五条悟は再びTVA本部のオフィスに帰還した。
そこは相変わらずの地獄絵図だった。
燃え上がる書類の束、ひしゃげたタイプライター、そして無下限呪術と斬撃の衝突によって生み出された空間の陥没。
二人の宿儺は、集まってきた変異体五条たちを相手に、狂ったような笑い声を上げながら殺戮を続けている。デンジは「肉! パフェ!」と叫びながら、見境なくチェーンソーを振り回し、もはや誰が味方かも分からない状態だった。
その狂騒の中心で、包帯で目を覆い、片腕を失った変異体五条は、肩で息をしながら虚空を睨みつけていた。
「……オリジナル。あの救いのない地獄で、絶望に押し潰されたか」
「残念。僕が帰ってきたくなかったのは、あっちが『最高にいい世界』だったからだよ」
包帯の五条が振り返る。
そこに立っていたのは、黒い目隠しを外した五条悟だった。
彼から放たれる呪力は、先ほどまでの「迷い」を一切含んでいない。まるで磨き抜かれた水晶のように澄み切り、圧倒的な静謐を伴って空間を支配し始めていた。
「……何を、見た」
包帯五条が、ギリッと歯を食いしばる。
「俺たちが欠けた世界だぞ。最悪の呪いだけが残り、弱き者たちが蹂躙される世界に決まっている! お前は、自分の無力さから目を背けたのか!」
「お前こそ、自分の生徒を舐めすぎなんだよ」
五条は一歩踏み出した。
包帯五条が『赫』を放つ。だが、迷いのないオリジナルの無下限呪術は、その反発の力を水面を撫でるように受け流し、完全に無効化した。
「なっ……!」
「僕らは最強だ。だから、全部一人で背負わなきゃいけないと思い込んでた。自分が死ねば、世界は終わるってね」
五条は瞬時に間合いを詰め、包帯五条の胸ぐらを片手で掴み上げた。
「でも、それは僕らのおごりだ。あいつらは、僕の傘がなくてもちゃんと育ってた。血を流して、泥をすすって、それでも自分たちの足で立ち上がって、笑ってたんだよ」
五条は、もう片方の手で操作したテンパッドを、包帯五条の目の前に突きつけた。
画面には、先ほど五条が視てきた『アース-JJK-001の未来』の映像が、ホログラムとして空中に投影された。
成長した虎杖、伏黒、釘崎、そして乙骨や真希。
彼らが、五条の墓前で、悲壮感など欠片もない明るい笑顔で言葉を交わしている光景。
『なんだ、僕がいなくても、みんな立派にやれるじゃーん! ……って、デカい声で笑うに決まってる』
ホログラムの虎杖が、太陽のような笑顔で言う。
包帯五条の動きが、ピタリと止まった。
「……悠仁?」
包帯に覆われた目の奥から、赤い血が滲むように涙が溢れ出した。
彼が失った生徒たち。彼が守れなかった未来。
だが、正史の未来では、彼らは確かに五条の遺志を継ぎ、最強という呪縛を超えて生きている。
「お前が執着している過去なんて、ただの幻想だ」
五条は、胸ぐらを掴んでいた手をそっと離した。
「僕らの役目は、過去をやり直すことじゃない。あいつらが笑って生きられる未来に、バトンを繋ぐことだったんだ」
包帯五条は、その場に崩れ落ちた。
残された右腕で顔を覆い、子供のように声を上げて咽び泣く。
「ああ……ああ……。そうか……俺は、ずっと……」
彼の放っていたどす黒い呪力が、嘘のように霧散していく。
過去の喪失に囚われ、TVAへの復讐だけを生きがいにしていた変異体は、自分がいなくても続く「美しい結果」を知り、長い長い呪縛からようやく解放されたのだ。
他の変異体五条たちも、そのホログラムの映像を見て、次第に攻撃の手を止めていった。彼らもまた、「最強」という孤独な十字架を下ろす場所を求めていたのだ。
五条は、泣き崩れる自分自身を見下ろし、優しく、しかし確かな響きで言った。
「お疲れ様。……もう、休んでいいよ」
狂乱が少しずつ収束に向かおうとした、その時だった。
「……五条悟」
瓦礫の下から、這い出してきた男がいた。
スーツは破れ、顔は煤と血にまみれている。アルコットだ。
彼は折れた右腕を引きずりながら、執念深く五条の前に歩み寄ってきた。
「見事だ。君のおかげで、変異体たちの暴走は止まりそうだ。……だが、あの二人の宿儺はまだ止まっていない」
アルコットは咳き込みながら、悲痛な声で訴えた。
「頼む、五条悟。我々と再び手を組んでくれ。TVAのシステムを再建し、あのイレギュラーどもを剪定しなければ、マルチバースの均衡は完全に崩壊する。君の生徒たちがいる正史も、無事では済まないぞ!」
五条は、ゆっくりとアルコットの方へ振り返った。
その顔には、先ほどまでの優しい表情は欠片もない。絶対零度の、見下すような瞳。
「……まだそんなこと言ってんの?」
五条が指先を軽く動かした瞬間。
見えない巨大な圧力がアルコットの体を襲い、彼を背後のコンクリートの壁に「貼り付け」にした。
「ぐぁっ……!? ご、五条……!」
アルコットは壁に磔にされたまま、もがくことすらできない。
「勘違いするなよ、お役人さん。僕は、あんたたちTVAのやり方を肯定したわけじゃない。むしろ、人の可能性を勝手に切り取ってゴミ箱に捨てるシステムなんて、反吐が出るほど嫌いだ」
五条は、壁に貼り付けられたアルコットの目の前まで歩み寄った。
「僕らの世界は、僕らで選ぶ。悲劇が起きようが、痛みを伴おうが、それはあいつら自身が乗り越えていくべき『現実』だ。……それを、安全な場所から数字の計算で剪定しようなんて、ふざけるのも大概にしろ」
「理解……してくれ……! 管理しなければ、全てが、虚無に……!」
アルコットが血を吐きながら訴える。
「なら、僕がその虚無とやらもぶっ飛ばしてやるよ」
五条は冷酷に宣告した。
「二度と、僕の生徒たちの運命に干渉するな」
五条がアルコットから踵を返した、その直後だった。
ウゥゥゥゥゥゥゥン……!!!
TVA本部全体を、これまでとは全く異質の重低音が揺るがした。
床が波打ち、天井のオレンジ色の照明が、危険を知らせる赤色へと一斉に切り替わる。
それは、戦闘による破壊の音ではない。もっと根源的な、施設の心臓部からの断末魔だった。
「……なんだ?」
暴れていたデンジがチェーンソーを止め、床の揺れにふらつく。
二人の宿儺も、不快そうに視線を足元へと向けた。
「け、警告……! コア出力、限界値を突破……!」
壁に貼り付けられたアルコットが、絶望的な顔でうわ言のように呟いた。
「時間織り機が……メルトダウンを起こしている……!」
「時間織り機?」
五条が振り返る。
「我々TVAが、セクター・フリンジ……君たちの世界の時間軸を単一に束ねていた、巨大な装置だ……! 宿儺や君たちの特級クラスの呪力が、この本部内で無制限に解放されたことで……システムがエネルギーのオーバーフローを起こしたんだ!」
アルコットの言葉を裏付けるように、TVA本部の床の中央が、巨大な円形に割れて開いていく。
その底なしの縦穴の奥から、目も眩むような黄金色の光と、ドス黒い呪力のオーラが混ざり合った、途方もないエネルギーの渦が突き上げてきた。
「時間軸を束ねる糸が、全て千切れる……! 過去も未来も、正史も分岐も、全てが混ざり合って崩壊する!」
アルコットが泣き叫ぶ。
「終わりだ! 我々は皆、時間の果て……『虚無』へと放り出される!」
「面白え!」
全盛期宿儺が、四本の腕を広げて笑い声を上げた。
「因果が崩れるか。ならば、その虚無とやらで全てを斬り刻んでやるまでよ!」
「オッサン! 床が抜けるぞ!」
デンジが叫ぶ。
五条の足元もまた、凄まじい引力に引っ張られ、崩壊し始めていた。
呪術で抵抗しようとするが、これは単なる重力ではなく、「時間の崩壊」そのものだ。空間という概念が溶け落ちていく中で、いかなる術式も意味を成さない。
(……上等だ)
五条は、吸い込まれていく闇の底を見据えた。
この狂った管理システムが崩壊し、全ての可能性が混ざり合うというのなら、その果てで真の黒幕を叩き潰すまで。
ゴオオオオオオオオオッ!!!!
時間織り機が臨界点を迎え、爆発した。
光と闇が入り混じる濁流が、TVA本部を完全に飲み込む。
五条悟、デンジ、二人の宿儺、そして生き残った変異体やTVAのエージェントたちは、抗う術を持たないまま、あらゆる時間が堆積し、腐敗していく究極の吹き溜まり――『虚無』へと真っ逆さまに堕ちていった。