ゴールドカップは序盤から思わぬ展開を見せていた。ゆっくりとしたペースで流れる超長距離が、ハイペースに近いスピードで流れている。良バ場でも珍しいのに、稍重のバ場でだ。観客は思わず前のめりになる。
《最初のコーナーを曲がって下り坂へ。ここからアスコット名物スウィンリーボトムに向かって走ります。先頭を走るのはアーモンドアイ、速いペースでアーモンドアイが先頭で走っている。2番手にはプライベートベーリング、5バ身開いていた差を2バ身にまで縮めました》
《後続もついていくみたいだね。さすがに上位人気2人がペースを上げたとなれば、警戒しないわけにはいかないか》
《それもそのはずです。それに、アーモンドアイはあのミーティアのウマ娘。奇想天外な策はお手の物、確実に何かを仕掛けているはずですから! さぁ、速いペースになったゴールドカップ。例年よりも速いぞ。このペースで大丈夫か?》
火付け役になったのはアーモンドアイ。序盤こそゆっくりしたペースで走ろうとしていたが、ホームストレッチで突如加速。後続を引き離すように動いた。
最初は誰も動かない。ペースを逸脱しているのもそうだが、暴走しただけとも取れる動きだったからだ。4分を超える長丁場のレースでは自殺行為、スタミナを無暗に消耗するだけ。ついていくだけ無駄なこと。むしろ後半落ちてくるだろうからラッキー、と考えることもできる。それだけのペースで走っていたのだ。
アーモンドアイの暴走。そう結論付け、静観することを決めこむ。心の中でほくそ笑みながら。
しかし、そこにプライベートベーリングが加わるとなると話は違ってくる。アーモンドアイの暴走とも取れるペースに、プライベートベーリングがついていったのだ。離された差を戻すように加速し、3バ身も縮めて2バ身差に収まっている。むしろもっと近づこうとする勢いだ。
周りのウマ娘は困惑する。アーモンドアイだけではなく、プライベートベーリングまでもが暴走に近いペースで走り始めた。さっきまでの前提が全て崩れる出来事、頭の中に疑問が浮かぶ。
あのペースは暴走じゃないのか? もしかして、なにか意図があるんじゃないか? 勝利への布石になる作戦なんじゃないか? プライベートベーリングは察知したからこそ、アーモンドアイのペースに付き合っているのではないか? と、思考が切り変わる。
(よく分からない、けど。さすがにアイツがついていくのだとしたら)
(多分、アーモンドアイには何か狙いがある。その狙いの見当はつかないけど、このまま逃がしたらまずい!)
(ついていかなくちゃ。ペースは逸脱するけど、勝利をかっさらわれるよりはマシだ!)
結果として、アーモンドアイへの警戒を引き上げ。ほぼ全員がついていくことになる。ゴールドカップはハイペースの様相を呈していた。
2番で走るプライベートベーリングは前を走る相手を睨みつける。
(そうか、そういうことか! こっちじゃ全然有名じゃないから、最初は分からなかったよ!)
思わず舌打ちしそうになるが、気づくことができたと自分を褒める。やろうとしていることに対処するため、脚を動かす。
プライベートベーリングが出した結論。アーモンドアイの狙いは──幻惑逃げ。
(前を走り、ペースを自在にコントロール。序盤をハイペースで飛ばし、道中をローペースに落とすことで、スタミナの消耗を抑える作戦、でしょ)
欧州ではまず見ない戦法。逃げの役割はあくまでペースメーカー、それを逆手に取ってきた。
先頭を走れば自在にコントロールできる。思い通りのレース展開を描くことができる。そう察したからこそ、この作戦にした。
ましてや、今回のレースは超長距離。落ち着いたペースで流れるから、序盤から飛ばしたところで誰もついてこない。道中で逃げ切るだけの差を確保することができる。
気づかなかったら危なかっただろう。だが、気づいた。
なら、対処するだけだ。相手に取って嫌な展開、幻惑逃げでされたら困ることは、道中息を吐かせぬペースで走らせること。スタミナを回復させないように動けばいい。
気づくのも相当だが、対処するのも相当の腕がいる。アーモンドアイよりも地力が勝っていなければならない。
(危うく逃げ切り勝ちを許すところだったよ。でも)
「『きみのタネは割れた。それで? 次はどうしてくれるのかな?』」
「くっ!」
もっとも、問題はない。欧州最強のステイヤーは、アーモンドアイの幻惑逃げを対処するくらいわけない。
「『まさかこのまま突っ走るつもり? それで勝てるほど、ぼくらは甘くないよッ!!』」
競りかける。アーモンドアイを逃がすまいと、絶対に一息入れさせないとばかりにマークする。楽なレース運びをさせないために、徹底マークを選択した。
これにより幻惑逃げは封じられる。序盤で大量のリードを取り、中盤はスローに落としてリードを守り、最後は回復したスタミナをフル活用し、序盤で稼いだリードを守り切る。思い描いていた展開としてはこんなものだろう。
その展開は破綻した。プライベートベーリングが競りかけたことにより、息を入れてスタミナを回復することが難しくなる。いや、無理になってしまった。
他のウマ娘も、同じことを考えていた。気づけば差は詰まり、隊列は固まって一個の集団となる。幻惑逃げに必要なピースがなくなってしまった。
《序盤の静かな攻防から一転、コーナーを越えてからは大混戦になりました! 先頭を走るアーモンドアイ、外から追走するプライベートベーリングその差は半バ身。後続も追いついてきた、一個の集団になってきたぞ》
《固まっているのはらしいといえばらしいけど、いつもとはちょっと違うね。これは、アーモンドアイの警戒かな?》
《楽には逃げさせないぞと、周りが動いているわけですね。こうなるとキツくなるのはアーモンドアイでしょう》
できる限り差を広げて逃げたかったアーモンドアイ。策は看破されてしまい、集団で走ることを余儀なくされる。
無理なペースアップはできない。下り坂で加速しすぎたら、次のコーナーを曲がることができなくなる。アスコット名物のスウィンリーボトムは急コーナー、外に振らされすぎるとそれだけでロスだ。
かといってペースダウンもできない。最悪集団に飲まれる可能性がある上、同じように下げられるだけだろう。相手を回復させてしまう。
どうにか有利状況に持ち込みたかったアーモンドアイ。結果は有利に持ち込むことができず、逆に自分が不利になってしまった。
それでも、表情に焦りは出ていない。作戦が看破されることも想定に入れているのか、乱れはなかった。勢いのままに下り坂を駆け抜ける。消耗戦に持ち込むつもりなのか手を緩めない。
《レースはスウィンリーボトムを越えてオールドマイルコースに入る。ここからは最後の200mまで上り坂、高低差20mの消耗戦だ。先頭は依然としてアーモンドアイ、プライベートベーリングは競り合うだけだ。先頭に立とうとする意思は見られないぞ》
《プライベートベーリング側は無理に先頭を奪う必要はないからね。それはアーモンドアイも同じなんだけど、彼女はどこか焦っているのかもしれない》
《集団でスウィンリーボトムを越えるウマ娘達。オールドマイルコースに足を踏み入れる。ここからの上り坂をどう攻略するか!》
そうなると有利なのはプライベートベーリングだ。創設されたばかりのステイヤーズミリオンを完全制覇、長距離に特化した猛者のスタミナは確実にアーモンドアイより上なのだから。
後はじわりじわりと追い詰めるだけ。競り合う展開を続けて、アーモンドアイを消耗させる。最後の直線を走り切るだけの末脚を削り切る。それだけでいい。
プライベートベーリングは油断しない。
(とはいえ、だ。順調だからこそ慎重に行かないとね。決して手を抜かないよ)
自分の役割に徹する。アーモンドアイを削ることだけに力を注ぐ。勝利に繋がる一番の近道だと信じて。
オールドマイルコースを走るウマ娘に、観客は心配の目を向ける。
「『さすがにまずくないか? アーモンドアイは』」
「『マークもキツいし、序盤でリードを取れなかった。しかも』」
「『徐々にペースが落ち始めている。ありゃ、相当まずいぞ』」
視線の先はアーモンドアイ。集団に飲まれそうになっている姿を見て、もはや勝ちは望めないのではないか? と思い始めた。ここから勝つことは出来ないんじゃないか? 頭の中によくない考えが浮かんでしまう。
懸命に走っている。だが、思いだけで勝てるほどレースは甘くはない。
《オールドマイルコースも半分を過ぎた。半分を過ぎましたが、アーモンドアイはさすがにキツくなってきたか? 序盤で動いた代償が今になって効いてきたか! ハイペースのゴールドカップ、アーモンドアイは苦しそうだ!》
《プライベートベーリングの方がキツいかもしれないけど、彼女は天性のステイヤー。長距離で戦い続けてきたから、スタミナ勝負においては負けない。ここで長距離戦の経験の差が出てきたね》
《アーモンドアイが懸命に粘っている、粘っているがこれは少し苦しそうだ! 最後の直線まであと半分といったところ、脚は持つのかアーモンドアイ!》
先頭をキープするだけで精いっぱい。それもいつまで保つか。アーモンドアイの旗色は、絶望的だった。
「『頑張ってほしい、が』」
「『ここからまだ逃げ粘れるかもしれない。ぜひとも頑張ってほしい』」
「『世界最強女王の強さを、意地を見せてくれ!』」
祈るファン。大声をあげての応援はないが、大多数のファンがアーモンドアイの勝利を祈っていた。勝つ姿がよく似合うウマ娘、煌びやかで誰よりも輝くアーモンドアイの勝利を。
状況は、好転しない。じわりと詰められ続けた差が最後の直線で。
《最後の直線に入ります、ついに最後の戦いになるがっ、ここでアーモンドアイが脱落! 先頭をキープし続けたアーモンドアイ、最後の直線に入ってプライベートベーリングに躱されたぁぁぁ!》
《これはっ、かなりまずいよ!》
《後続も躱そうとしている! 懸命に粘るがこれは厳しいアーモンドアイ! アーモンドアイはここまでだ!》
完全に消えてしまった。プライベートベーリングに躱されたのを皮切りに、1人、また1人と躱されていく。先頭を、奪われてしまった。
瞬間、ファンは悟った。もはやここまでだと。
「『アーモンドアイの連勝は、16で終わりか』」
「『さすがの女王も、この長距離の舞台では』」
「『いや、さすがにまだ手が』」
「『何が残ってるの? こんな状況で』」
アーモンドアイの勝ちは微塵もない。それがファンの共通認識だった。
走っているウマ娘も同様である。
(ここまで保ったのは褒めるけど、さすがに無理だったでしょ!)
(とはいっても、こっちも大分キツいけど……走り切るのは問題ない!)
(後は先頭のプライベートベーリングを躱す、だけっ!)
アーモンドアイは終わったウマ娘として判断。一気に勝負を決めにかかる。溜めていた末脚を発揮して、先頭のプライベートベーリングへと襲い掛かった。
プライベートベーリングも先頭で競り合っていた。スタミナの消耗は人一倍。間違いなく落ちてくる。誰もがそう考えた。
間違いではないだろう。誰だって落ちてくるはずだ。序盤からずっと、ハイペースで競り合っていたのだから。
「『その考えは、甘いんじゃあないかな?』」
もっともその考えは、相手がプライベートベーリングだった、というだけで無に帰す。先頭を走り続けて、その差を未だにキープしていた。
アーモンドアイと競り合ってなお、スタミナが尽きていない。桁外れのスタミナで後続との差を詰めさせないで走っている。脚色は鈍っていなかった。
《プライベートベーリング、プライベートベーリングだ! やはり止まらないプライベートベーリング、この調子で逃げ切るか! 残り300m、プライベートベーリングが逃げ切り態勢に入る!》
差を詰めさせない。1バ身から先を縮ませない。プライベートベーリングが、欧州最強のステイヤーがリードをキープし続ける。
(楽しい勝負だったよ、アーモンドアイ。もっときみに長距離の経験があったら)
感傷に浸る。すでに落ちたライバルを思いながらスパートをかける。
勝負は決まった。プライベートベーリングの勝ちだ。
《プライベートベーリング、プライベートベーリングが王者の強さを見せる! これが前回覇者の実力! 欧州最強ステイヤーのっ?》
誰もが思ったその時。
「『おい、ちょっと待て! アレって!』」
「まさか……!」
目を疑うような光景が入ってきた。
その光景とは。
《さ、最後方に沈んだアーモンドアイ! アーモンドアイが猛然と前との差を詰め始めた! な、なんだこのスピードは!? 自分を抜いていったウマ娘達を瞬く間に抜き返す! なんというスピード! 次元が違う速さで駆け抜けるアーモンドアイ!》
最後方に沈んだはずのアーモンドアイが、息を吹き返す姿だ。
先頭を走っているプライベートベーリングも勘づく。凄まじい圧が、後方から迫ってきていると。その圧はつい先ほどまで、自分の隣で受けていた圧だと理解するのにコンマ数秒かかった。
(っは? いや、ちょ、ありえな)
「『どう、な、って……っ!』」
差を詰める速さが尋常ではない。残り200mだが、このままだとあっという間に追いつかれる。そう思わせるほどに早く、理解が追いつかない速さ。
落ちたはずのウマ娘が息を吹き返した。誰が見ても限界だったウマ娘が甦った。あり得るはずのないことが起きていた。
頭に浮かぶのは何故。どういう魔法を使ったのか? どうやってスタミナを回復したのか? 枯渇寸前だったはずなのにと、嫌でも意識を割かれる。
それでも先頭は譲らない。そう思い脚に力を込める……が。
「『上手くっ、踏み出せないっ……!』」
限界が近い。プライベートベーリングのスタミナもまた限界ギリギリ。キープするので精いっぱい、否、キープすることすらできない。
プライベートベーリングで限界なのだ。他のウマ娘が限界じゃないはずがない。ペースを保つことができず、走り切るのもキツい体力しか残ってない。
そう、たった一人を除いては。
《アーモンドアイが甦る! 世界最強の女王が甦る! 残り100mでプライベートベーリングを射程に捉えた! アーモンドアイがその差を2バ身、1バ身と縮めて今っ! 躱したァァァ! 逆転だ逆転だ! アーモンドアイが先頭に立った! 先頭に立ったそのままの勢いでゴール板を駆け抜けたアーモンドアイがゴールドカップを制したァァァ!》
アーモンドアイだけが、他とは隔絶した末脚を発揮している。他が止まって見えるようなスピードでアーモンドアイが駆け抜ける。
残り200mから始まった、たった1ハロンの逆転劇。気づけば一番後ろに沈んでいたはずのウマ娘が他11人のウマ娘を躱して──ゴールドカップを勝っていた。
なんだこいつ(恐怖)