本番前の控室。アイは言っていた。
「トレーナー。今日のわたしは集中的にマークされると思うの」
今回のジャパンカップで、自分は自由に走ることができないだろう、と。
確かに、アイの実力となればマークは自然と集まるのは確定事項だ。海外の主力2人がリベンジ宣言している上に、日本総大将のラッキーライラックもマーク宣言をしている。この時点でもうキツい。
今回のレースにおいて一番警戒すべきなのはアイ。その意識が全員にある以上、マークが集中すると考えるのは当然だ。むしろマークされない方がおかしいまである。
「だろうね。全員からマークされる、って考えるのが自然だ。君はそれだけ警戒すべきウマ娘だし、今回のレースで一番強いウマ娘だから」
「ふふ、ありがとう。なんだか誇らしいわね」
これだけのマークを受けるのはもはや称賛だ。そうしなければ勝てない、全員でマークしなければ勝てないとまで思われているのだから。強者の証、最強であるが故の徹底マーク。強いと認められているからこその予想。
弱音にも思える発言。当のアイは……変わっていない。いつもと変わらない調子で、真っ直ぐに僕を射抜いている。
「ねぇ、トレーナー。一つ聞きたいことがあるの」
「僕に聞きたいこと、か。なにかな?」
胸に手をやって、いつものポーズを取って。変わらない調子で聞いてくる。
「──貴方はわたしの勝利を信じているかしら?」
このレースでアイが勝つと信じているか、と。
成程、それを聞いてくるか。強敵達が集ったこのジャパンカップで、アイは僕にその質問をしてくるのか。
(答えなんて分かり切っているだろうに)
目、というか表情を見れば分かる。答えを確信しているかのような自信に満ちた表情。僕がなんて言うのか知っていると言わんばかりの瞳だ。キラキラと輝いて、眩い光を放っているかのような、そんな顔。
それでも、僕の口から直接聞きたいのだろう。改めて聞くことで、答え合わせをしようとしている。
だとすれば、僕は。
「これまでのレース全部に言えることだけど、やっぱり心配はするよ」
「そうね。その気持ちも分かるわ。わたしも常日頃から言っているもの」
「うん。レースに絶対はない。負けてしまうことがあるかもしれない、相手の気迫が上回ることがあるかもしれない。99%の勝利を確信していても、1%で敗北してしまうかもしれないから」
言うべきことは決まっている。
「正直、結果が出るまでは不安でたまらない。走り出すまではドキドキしっぱなしだ」
「えぇ……それで? 貴方はわたしの、アーモンドアイの勝利を信じているかしら?」
「愚問だね」
息を吸って、吐いて。アイの目を真っ直ぐに見て。
「──僕は君の勝利を疑わない。誰よりも勝利に一途で、愚直で、真摯に向き合う君の勝利を。僕は疑わないよ」
答えた。君の勝利を疑わないと。君が真っ先に、誰よりも早くジャパンカップを駆け抜けることを信じていると。そう言った。
アイは。
「っ、ふふ。やっぱり、トレーナーならそういうと思ったわ」
答えを確信していたみたいだ。口元に手をやって楽しそうに笑っている。
確認のためか、それとも僕の口から言わせたかったのか。どっちにしても特に変わらないか。
それだけだったのか、その後は特になにもなかった。軽い打ち合わせをして、レースの準備を整える。
「トレーナー」
やるべきことは終わった。後は僕も観客席に向かうだけ。扉に手をかけて出ていこうとしていたその時、後ろからアイが呼び止める。
振り向いて。やっぱり彼女は自信満々に立っていて。
「誰よりも早く帰ってくるわ。世界中の誰よりも早く、貴方のところへ帰る。だから、信じて待っていてね」
「勿論だよ。頑張ってきてね、アイ」
「えぇ、頑張ってくるわ!」
勝つと。宣言した。
◇
ジャパンカップはハイペースで流れている。逃げウマ娘キセキによる単騎逃げ、というよりは大逃げに近いペース。最初の1000mの通過ペースが57秒8ということからも、かなり飛ばしていることが分かる。
先行勢もそれに食らいついていた。アーモンドアイを筆頭に、競り合っているヴェガスクライ、外から蓋をしているコンストリブル、その後ろにつけているラッキーライラックと、キセキの大逃げについていく走り。
破滅するつもりか? 後先のことを考えていないのか? 一抹の不安がファンの脳裏によぎる。
違う。ペースを下げたくても下げられないのだ。キセキは、大逃げのペースで走ることを強いられている。2バ身後ろを走っている先行集団によって。
《まもなく第3コーナーのカーブに入ります。これはキセキの大逃げが炸裂しています、このペースで果たして逃げ切れるかどうか! 2番手には外にアーモンドアイ、内にヴェガスクライ2人が競り合っている! そのすぐ外4番手の位置に凱旋門賞ウマ娘コンストリブル、三冠ウマ娘ブラストワンピースとトリプルティアラのラッキーライラックもここにいるぞ!》
《いやぁ、ペースを落としたくても落とせませんよこれじゃ。ヴェガスクライとアーモンドアイがそうさせませんからね!》
《後ろの圧から逃げるキセキ、どこまでも逃げてやるキセキ! 絶対に追いつかれまいと2バ身の差をキープしています。その差を守り切れるか? まだいけるかキセキの大逃げ!》
アーモンドアイを中心とした先行集団。一切ペースを落とすことなく走り切ろうとしている。アーモンドアイとヴェガスクライの競り合いに、他のウマ娘もついていこうとしていたのだ。
まずは外からコンストリブル。表情は少し苦し気で、旗色が悪いことを察せられる。これは、ブラストワンピースとラッキーライラックもそうだ。
それでもペースは落とさない。アーモンドアイのペースについていくことが最善と判断した彼女らは、少しも気を緩めることなく走っている。
ヴェガスクライはレース前に決めていた通り、競り合うことを選択した。チッピングノートンステークスの再現、限界ギリギリの勝負をまた挑んでいる。
こちらも旗色は悪いものの、最内という有利があるためか幾分か楽ができている。外を走るコンストリブル達よりはマシ、といった程度だが。
後方集団は漁夫の利狙い。レースの要であるアーモンドアイは有力ウマ娘達からの徹底マークを受けており、苦しいことは必至。かなり削られているだろうと予想。
ならば、後ろに控えて漁夫の利を狙う構えに出た。無理なペースアップに付き合う必要はない、前が落ちたところを狙いすませて上がればいい。最後の直線で発揮する末脚を残すために、虎視眈々と狙いをつける。
先行集団の一番後ろ、ブラストワンピースから6バ身程離れた位置につける後方勢。第3コーナーを過ぎたこのタイミングで、じわりじわりと上がってきていた。
誰もが思うだろう。この局面ならば後方で走るウマ娘の方が有利だと。キセキが作るハイペースのラップに巻き込まれた先行集団は、かなりの不利を受けているのだと分かる。
最後まで脚が保つはずがない。最後の直線を待たずして落ちていく可能性も捨てきれない。残れるとしても長距離の経験があるステイヤーのみ、ブラストワンピースやキセキ、アーモンドアイといったメンバーしか残らないだろう。
キセキやブラストワンピースは問題がないかもしれない。長距離を走り切れるスタミナがあるし、キセキはともかくとしてブラストワンピースはマークが甘い。先行集団で有利なのはブラストワンピースだと理解する。
アーモンドアイは? ないだろう。このレースで誰よりもマークを受け、不利を被っているウマ娘。スタミナも削られている上、精神的にもキツいはずだ。
なにより、ヴェガスクライからの徹底マーク。かつてのようにスタミナ度外視の勝負を仕掛けられ、それに乗っていた。これ幸いとばかりに、先行集団は全員スタミナを削るように動いている。
世界最強クラスのウマ娘に囲まれ、本来であれば少しの可能性もない。ここから勝てる可能性なんて微塵もありはしない。さすがのアーモンドアイと言えど、この状況では何もできない。ファンの心は一致していた。
……でも、どうしてだろうか? 不利のはずなのに、さすがに無理だと分かっているのに。
《第4コーナーを回って最後の直線に入る! 最後の直線に入って先行集団のギアがさらに上がる!? いや、これはキセキが落ちてきている! さすがに保たなかったかキセキ、キセキの脚色が衰えている!》
《あれだけのプレッシャーを受けながら走るのはキツかったでしょう! ですが、まだまだ粘っていますよ!》
《先行集団は誰が抜け出すか! 慌てたように走ってくる後方集団これは間に合うかどうか! 6バ身のリードを最後の直線だけで詰められるかどうか! 先頭キセキは東京の坂を上ります! 高低差2mの坂が立ちはだかる!》
なんか、普通にアーモンドアイが勝ちそうな雰囲気があるのは。
誰よりも不利を受けている。誰が見ても分かることだ。世界の最強達にマークされ続けて、スタミナをずっと削られていたはずなのだ。
並のウマ娘だったらとっくに音を上げている。並じゃなくて強いウマ娘だとしても、落ちたところで仕方ないと諦めがつくような状況だ。ファンからすればアーモンドアイの状況は、それだけ絶望的だった。
なのに、当のアーモンドアイはずっとヴェガスクライと競り合い続けている。というか、ヴェガスクライを競り落とそうとしている。じわりじわりと差を広げ始め、先頭のキセキへと追いつこうとしていた。
「『な、なんっ、でっ』」
ヴェガスクライが競り落とされそうになっている。ということは?
そう、他の先行集団も同様だ。特に外を走っていたコンストリブルは顕著であり、距離のロスも相まってヴェガスクライ以上に限界が近い。
「『う、そっ……で、しょう?』」
アーモンドアイとの距離が離れていく。競り合い続け、スタミナを削っていた確信があるのに。アーモンドアイに引き離される。
《坂を上り終わってさぁ残り200m! ここでアーモンドアイが先頭に変わったぁぁぁ! な、なんとなんと! 一番不利だったはずのウマ娘が! 囲まれていたはずのウマ娘が! 気づけばキセキを躱して先頭に変わったぁぁぁ!》
《逃げ粘るキセキをあっという間に躱す! ヴェガスクライとコンストリブルが頑張って追いすがろうとしていますがっ》
《しかしコンストリブルとヴェガスクライを躱すラッキーライラック、そしてブラストワンピース! 1バ身先にいるアーモンドアイを捉えんと日本勢が上がってきた! しかし負けない海外勢、ヴェガスクライとコンストリブルもすぐさま追いついた! 先頭アーモンドアイに追いつくことができるか!?》
削っていたはずのアーモンドアイは、なぜか問題ないとばかりに先頭に立ったというのに。
ありえない、理解できない。超長距離を走り切れるスタミナを保有していようが、さすがにスタミナが枯渇しているはずだ。それだけのことをしてきた。
なのに衰えていない。自分達よりも前に出て、その上加速しているようにも見える。
常識外、理外の実力。あまりの光景に恐怖を覚えそうになるウマ娘達。
とはいえ、さすがのアーモンドアイと言えど衰えはある。いつもの末脚は発揮できていないし、タイムに関してもベストには程遠いだろう。
ヴェガスクライ達にスタミナを削られ続けた代償だ。あれだけ囲まれて、終始競り合い続けていたのに、体力が保つはずがない。気づかないが、確かに削られてはいるのだ。
では、どうして先頭に立って、なおかつキープし続けているのか?
特別なことなんて何もない。ただひたすらに。
「勝つのはわたし! 勝つのはアイッ! アーモンドアイに──負けはないわッッ!!」
勝負根性だけで先頭に立っているからだ。勝利に向かってがむしゃらに突き進んでいるだけであり、スタミナが枯渇していようが関係ない。自分の目の前に勝利があるのならば、一切の迷いなく突き進むのがアーモンドアイだからだ。
《アーモンドアイ独走! アーモンドアイ独走! ラッキーライラック追いすがる、ライラックが追いすがるがこれは届かないか! 50を切った! 2着以下は混戦模様! 後方集団がやっと追いつきかけている! キセキはすでにどこまで落ちたのか!? しかし、しかし!》
「ホンッマにっ、バケモンや……っ! どない、なっとんねん……っ!」
誰にも負けたくない。レースに勝ちたい。自分のトレーナーのために──勝ちたい。純粋な、それだけの気持ちで。
《アーモンドアイだアーモンドアイだ! 絶対女王の政権は終わらない! 世界最強の女王が、日本の舞台で輝いた! ワールドレコード2:20:4と共に! 世界最強の女王がジャパンカップに君臨したァァァ! アァァァモォォォンドアァァァイ!》
世界一を決める頂上決戦を制した。
うおおお!アイちゃん最強!アイちゃん最強!