虚無(ヴォイド)の大地を、三つの影が疾走していた。
彼らの眼前にそびえ立つのは、天と地を繋ぐ紫黒の竜巻。
TVAが「剪定」という名目でゴミ箱に放り込んできた、無数のタイムラインの残骸。そこに生きていた人間、呪霊、悪魔たちの怨念が、途方もない年月をかけて融合し、意思を持たない巨大な捕食者『アノマリー・イーター』へと変貌した姿だ。
「ギャハハハハ! 風が強えぇ! なんだこの生臭ぇ竜巻は!」
チェンソーマンに変身したデンジが、両腕の刃を回転させながら強風を切り裂いて進む。
「口を開けてると、過去の亡霊が喉に詰まるよ、デンジくん!」
五条悟は、無下限呪術のバリアを船の舳先のように展開し、デンジと包帯五条を庇いながら嵐の右側面へと突入した。
ゴオオオオオオオオオッ!!!!
嵐の内部に足を踏み入れた瞬間、物理的な暴風に加えて、鼓膜を直接破るような「何億もの悲鳴」が脳内に響き渡った。
『助けて』『なぜ私が』『生きたかった』
無数の未練が、赤黒い呪力の雷となって五条たちに襲いかかる。
「チッ……!」
包帯五条が残された右腕を振りかざし、呪力の波で雷を打ち払う。
五条の「六眼」には、嵐を構成する乱気流の中に、かつて彼自身がTVAの指示でリセットした「呪霊と人間が逆転した世界」の残骸や、見知らぬ誰かの悲劇のタイムラインが、走馬灯のように浮かんでは消えていくのが見えていた。
ここは、文字通り「可能性の墓場」だ。
気を抜けば、自分自身の存在すらも「なかったこと」にされ、嵐の一部に溶けてしまう。
「オラァァァ!!」
デンジが跳躍し、眼前に立ち塞がった巨大な軍艦の残骸を真っ二つに両断する。
彼がチェーンソーで切り裂いた空間は、怨念も悲鳴も、綺麗さっぱり「消滅」していく。悪魔の持つ概念消滅の力が、このバグの集合体に対しては劇的な特効薬として機能していた。
「いいぞデンジくん、そのまま道を切り開いてくれ!」
「おうよ! でもよぉ、なんか壁がどんどん分厚くなってねえか!?」
デンジの言う通りだった。
アノマリー・イーターが、彼らという異物の侵入を感知し、嵐の質量を右側面に集中させようと蠢き始めたのだ。
紫色の雷が網の目のように張り巡らされ、彼らを包み込もうとする。
「まずい……! 嵐の目がこちらに向いている!」
包帯五条が叫ぶ。
だが、五条(正史)は黒い目隠しの奥で、不敵な笑みを浮かべていた。
「焦るな。……向こうの『猛獣』たちが、黙って食事の邪魔をされるタマだと思うか?」
その直後だった。
ズドォォォォォォォォン!!!!
彼らから数キロ離れた嵐の左側面で、太陽が爆発したような極大の閃光が弾けた。
そして、それに続くように、天と地を両断するような、桁違いの「斬撃の嵐」が内側から吹き荒れた。
『ギ……ガァァァァァァァッ……!!!』
意思を持たないはずのアノマリー・イーターが、初めて「痛み」に似た悲鳴を上げた。
全盛期・両面宿儺と、宿儺・五条の二人。
彼らは、嵐に消化されることを良しとせず、逆に嵐そのものを「解体」し、焼き尽くすことで力ずくで道をこじ開けようとしているのだ。
猛獣のあまりの暴れっぷりに、嵐の質量が左側面へと急激に引き戻されていく。
「今だ!」
五条の周囲の空間が、一気に青白く発光した。
彼の背後に、巨大な引力の球体が生成される。
「術式順転出力最大・『蒼』!!」
五条は、その巨大な引力を前方の「嵐の壁」に直接ぶつけた。
空間ごと吸い込み、強引に風穴を開ける。
しかし、削り取っても削り取っても、嵐はすぐに傷口を塞ごうと周囲の亡霊たちを寄せ集めてくる。
「もう一押し……!」
「退け、オリジナル!」
包帯五条が、五条の横に並び立った。
彼は失った左腕の肩口から、自らの生命力を削り出すような濃密な呪力を立ち昇らせていた。
「俺はもう、過去の幻影には縛られない。……お前が生きる未来のために、俺の全てを撃ち出す!」
包帯五条は、残された右腕一本で、己の限界を超える呪力操作を行った。
「術式反転・『赫』!!」
彼の手から放たれた赤黒い反発の力が、五条の『蒼』が作った風穴の縁に激突し、爆発的に空間を押し広げた。
「行けェェェェッ!! デンジ!!」
「っしゃあ!!」
デンジが、二人の五条がこじ開けた光のトンネルへと飛び込む。
彼の両腕のチェーンソーが、最後の薄皮となった嵐の壁を、文字通り「噛み砕き」、消滅させた。
バリィィィィィン!!!!
ガラスが割れるような音と共に、紫黒の嵐を完全に突破した。
嵐を抜けた瞬間、嘘のような「静寂」が彼らを包み込んだ。
「……ハァ、ハァ……」
包帯五条が膝をつき、肩で荒い息をする。
デンジも変身を解き、「あー、目が回った」と地面に大の字に寝転がった。
五条は、ゆっくりと目隠しを外し、目の前に広がる光景を見据えた。
そこは、小さな小惑星のように削り出された、黒曜石の岩盤の上だった。
空には星も嵐もなく、ただ薄暗い紫色の星雲のようなものが、遠くでゆっくりと渦を巻いているだけ。
時間の流れすら存在しない、完全な「終着点」。
そして、その岩盤の中央に、威風堂々とそびえ立つ漆黒の城。
TVAのオフィスのような無機質さは微塵もなく、どこか宗教的で、重厚な歴史を感じさせる造りの建築物だった。
「……ここが、黒幕の家か」
デンジが起き上がり、城を見上げる。「随分とシケた趣味だな。窓もねえし」
「ああ。でも、誰かが待っているのは間違いない」
五条は、城の正面にある、巨大な観音開きの重厚な扉を見据えた。
扉は、まるで彼らを歓迎するかのように、僅かに開いていた。
五条は一歩、城に向かって足を踏み出した。
その瞬間。
彼の「六眼」が、城の内部から漏れ出している微かな『呪力』の波長を捉えた。
「……」
五条の足が、ピタリと止まった。
蒼い瞳が、信じられないものを見るように見開かれる。
「おい、オリジナル? どうした」
息を整えた包帯五条が、訝しげに声をかける。
「……嘘だろ」
五条の声は、微かに震えていた。
彼が感じ取った呪力。
それは、TVAの職員のものではない。異次元の悪魔や、マーベル世界の魔術師のものでもない。
圧倒的に深く、重く、そして……悲しいほどに澄み切った、見覚えのある呪力。
それは、五条が先日「アース-JJK-091(平和な分岐世界)」で感じたものと似ていたが、質が違った。
あちらが「平穏に満ちた幻影」の呪力だとすれば、今、この城から漂ってくるのは「数え切れないほどの絶望と血を飲み込み、それでもなお全てを背負う覚悟を決めた」者の呪力。
それは、彼がこの世で最もよく知る男の、そして、自らの手で引導を渡したはずの男の魂の形だった。
(なぜ、お前の呪力が……この、時間の果てから……)
「オッサン、顔色悪いぞ。腹でも減ったか?」
デンジが五条の顔を覗き込む。
五条は、ゆっくりと息を吐き出し、乱れた前髪をかき上げた。
「……いや。ちょっと、信じられない客が待ってるみたいでさ。驚きすぎて笑えそうにないや」
五条は、再び歩き出した。
その歩みには、先ほどまでの飄々とした軽やかさはなく、一つの真実を確かめに行くための、重く静かな覚悟が込められていた。
「行こう。この狂ったマルチバースの……『種明かし』の時間だ」
漆黒の城の扉が、軋み音を立ててゆっくりと開いていく。
時間の果て。
そこには、神聖時間軸という名の「呪い」をたった一人で紡ぎ続けた、一人の神が待っている。