プライベートベーリングは欧州最強のステイヤーだ。誰もが口を揃えて言うだろう。
ステイヤーズミリオンを創設初年度で完全制覇。ここまでのレース成績も、グッドウッドカップにロンズデールカップを勝利、ドンカスターカップも危なげなく勝利するなど、盤石の強さを発揮してきた。
今までの長距離の怪物達に匹敵する逸材。むしろ超えたとまで言われたウマ娘。プライベートベーリングの長距離における強さは、欧州に敵はいないとまで言われるほどだった。
そこに現れたのがアーモンドアイ。ステイヤーズミリオンの第1戦であるゴールドカップに参戦した彼女は、プライベートベーリングよりも先に駆け抜けた。欧州最強のステイヤーを下したのである。
純粋なステイヤーではない。前走前々走と中距離を走っているが、短距離やマイル、果てにはダートにも勝ち鞍がある。長距離だけに絞っていない。
全部の距離、全部のバ場に出走して勝ち、それぞれの距離の最強格を相手にして勝ちをもぎ取ってきた。時代の寵児、天才トレーナー高村が育て上げた稀代の怪物、新時代の到来を告げるプリンセス。
一度強さを体感している。ゴールドカップで戦った時に。恐れを抱かせる強さを。
(およそ自分よりも下の子とは思えない完成度。全部がとんでもない子だったね、きみは!)
自分達を騙し切り、ステイヤーのスタミナを枯らせるという離れ業をやってのけた。シニアに上がりたてのウマ娘が、である。芸術的な勝ち方、ブラフを通して勝った強さに敬服を抱く。
正直な話、ステイヤーズミリオンの連続達成ができなかったとか、欧州最強ステイヤーではなくなったとかはどうでもよかった。自分が欲していた栄光が手からすり抜けたことは、さほど重要ではない。
自分こそが最強だと思っていた慢心が恥ずかしかった。相手の策にまんまと嵌ったことが屈辱だった。ブラフを見抜けなかったことが滑稽だった。
なによりも……負けたことが許せなかった。
(毎晩毎晩夢に見たよ。きみに負けたあの日のゴールドカップを、枕を涙で濡らした日々を!)
今までも負けたことはあった。一度や二度ではない。
だが、アーモンドアイに負けたあの日のレースは特に堪えた。理由は分からないが、とにかく次こそは勝つと心に固く誓った。
次こそは慢心しない。ブラフにも騙されない。自分の持てる全てを使ってアーモンドアイに勝つと、プライベートベーリングは決めた。
◇
パリロンシャンレース場。凱旋門賞ウィークエンドが開催される今日は……小雨。さらには連日の雨の影響もあり、重バ場での開催となる。
長距離の重バ場。この時点でタフなレースになることが予想されていた。スタミナの消耗は激しく、時計のかかるレースになると。
実際のレースも予想通りの展開に。先頭を走るウマ娘はスローで走り、他のウマ娘も仕掛けようとしない。淡々と着いていき、無駄な体力を消耗しないようにしている。
《始まったカドラン賞、ゆったりとしたペースで進んでいます。これはかなりのスローペース、9番がペースメーカーとなっています。その後ろにはプライベートベーリング、これは意外プライベートベーリングが積極的な先行策に打って出ます》
《いつもよりも前だね。3番手、4番手につけることが多い彼女だけど、今回ばかりはそうもいかない理由がある。それが、アーモンドアイの存在だ》
《4番手で進むアーモンドアイ。2番と5番にマークされながらアーモンドアイが歩を進める。本レースの1番人気アーモンドアイはここにいる。先頭から1バ身離れた位置にプライベートベーリング、そこからさらに3バ身離れてアーモンドアイだ》
アーモンドアイも同様だ。さすがにこのバ場で無茶をする気はないのか、きっちりとペースを守って巡行している。周りに倣うように動いていた。
ただ、その目は真っ直ぐプライベートベーリングを射抜いている。少しの動きも見逃さない、とばかりに後ろから圧をかけていた。
当の相手はどこ吹く風。射抜かれるような視線に晒されても、自分には関係ないとばかりに走っている。
まずは作戦通りに。プライベートベーリングは上手くいっていることに安堵する。
(まずはアイよりも前に出ることができた。次は)
だが、すぐに切り替えて次の作戦を頭に入れる。アーモンドアイを倒すために、もう一度欧州最強のステイヤーとして返り咲くために。
レースはよどみなく進む。道中誰もアクションを起こさず、先頭を走る9番が作り出すペースに全員が乗っかっていた。当然、アーモンドアイも動いていない。小雨で視界が多少悪い中、前だけをじっくりと見据える。
これといった動きがないまま、第3コーナーのカーブの下り坂を迎える。
《第3コーナーのカーブを曲がります。先頭は依然として9番、9番が2バ身のリードで逃げています。その後ろにはプライベートベーリング、2番手はプライベートベーリングだ。3番手にはアーモンドアイ少し位置を押し上げているか? 縦に長い隊列、いつ誰がどこで仕掛けるかに注目が集まりますっが!》
ここで動いたのは──プライベートベーリングだ。第3コーナーの下り坂で、プライベートベーリングが仕掛ける。先頭を走るウマ娘を狙って加速した。
《ここでプライベートベーリングが動きます! プライベートベーリングが動いた動いた! 9番のウマ娘へ襲い掛かるプライベートベーリング、ここでスパートを仕掛けたか? まだフォルスストレートにすら到達していないぞ、スタミナは果たして保つのでしょうか!》
《さすがに厳しくないかな? ここから先は極端な上り下りがないとはいえ、まだ距離がある。もっと溜めた方がいいと思うけど》
じんわりと、ではなく、一気に駆け抜ける。2バ身差を瞬く間に詰めて、自分が先頭に躍り出ようとしている。
周りは怪訝な目を向けていた。まだ仕掛けるには早すぎる、ここからで保つはずがないと頭に浮かぶ。
しかし、アーモンドアイだけは違った。
「ッ!」
なにかに気づいたか、それとも気にあてられたか。猛然と前を進むプライベートベーリング目がけて一気に加速する。
加速力に関してはアーモンドアイに分がある。下り坂を利用して一気に近づいた。3バ身開いていた差が見る見るうちに縮まる。
その光景を見て、プライベートベーリングは笑う。
(やっぱりつられたね。ぼくがなにか起こすと思っている、ぼくを最大限警戒しているからこそ動かざるを得ない。そうでしょ?)
ものの見事につられてくれた、と。自分の思い通りに動いてくれた、と。アーモンドアイの動きを見て笑みを零す。
例え一度勝ったことがあるとはいえ、このレースにおける自分は最大のライバル。周りよりも優先して警戒しなければならない。そこを狙った。
欧州最強格のステイヤーが第3コーナーで動いた。フォルスストレートですらない、仕掛けるにはあまりにも早すぎるこの場所で加速した。
意図を探ろうとするはずだ。絶対に何か狙いがあるはずだと思うに違いない。大事な勝負の場面で遅れでもしたら困る、敗北が決まるリスクを背負う可能性が出てくる。
(だから追うしかない。なまじきみはなんでもできるからね。他の子達と違って、ぼくに追いついても問題ないからこそ追ってくる!)
追っても問題ないからこそ、絶対に着いてくるという確信を突いた。普通なら仕掛けない場所で動いたら、間違いなく警戒するだろうと踏んで狙った。
これはゴールドカップで自分がやられたこと。あの時は自分が痛い目に遭ったが……今回は違う。自分が仕掛けている側だ。アーモンドアイに、後手を踏ませた。
相手を罠に嵌めることができた。これで有利を取ることができた。
問題があるとすれば。
(さ~て、ここからはぼくとのスタミナ勝負だ。これといった作戦はない、なにかやってやろうなんて考えは別にない!)
「『あの時は出来なかったスタミナ勝負と行こうか! アーモンドアイ!』」
これ以上の作戦はなにもないってことだけだ。相手を罠に嵌める策も何もない、純粋な力勝負に持ち込もうとしているだけ。つまるところ、真っ向勝負を挑んだ。
いや、一応狙いはある。アーモンドアイの武器でもある瞬間的な末脚、それを封じるためにスタミナと一緒に脚を削ろうという算段が。
もしあのペースで引っ張られた場合、最後の直線で一気に捲ってくるだろう。重バ場の影響があるかもしれないが、それは他や自分も同じ。スピードの差で敗北すること間違いなしの状況を迎えてしまう。
そうならないためにも、出来る限り早い段階で仕掛けたかった。末脚を残さないためにも、どこかで一気にスタミナを削りたかった。
スタミナ勝負なら自分が優位に立てる。そう睨んだからこそ、第3コーナーで仕掛けた。アーモンドアイに勝つならばこれしかないと悟って、有利な場面を作り出した。
スタミナなら自分の方が上。より長い末脚を持続できるのは自分。そう信じて疑わず、アーモンドアイを自分が得意とする土俵へと引きずり込んだ。
勝てる舞台は整えた。後は、自分の力を発揮してねじ伏せるだけ。たったそれだけのことが、どれほど難しいか。痛いほど理解している。
(そもそも、罠に嵌められたっていっても実力がなきゃできないことだ。ぼくが考えるに……アイの強さはすでにぼくを超えている!)
6月のゴールドカップ時点で互角に近かった。成長速度を考慮すれば、間違いなく自分よりも強くなっているだろう。悔しいが、現実的な目線で考えた場合可能性が高い。
それでも、自分の強さを信じている。得意な舞台なら勝てると、この土俵なら負けないと。そう信じているからこそスタミナ勝負に持ち込む。
《フォルスストレートではすでにプライベートベーリングとアーモンドアイの一騎打ちだ! この戦いにしたくはなかったか、少し表情が苦し気にも見えるアーモンドアイ! だがそれはプライベートベーリングも同じ、重バ場の舞台でこれだけのロングスパートは無茶がある! すでに3番手との差は8バ身は開いているか? 先頭2人の争いのまま、もうすぐ最後の直線だ!》
《アーモンドアイはブラフの場合もあるよ。けど、残り500mしかないね!》
《後続はここで迫りたいところだ。雨の影響で重くなったバ場でどこまで迫ることができるか? 先頭2人の競り合いが第3コーナーから続いています! カドラン賞も大詰めだ!》
泣いても笑っても、この直線で全てが終わる。全身全霊を尽くして勝負に挑む。隣を走る相手を競り落とし、自分こそが勝者であると高らかに叫ぶ。信じてただ突き進む。
一進一退の攻防だ。プライベートベーリングが前に出るわけでも、アーモンドアイが前に出るわけでもない。完全に互角の勝負、どちらが勝つのか全く予想がつかない。
本来であればアーモンドアイの方がスピードは上だ。それが何故互角の勝負になっているのか?
(そりゃそうだ! きみはまだ本気じゃない……本気じゃないけど、本気を出すわけにはいかないもんね!)
「『どうしたのかなアーモンドアイ! もっと速く走ってもいいんだよ!』」
「『っ、負けないわっ!』」
最後までスタミナが保たないからだ。本気を出して走れば最後に力尽きる、だからこそ本気を出すわけにはいかない。プライベートベーリングと競り合い、ゴール板へと一直線に進む。
意地のぶつかり合い。絶対に負けられないという思いを抱いて、最後の直線を疾走する。
(きみに勝つ! 欧州最強のステイヤーの地位を取り戻す!)
一度負けたからこそ、今度は負けないというプライベートベーリング。
(わたしは勝つわ。絶対に、絶対に負けられない!)
勝利のみを信じて突き進んでいるアーモンドアイ。
後続も迫ってきている。しかし、勢いは完全に先頭2人。
《残り400を切った! まだ3番手以下との差はかなり開いている、開いているが少しずつ差を詰めている! 先頭2人の競り合い、プライベートベーリングとアーモンドアイの2人が激突している! どちらが前に出るか、どちらが先にゴールラインを割るか!》
第3コーナーからスパートじみたことをしたツケだ。すでに2人のスタミナは枯渇しかけており、3番手以下との差は少しずつ縮まってきている。下手をしたら逆転を許してしまいそうなほどだ。
それでも譲らない。意地を貫き通し、2人でレースを引っ張る。
「『もう負けない! きみに、勝つ!』」
「負けないっ、負けないわ!」
雨でぬかるんだ芝がスタミナを余分に奪う。蹴り上げるのに力を込めなければならない。気を抜いたらそのまま沈み込んでしまいそうな感覚が2人を襲う。
蹴り上げる。精一杯の力を込めて地面を蹴り上げる。芝が抉れようとお構いなしに力を込める。
スピードは緩めない。スタミナが枯渇しようが関係ない。
《残り200だ残り200だ! まだ競り合う、まだ競り合う! 後続は5バ身差まで差を詰めてきた! 詰めてきたがこれはさすがに厳しいか!? 勝敗は先頭の2人、プライベートベーリングとアーモンドアイの2人に託されたか! どちらが先に力尽きるかのデッドヒートだ!》
もはや根性だけで走り切ろうとしている2人。少しでも脚色を鈍らせないように走っているだけだ。
声援が必死に飛び交うパリロンシャンレース場を駆け抜けるウマ娘達。
後続が追いつくか? プライベートベーリングが抜け出して、欧州最強ステイヤーに返り咲くか? アーモンドアイが抜け出して、世界最強の女王の威厳を見せつけるか?
結果は。
(絶対に負けないわっ! わたしの、わたしの!)
「トレーナーのためにも! わたしは絶対に負けないッッ!」
アーモンドアイの魂の咆哮。裂帛の気合と共に、最後の力を振り絞って。
「っ、く、そぉっ!」
《抜け出した抜け出した! 残り50m完全に抜け出した! そのまま! 駆け抜けて! やはり勝ったアァァァモンドアァァァイ!》
プライベートベーリングを競り落として。カドラン賞の勝利を勝ち取った。欧州最強ステイヤーを、スタミナ勝負で下したのだった。