「抵抗は無駄だ」
部隊のリーダーが短く告げた。
「対象を剪定しろ」
二人の兵士が、無言で踏み込んだ。
だが、
ブゥン……。
タイムスティックの先端が、羂索の顔面から数ミリの距離で、ピタリと停止した。
「……何?」
ヘルメットの奥で、兵士が怪訝な声を漏らす。
力任せに押し込もうとするが、スティックは微動だにしない。
『ほう。これは面白い』
五条悟の顔をした羂索は、瞬き一つせず、鼻先に迫るオレンジ色の光を観察していた。
「六眼」が、未知のエネルギーの構造を猛烈な勢いで解析していく。
『呪力ではないな。……対象の時間を局所的に加速、あるいは剥離させるエネルギーか。なるほど、触れれば私の存在そのものが「なかったこと」にされるわけだ』
「隊長! 剪定エネルギーが届きません! 空間そのものが……引き伸ばされている!?」
兵士が焦燥に満ちた声を上げた。
羂索は口角を吊り上げた。
『アキレスと亀、だよ。君たちのその棒が私に届くまでの距離を、無限に分割している。……さて、観察は済んだ』
羂索は、すっと右手を上げた。
彼が欲しているのは、この未知のテクノロジーを無傷で手に入れることだ。不用意に破壊しては意味がない。
『術式順転・「蒼」』
パチン、と彼が指を鳴らした瞬間。
二人の兵士の「首」の座標に、極小のブラックホールのような引力点が発生した。
メキィッ!!
「ガッ……!?」
装甲服の強度など関係ない。空間そのものが内側へ向かって圧縮され、二人の兵士の頸椎が飴細工のように捻じ切れた。
彼らは悲鳴を上げる間もなく、タイムスティックを取り落とし、崩れ落ちた。
「なっ……射撃しろ!タイム・カラーを使え!」
リーダーが後ずさりしながら叫び、残る兵士たちが一斉に奇妙な銃を構えた。
だが、羂索は既に彼らの懐に潜り込んでいた。
『遅いね』
ドゴォッ!
五条悟の圧倒的な身体能力と体術。羂索は一人の兵士の胸倉を掴むと、そのままもう一人の兵士へと叩きつけた。装甲がひしゃげ、血飛沫が上がる。
わずか数秒。
時間を管理する精鋭部隊は、異界の「最強」の手によって、ただの肉塊へと成り果てた。
『さて、と』
羂索は、虫の息となっているリーダーの男の首根っこを掴み、軽々と持ち上げた。
男の腰には、小さな端末――テンパッドが下げられている。
『君たち、ずいぶんと興味深いおもちゃを持っているね。これはどうやって使うんだい?』
「ふざ、けるな……変異体め……! 貴様は……歴史のバグだ……TVAが、必ず……」
リーダーが呪詛を吐くが、羂索は意に介さない。
彼は六眼をテンパッドに向けた。
『ふむ……。操作UIは三次元的だが、背後で動いているのは多次元の座標計算か。量子コンピュータ以上の演算を、このサイズでやっているとはね。……そして、このエネルギーの供給源は……』
普通であれば、一生かけても理解できない他次元の超技術。
だが、千年の呪術知識を持つ羂索の「脳」と、世界の真理を可視化する五条悟の「六眼」が組み合わさった今、彼にとってそれは「少し複雑な知恵の輪」程度のものでしかなかった。
『なるほど。この端末は、特定の周波数で「外側」の空間とリンクしている。君たちの言う「TVA」とやらが、この宇宙の外……時間の流れが束ねられた場所に存在しているわけだ』
「なぜ、それを……!」
リーダーの目が驚愕に見開かれる。
『全て視えるんだよ。今の私にはね』
羂索は男の腰からテンパッドをむしり取った。
そのまま画面を指でタップし、端末内に保存されたログデータを読み漁っていく。
『……なるほど、なるほど! アース-666? セクター・プライム? 我々の宇宙は「セクター・フリンジ」に過ぎないのか! ハハハ、これは愉快だ。天元がどうこうというレベルではない、世界は箱庭どころか、無数の泡の一つだったとは!』
羂索は狂喜に震えた。
そして、ログデータの中にある「一つの重大なエラー報告」に目を留める。
『【ワンダ・マキシモフの干渉による、セクター・フリンジの境界崩壊】……これか!』
彼は新宿の空を見上げた。
六眼を通して見れば、空の彼方に、極薄のガラスにヒビが入ったような「次元の亀裂」が無数に走っているのが見えた。
あそこから、未知の可能性が流れ込んでいるのだ。
『魔女が開けた穴。……そこから、私の死滅回遊を、マルチバース規模へと拡張できる!』
ピピピピ……!
突然、倒れていた兵士の一人が、死の間際に「リセットチャージ」のタイマーを起動した。
紫色の光が漏れ出し、新宿の街が端からジリジリと消滅し始める。
『おっと。長居は無用のようだね』
羂索は、用済みとなったリーダーの首をへし折って捨てた。
そして、奪ったテンパッドに、自身の濃密な呪力を流し込んだ。
オレンジ色だった端末のインターフェースが、バチバチと火花を散らし、赤黒い「呪いの色」へと書き換えられていく。
TVAのロックを呪力でハッキングし、彼自身の「術式」として無理やり馴染ませたのだ。
『開け。未知の世界へ』
羂索が座標を入力すると、彼の目の前に、オレンジ色ではなく、禍々しい紫色のタイムドアが出現した。
崩壊していく新宿の街を背に、最悪の知能犯は、その紫の光の中へと優雅な足取りで消えていった。
それが、彼がTVAの技術を簒奪し、多次元の脅威へと変貌を遂げた「起点」だった。
【現在:アース-JJK-091】
「……ッ!!」
五条悟は、激しい頭痛に襲われ、咄嗟に後方へ飛び退いた。
視界を埋め尽くしていた「他人の記憶の濁流」が、急速に引いていく。
呼吸が荒い。額に冷や汗が滲んでいた。
「悟!」
後方から、夏油の声が響く。
五条は、肩で息をしながら、目の前に立つ男、羂索・五条を睨みつけた。
奴もまた、先ほどの「情報の衝突」の反動で、薄く笑いながらこめかみを押さえていた。
「ハァ……ハァ……。見たのかい、私の記憶を」
羂索は、楽しげに口元を拭った。
「君の肉体は素晴らしい。だが、それ以上に……あの『魔女』が開けた扉の向こう側は、知的好奇心を刺激してやまない」
五条は、歯を食いしばった。
(こいつ……ただ僕の死体を乗っ取っただけじゃない。TVAの技術を奪って、マルチバースを渡り歩いてやがるのか)
「どうした、五条悟? 動きが止まっているぞ」
羂索は、黒い装飾が施されたテンパッドをポケットから取り出した。
「君が迷っている間に、この世界の崩壊エネルギーは十分に抽出できたようだ。……そろそろ、次の舞台へ行こうか」
羂索の背後に、紫色のタイムドアが出現する。
「逃がすかよ……!!」
五条が再び踏み込もうとした瞬間。
「『呪霊解放・極ノ番』」
羂索が印を結んだ。
彼が乗っ取っているのは五条悟だが、彼は千年の知識で「別の次元で集めた呪霊」を呼び出すことができる。
紫色のタイムドアから、巨大な、幾重もの顔を持つ異形の呪霊が這い出してきた。
呪霊が五条と、その後ろにいる夏油たちに向かって、咆哮と共に毒のブレスを吐き出す。
「チッ……!」
五条は追撃を諦め、背後の夏油たちを守るために無下限の防壁を最大出力で展開した。
ブレスが防壁に激突し、周囲の森がドロドロに溶け落ちる。
「ではぐッドラック、五条悟」
羂索はタイムドアの中に半身を入れながら、五条に向かって手を振った。
「君がこの世界と親友を道連れに死ぬか、泣きながら世界を消すか……楽しみにしているよ」
紫の光が収束し、羂索の姿が完全に消え去る。
残されたのは、崩壊のタイムリミットが迫るアース-JJK-091。
毒のブレスを吐き終えた巨大な異形呪霊と、状況が飲み込めず呆然とする乙骨や生徒たち。
そして、その前に立つ、夏油傑。
「……悟。あれは、一体何なんだ?」
夏油が、焦燥と混乱の入り混じった声で五条の背中に問うた。
五条は、防壁を維持したまま、ゆっくりと振り返った。
空の亀裂は限界に達し、世界がガラスのように砕け散る寸前だった。
彼には、時間がない。
説明する時間も、別れを惜しむ時間も。
「……傑」
五条は、黒い目隠しの奥で、親友の顔をしっかりと目に焼き付けた。
「君は、僕のたった一人の親友だ」
それは、正史で彼が夏油に引導を渡した時に言えなかった、心の底からの言葉だった。
「……何を言っている、悟?」
五条は、ポケットの中で、TVAの正規リセットチャージのボタンを強く押し込んだ。
カチッ。
※「アース-JJK-091」の五条悟を出すと、色々面倒くさいことになるので、登場させていません。