序盤で仕掛けて後半息を切らす、なんてことがあってはならないし、自滅しないためにもリズムを作ること自体が大事だ。
そのため、先頭に立っているアーモンドアイのペースもかなりゆったりとしたものだ。人のマラソンのように、リズムよく走ることに重きを置いている。
《ニューマイルコースからホームストレッチに入ってきました。隊列は縦に長くなっています。先頭を走るのはアーモンドアイ、そこから1バ身から2バ身程の差を作って8番。まばらな列で3番10番と続き、10番と並ぶようにプライベートベーリング》
序盤で崩れるわけにはいかない。無暗に消耗する必要はない。しっかり理解しているからこそ、ゆっくりと走っていた。
とはいえ、隊列が変わらないのでどうしても退屈になる。見応えはないだろう。長距離路線が廃れつつあるのも、これが理由の1つだ。
「『やっぱこうなるよなぁ。代わり映えしないって言うか』」
「『最後の直線まで変わらないものね。その分、最後は見応えがあるんだけど』」
「『それなら他のレースでもいいもの』」
観客の愚痴。ダメな点を挙げて、長距離レースを見なくなった理由を声にする。
高速化が進む現代レース。長い距離は負担が大きく、目を向けられなくなってきた。作戦と作戦がぶつかり合う展開もあるが、初めてレースを観るようなご新規には分かりづらいものがある。
パッとしない、華がない。そう口にして、いつの日かレースを観なくなり。気づけば長距離レースは日の目を浴びることがなくなってしまった。廃れた原因は、ここにあるだろう。
退屈だ。誰もが思ったその時だった。
《あっと、ここでアーモンドアイがペースを上げる! 最初のコーナーを曲がっての下り坂よりも前、ホームストレッチでアーモンドアイがペースを上げ始めました! ここでペースメーカーについていくか、ついていかないかの選択を迫られます後続勢! さぁ、どうするか!》
《ここでのペースアップはさすがに無謀じゃない? なにを考えているんだろうね》
《ついていくのは、誰もいないか。さすがに誰もいないか後続はついていかない。アーモンドアイが単騎で抜け出し、その差を3バ身、4バ身と広げようとしています》
突如として先頭のペースが上がった。突き放すように動き出し、2番手との差を一気に広げようとしている。
後ろのウマ娘達は困惑するが、さすがについていくはずもなく。加速するアーモンドアイを後ろから眺めるだけだ。
4番手ぐらいの位置で眺めているプライベートベーリングも、怪訝な表情を浮かべる。
(なにを企んでるのかな? あの子に限って暴走の線はないと思うけど)
頭を回転させ、アーモンドアイの真意を探ろうとする。周りを巻き込んでハイペースに仕立て上げる、なんて簡単な策にはしないだろうし、なにか別の意図があるかもしれないと考えた。
(ぼくに対する挑発? いや、それもない……意図が分からないな。何を狙っている?)
考えて考えて。アスコットの造りを頭に浮かべた瞬間、至る。
(あぁなるほど。下り坂を利用して消耗を抑えようとしているのか)
スピードに乗ったまま下り坂を迎えることで、スタミナ消費を抑える作戦に出た。思わずほくそ笑む。
アスコットのコースは、1つ目のコーナーを曲がればずっと下りだ。名物の三角コーナーを迎えるまで、下りながら走ることになる。
勢いに乗ったまま走ることができれば、スピードを維持しつつ消耗を抑えることができるだろう。アーモンドアイはそれができるウマ娘だ。
(キングジョージを走ったこともあるしね。それくらいはできて当然と考えるべきだ)
では、ついていくのが正解か、とはならない。その手にはつられないと、プライベートベーリングは自分の位置をキープする。
理由はこれまたシンプル。ゴールドカップを走ったことがあるからこそ、プライベートベーリングに分かることがある。
(アスコットのホームストレッチは上り坂。ここって思ったよりスタミナを消耗するんだよね。確かに緩やかかもしれないけど、それでも上り坂は上り坂。消耗は激しい)
キングジョージでは最後の直線まで走らない、ホームストレッチの上り坂。ここの経験が少ないアーモンドアイには分からないと判断する。
ついていくのは悪手。ペースをキープするのが大事。リズムよく走ることが、と頭まで浮かんだ時点で。
(……いや待て。そんな単純なことに気づかないなんてことがある?)
新たなる疑念が出てくる。そんな程度のことで終わらせていいのかと、頭の中で警鐘を鳴らす。
アーモンドアイは世界最強の女王だ。くぐってきた修羅場は、自分達に勝るとも劣らない。歴戦の猛者に匹敵する。
そんな相手が、こんなシンプルなことに気づかないなんてことがあり得るのか? 頭の中に疑問が生まれる。事はそう単純じゃない、きっと何か別の思惑があるんじゃないか? 脳みそをフル回転させる。
改めて考えた後、答えが出てきた瞬間。
(……ッ! まさか、あの子!)
気づけば身体が動き出していた。隊列を乱し、アーモンドアイを捉えるべく、プライベートベーリングが上がっていく。
《おっとここで動きがありました! コーナーを目前にしてプライベートベーリングが前に出ます! アーモンドアイを捉えるかのように、プライベートベーリングが上がってきました!》
《はは、1番人気と2番人気がバチバチだね。スタミナがなくなっちゃったりしないよう、気を付けて走らないと!》
《ここで2番手に浮上しようとしているプライベートベーリング、先頭のアーモンドアイは5バ身程先にいる! ここから差を縮める気かプライベートベーリング。まもなく最初のコーナーだ!》
追いつかなければならない。ここで追いつかなければ──逃げ切られる。そう直感して、プライベートベーリングは上がっていった。
いつもならば静かな立ち上がり。なにも起きないはずのホームストレッチで、目まぐるしい攻防が起きている。
「『やっぱり今回は一味違う。何かが起ころうとしている』」
「『どうなるか、見ものだ』」
ゴールドカップのホームストレッチを超えた。レースはまだ始まったばかりだ。