「……っ」
五条はゆっくりと身を起こし、咳き込みながら周囲を見渡した。
「六眼」が再起動し、周囲の情報を読み取ろうとするが、脳にフィードバックされるデータはひどく歪んでいた。
空間の座標がでたらめで、時間の流れが一定ではない。過去と未来の因果が千切れ、そこかしこに放置されている。
鉛色の空を見上げると、時折、オレンジ色の稲妻が走り、空の裂け目から巨大な「ゴミ」が降ってきていた。
大正時代のレンガ造りの洋館、未来的な流線型のタワー、巨大な豪華客船、あるいはチェンソーマンの世界のどこかにあったであろう、禍々しい悪魔の巨大な死骸。
それらが空から無音で落下し、大地に激突しては土煙を上げ、やがて砂のように風化して消えていく。
「……ここが、アルコットの言っていた『虚無』か」
全ての剪定されたタイムライン、廃棄された可能性が最終的に行き着く、時間軸のゴミ捨て場。
見渡す限りの荒野には、無数の「選ばれなかった世界」の残骸が、巨大な墓標のように点在していた。
「いてて……なんだここ、すっげぇ土埃の匂いがするぞ」
すぐ近くの瓦礫の山から、デンジが這い出してきた。
デンジ彼は全身の土を払いながら、周囲の狂った景色を見て首をかしげた。
「宇宙の次は砂漠かよ。あのオレンジ色の光に吸い込まれたと思ったら……俺たち、地獄に戻っちまったのか?」
「地獄の方がまだ整理整頓されてると思うよ」
五条は立ち上がり、服の埃を払いながらデンジに歩み寄った。
「ここは時間の終着点だ。TVAが不要だと判断してゴミ箱に捨てたものが、全部ここに落ちてくる」
五条は、彼方へと視線を向けた。
荒野のずっと先、鉛色の雲を突き抜けるようにして、ぽつんと浮かぶ巨大な小惑星のような岩盤があった。
そして、その岩盤の頂上には、黒曜石を削り出したかのような、異様で荘厳な「城」がそびえ立っているのが見えた。
「……見つけた」
五条の蒼い瞳が、鋭く細められる。
「あそこが、このふざけた管理システムの『心臓』だ。TVAという組織を作り、裏から糸を引いている本当の黒幕……」
「黒幕? つまり、そいつをぶっ飛ばせば、今度こそパフェ食えるってことだな?」
デンジがスターターロープを握り直す。
「ああ、特大のやつを奢ってやるよ。……でも、少し歩くのが面倒そうだな」
五条が顎でしゃくった先。
城へと続く荒野の中間地点を、「それ」が完全に塞いでいた。
それは一見すると、空を覆い尽くすほど巨大な、紫と黒が混ざり合った「嵐」だった。
嵐の中には、何億、何兆という「顔」が蠢いている。TVAによって剪定され、この虚無に落とされた呪霊、悪魔、そして人間たちの怨念と負のエネルギーが、途方もない年月をかけて一つに癒着し、意思を持たない「巨大な捕食者」と化しているのだ。
嵐の端が、空から落ちてきた軍艦の残骸に触れる。
次の瞬間、鋼鉄の軍艦は一瞬にして腐食し、煙となって嵐の中に完全に「同化」してしまった。
「うわ……なんでも溶かすスライムのお化けじゃん」
デンジが一歩後ずさる。
「近づけば、魂ごと『無』に還されるね。物理攻撃も呪術も、あのデカさじゃ飲み込まれるだけだ」
五条は顎に手を当てた。
「あの『嵐』を越えなきゃ、城には辿り着けない。……困ったな、飛んで越えられるような高さじゃないし」
「なら、俺が案内しよう」
背後の瓦礫の陰から、静かな声が響いた。
五条が振り返ると、そこには右目を包帯で覆い、左腕を失った男――TVA本部で五条と対峙し、涙を流して改心した「変異体・五条悟」が立っていた。
「……お前も落ちてきてたのか」
五条は警戒を解き、少しだけ口元を緩めた。
「TVAが崩壊したんだ、他の連中も散り散りにこの虚無へ落ちたはずだ。……俺は運良く、お前たちの近くに落ちたらしい」
包帯の五条は、残された右腕で、空を覆う巨大な嵐を指差した。
「あれは『剪定の掃き溜め』だ。この虚無に落ちてきたあらゆる因果を喰らい、あの城へ近づく者を排除するための、究極の番犬。……俺たちの無下限呪術を最大出力でぶつけても、胃袋の足しになるだけだ」
「詳しいね。来たことがあるの?」
「いいや。だが、あの嵐から漏れ出す呪力の記憶が、俺の六眼に語りかけてくる」
包帯五条は、五条(正史)の目を真っ直ぐに見返した。
「オリジナル。お前が見せてくれた未来……俺たちがいなくても、生徒たちが笑って生きられる世界。あれを見て、俺は救われた。だから今度は、俺がお前の道を切り開く」
「どうやって?」
五条が尋ねる。
「囮になる」
包帯五条は淡々と言った。
「俺が全呪力を使って、あの嵐の注意を引く。その隙に、お前とチェンソーのガキが、嵐の薄い部分を強行突破するんだ」
「却下だ」
五条は即答した。
「お前を死なせるために、あんな未来の映像を見せたわけじゃない。それに、いくら特級呪術師の呪力でも、あのサイズの化け物の注意を引くには『餌』として小さすぎる」
包帯五条が反論しようとした、その時。
ズドォォォォォォォン!!!!
虚無の大地を揺るがす、桁違いの爆発音が嵐の向こう側から轟いた。
見れば、巨大な紫黒の嵐の左側面が、凄まじい「斬撃の嵐」と「熱核爆発のような炎」によって、内側からボコボコに抉り取られているではないか。
「……なんだありゃ?」
デンジが目を丸くする。
「……餌にするには、とびきりデカくて凶暴な『猛獣』が、もう暴れ始めてるみたいだね」
五条は、嵐の中で煌めく赤黒い呪力の閃光を見て、ニヤリと笑った。
TVA本部から共に落ちてきた、全盛期・両面宿儺と、宿儺受肉体・五条悟。
あの二人の最悪のバグが、城へ向かう道を塞ぐ嵐を不愉快に思い、暇つぶしとばかりに正面から力技で「解体」しようと暴れ狂っているのだ。
「あいつら、あの概念のバケモノ相手に力比べしてるのか……狂ってるな」
包帯五条が唖然とする。
「使えるものはなんでも使おう」
五条は、デンジと包帯五条の肩をポンと叩いた。
「宿儺たちが嵐の左側を食い破ってる。その反動で、右側の呪力の流れが薄くなっているはずだ。……そこを、僕とデンジくんでこじ開ける」
五条は包帯五条に向き直った。
「お前は囮なんかにならなくていい。僕の後ろについてこい。あの城にいる黒幕の顔、一緒に見に行こうぜ」
包帯五条の瞳が微かに揺れ、やがて彼は深く頷いた。
「……ああ。頼む、オリジナル」
「デンジくん、エンジン全開でいくよ」
五条が指を鳴らす。
「おうよ! 嵐だろうが何だろうが、切り開いてやるぜ!」
デンジがチェーンソーの回転数を限界まで引き上げる。
宿儺という最悪のイレギュラーを「露払い」として利用し、五条たちは巨大な嵐の右側面へと疾走を開始した。
彼らの頭上には、全てを喰らう嵐が咆哮を上げ、その奥には、全ての因果を束ねる「在り続ける者」の城が、不気味な沈黙を保ったまま彼らを待ち受けていた。
長きにわたるマルチバースの旅が、ついにその終着点へと歩を進めようとしていた。