TVA本部は、歴史上かつてない規模の崩壊と狂乱の渦中にあった。
オフィスは、飛び交う蒼と赤の呪力によって原形を留めないほどに破壊されている。
「TVAに可能性を奪われた」という事実を知り、憎悪に駆られた無数の『五条悟』たちが、一斉に呪力を解放していた。
彼らを迎撃しようとするミニットメンの部隊は、圧倒的な実力差の前に文字通り塵となって消し飛んでいく。さらに、その混乱を極上の酒のつまみとするかのように、二人の『宿儺』が手当たり次第に斬撃を撒き散らしていた。
「ギャハハハ! オフィスワークはもう終わりだぜぇ!」
デンジがチェーンソーを振り回し、宿儺・五条の放つ『解』を強引に削り落としながら走り回っている。
その地獄絵図の中心で、五条悟(正史)は、一人の男と対峙していた。
「なぜ邪魔をする、オリジナル!」
血を吐くような叫びを上げたのは、暴動のリーダー格である変異体の五条悟だった。
彼は両目を布ではなく古びた包帯で覆い、左腕を失っていた。その身から立ち昇る呪力は、悲哀と憎悪でどす黒く濁りきっている。
「こいつらは、俺たちの『幸せだったかもしれない可能性』を勝手に剪定した! お前も先ほど、親友が生きている世界を消されたはずだ! なぜ怒らない! なぜ奴らを庇う!」
包帯の五条が、残された右腕で五条(正史)に殴りかかる。
五条はそれを無下限で受け止めず、あえて素手で弾き返した。
「庇ってなんかいないさ。TVAのやり方は反吐が出るほど嫌いだ」
五条は、ギリッと歯を食いしばった。
「でも、だからって、過去の『もしも』に縋って、今ある世界を壊していい理由にはならない! 僕らには、残してきた生徒たちがいるだろうが!」
「生徒だと!?」
包帯の五条が、悲痛な笑い声を上げた。
「俺のタイムラインでは、TVAの剪定の余波で生徒たちは全員死んだ! 悠仁も、恵も、野薔薇も、憂太も! 俺が『最強』として全てを背負ったはずなのに、理不尽なリセットの光に飲み込まれて消えたんだ!!」
五条(正史)の息が詰まる。
マルチバースの無数の分岐。その中には、彼が守りたかったものを全て失い、ただ一人取り残された自分自身が存在している。その絶望の深さは、同じ顔を持つ五条には痛いほど理解できた。
「俺たちが『最強』として君臨しなければ、奴らは生きられない! なのに、俺たちがいない世界、俺たちが守れなかった世界など、無価値だ!!」
包帯の五条は、奪い取ったテンパッドを強引に操作し、時空の座標をねじ曲げた。
「お前も絶望を味わえ! お前が欠けた世界が、どれほど悲惨で救いようのない地獄か、その六眼に焼き付けてこい!!」
包帯の五条がテンパッドの起動ボタンを殴りつけると同時。
頭上から、全盛期宿儺が放った極大の『捌』が降り注いだ。
二つの強大な呪力が衝突し、TVAの空間制御が完全にバグを起こす。
「ッ……!」
五条(正史)の足元に、ブラックホールのような漆黒のタイムドアが強制的に口を開けた。
無下限呪術による抵抗も虚しく、五条の身体はすさまじい引力に飲み込まれ、次元の底へと突き落とされた。
五条が次に足をついたのは、ひんやりとした石畳の上だった。
「……ハァ、ハァ……」
体勢を立て直し、周囲を見渡す。
そこは、TVAのオフィスでも、血みどろの戦場でもなかった。
木漏れ日が差し込む、静かな霊園。
空は、どこまでも澄み切った青色だった。
(ここは……どこだ?)
五条は、テンパッドを取り出し、現在位置の座標を確認した。
表示されたのは『アース-JJK-001:正史の未来分岐』。
「……未来?」
五条は、自分の気配と呪力を極限まで殺し、周囲の情報を六眼で探った。
新宿でも、高専でもない。だが、その霊園には見覚えがあった。
そして、少し離れた丘の上にある、ひと際立派な墓石の前に、数人の人影があるのを見つけた。
五条は木陰に身を潜め、その人影を凝視した。
そこにいたのは、背が伸び、肩幅も広くなった青年の姿だった。
ピンク色の髪。黒いスーツを着崩しているが、その背中には、数え切れないほどの修羅場を潜り抜けてきた者だけが持つ、重厚で揺るぎない呪力の芯が通っている。
「……悠仁」
五条が思わず呟いた声は、風に消えた。
虎杖の隣には、髪を少し短く切り揃えた伏黒恵と、左目に眼帯をした釘崎野薔薇が立っていた。
さらにその後ろには、特級の風格を完全に纏った乙骨憂太と、禪院真希の姿もある。
彼らは皆、五条が知る「生徒」の顔から、立派な「大人」の呪術師の顔へと成長していた。
(……僕がいない世界、か)
あの包帯の五条が「絶望を見ろ」と突き落とした世界。
原因は不明だが、五条悟という「最強」が欠け、死亡した後の未来。
五条の胸に、重い鉛のような痛みが走る。
自分が死んだことで、彼らはどれほどの地獄を味わったのだろうか。どれほどの血と涙を流し、この平和を勝ち取ったのだろうか。
「最強」である自分が全てを背負い、彼らの青春を守らなければならなかったのに。
五条は、彼らの会話に耳を澄ませた。
悲しみに暮れ、絶望に打ちひしがれているのだろうか。
『……というわけでさ、五条先生。今年の交流会も、東京校の圧勝だったわけよ』
虎杖の声だった。
悲痛さは欠片もなかった。それどころか、墓石に向かって、まるでリビングでテレビを見ながら話しかけるような、明るく弾んだ声だった。
『ま、僕のおかげだけどな』
伏黒が、わざとらしく五条の口調を真似て肩をすくめる。
『ちょっと伏黒、似てないわよ。あのバカ目隠しはもっとこう、アゴを上げてウザい感じで言うのよ!』
釘崎が笑いながら伏黒の背中を叩く。
『ふふっ……でも、本当に平和になったね。先生が見たら、なんて言うかな』
乙骨が、墓石に手向けられた高価な大福の箱を整えながら微笑んだ。
『決まってんだろ』
虎杖が、空を見上げてニカッと笑う。
『「なんだ、僕がいなくても、みんな立派にやれるじゃーん!」……って、デカい声で笑うに決まってる』
虎杖の言葉に、全員が声を上げて笑った。
その笑顔には、陰りがない。
彼らは五条の死という巨大な喪失を乗り越え、自分たちの足で立ち、この美しい青空を勝ち取ったのだ。
木陰に隠れていた五条悟は、目を大きく見開いていた。
目隠しの下で、蒼い瞳が微かに揺れている。
(……ああ。そうか)
最強である自分が、全てを守らなければいけないと思っていた。
自分がいなくなれば、世界は狂い、彼らは生きていけないと思い込んでいた。
それは、五条悟という男の、傲慢で孤独な「エゴ」だったのだ。
彼が育てた若き呪術師たちは、五条悟という存在がなくても、決して折れることはなかった。
彼らは五条の遺志を継ぎ、その魂を胸に刻み、五条が夢見た「強くて聡い仲間」へと完璧に成長を遂げていた。
(……なんだよ。僕がいなくても、最高にいい世界じゃないか)
五条の頬を、一筋の涙が伝って落ちた。
それは悲しみの涙ではない。
肩の奥底に何十年もこびりついていた「最強という呪い」が、音を立てて崩れ落ち、溶けていく安堵の涙だった。
「……合格だ。お前ら」
五条は、誰にも聞こえない声でそっと呟いた。
過去の「もしも」にすがる必要なんて、どこにもなかった。
夏油傑と過ごした青春が失われても、自分が最強として死ぬことになっても、この未来に繋がるのなら、自分の人生は決して間違っていなかったのだ。
迷いは、完全に消え去った。
五条は、テンパッドを取り出し、自らの呪力で座標を再設定した。
帰るべき場所は、一つしかない。
過去の亡霊たちが暴れ回る、あの無機質なオフィスへ。
「待ってろよ、僕の偽物ども」
五条は、黒い目隠しを外し、素顔のままオレンジ色の光の扉を起動した。
その瞳は、抜けるような秋晴れの空よりも、さらに深く澄み切っていた。
光が瞬き、五条悟の姿は未来の霊園から姿を消した。