巨大な扉は、五条悟が手を触れるよりも前に、内側へと開いた。
まるで、ずっと前から彼らが来るのを待っていたかのように。
「……おじゃましますよ」
五条は警戒を怠らず、無下限の呪力を全身に巡らせたまま、薄暗いエントランスへと足を踏み入れた。
包帯五条が右腕で呪力を練りながら続き、デンジは「なんかカビ臭えな」と鼻をすすりながら最後尾を歩く。
城の内部は、奇妙なほど「静か」で「空虚」だった。
無限に続くかと思われる長い回廊。だが、その壁や床は一定ではない。
「ここは……なんだ? 空間が継ぎ接ぎだらけだ。TVAのオフィスとも違う。誰かの『脳内』を歩いているみたいだ」
「時間も空間も意味を持たない場所だからね。持ち主の心象風景が、そのまま城の形になってるんだろ」
五条は、六眼から絶え間なく流れ込んでくる「見覚えのある呪力」の波長を追って、迷いなく回廊を真っ直ぐに進んだ。
歩みを進めるごとに、その呪力は濃密になる。
やがて、回廊の突き当たり。
一際大きな、円形の空間へと辿り着いた。
そこは、プラネタリウムのドームのように天井が高く、周囲は全て宇宙空間のような漆黒に覆われていた。
そして、部屋の中央。
黄金色の光の糸が、無数に空を舞い、巨大な「織り機」のような不可視の装置に向かって吸い込まれ、あるいは吐き出されている。
セクター・フリンジ――JJKやCSMの世界群の時間軸を物理的に束ねる、システムの中枢。
その黄金の糸は、本来なら整然と織り込まれているはずなのだろうが、今はあちこちで結び目が解け、赤黒い呪力の火花を散らしてショートしかけていた。
そして、その暴走しかけている巨大な織り機の根元。
古びた木製のデスクに、一人の男が座っていた。
「……遅かったじゃないか、悟」
男は、束ねた長い黒髪を揺らし、ゆっくりと顔を上げた。
額に縫い目はない。呪詛師としての禍々しい袈裟ではなく、どこか懐かしい風貌をしている。
だが、その顔には、五条が知るどの夏油傑よりも、深い皺と、果てしない徒労感が刻まれていた。
何千年、何万年という時間を、たった一人でこの虚無の底で過ごしてきた者の顔。
五条悟の足が、ピタリと止まった。
六眼は、目の前の存在が幻影でも、誰かが化けた偽物でもないことを、冷酷なまでに証明している。
アース-JJK-091で見た「平和なIF世界の夏油」とも違う。彼が放つ呪力の重圧は、正史の、いや、それ以上に無数の悲劇を飲み込んできた「神」のそれだった。
「……傑」
五条は、小さく息を吐き出し、黒い目隠しを額へと押し上げた。
蒼い瞳が、デスクに座る男を静かに射抜く。
「なるほどね。この悪趣味な箱庭のテッペンに座ってたのは、どこかの分岐から引っ張られてきた『夏油傑(変異体)』だったってわけか」
五条は、いつもの飄々とした口調を取り繕いながらも、その声の奥に鋭い棘を潜ませた。
「感心するよ。あの口うるさいTVAの連中を出し抜いて、こんな時間の果てに引きこもってシステムを私物化するなんてさ」
夏油は、デスクの上に置かれていたティーカップを指で弄びながら、穏やかに微笑んだ。
「相変わらず、飲み込みが早いな。悟」
夏油はゆっくりと立ち上がった。
彼が立ち上がると同時に、背後で暴走しかけていた黄金の糸(タイムライン)が、ギシギシと悲鳴を上げながら無理やり軌道を修正された。彼自身の膨大な呪力が、この崩壊しかけたシステムを「力技」で繋ぎ止めているのだ。
「私がこの場所(時の終わり)に辿り着いたのは、君たちから見れば、ずっと過去の話だよ」
夏油は、ドームの宙に浮かぶ黄金の糸の一つを指先でなぞった。
「私が『非術師を皆殺しにする』という理想を、本当に成し遂げてしまったタイムラインが生まれたんだ」
夏油が指を弾くと、空間にホログラムのような幻影が浮かび上がった。
それは、血の海に沈む日本列島。そして、その惨状の中心で、オレンジ色の扉から現れたTVAのミニットメンたちが、夏油傑を包囲し、拘束している映像だった。
「一つのユニバースの理を丸ごと書き換えるほどの、異常な呪力の肥大化。……TVAはそれを『特大のネクサス・イベント(分岐)』として検知し、パニックに陥った。彼らはこのセクター・フリンジへ慌てて部隊を派遣し、私を変異体として捕らえたんだ」
「TVAに、捕まった……?」
包帯五条が眉をひそめる。
「ああ。そして彼らは気づいた。呪力というエネルギーの質量が重すぎて、通常の兵器では世界を剪定しきれないとね」
夏油は自嘲気味に笑った。
「そこで彼らは、捕らえた変異体の中でも、呪霊操術という便利な力を持つ私に目をつけた。『特例のエージェントとして働けば、お前の命は保証してやる』とね。……アルコットが君をスカウトした時と、全く同じ手口だ」
「……」
五条は無言で先を促した。
「私はエージェントとして、マルチバースの全容を知った。無限に広がる可能性。別の人生。……最初は、素晴らしいものだと思ったよ。誰もが笑って暮らせる世界があるかもしれないと」
夏油の表情から、笑みが消えた。
その瞳に、底なしの暗い絶望が浮かび上がる。
「だが、現実は違った。……悟、知っているかい? 『呪力』という人間の負の感情が存在する限り、世界が分岐すればするほど、呪いは無限に増幅していくんだ」
夏油が両手を広げると、周囲の空間に無数の世界の「終末」の映像が映し出された。
宿儺が世界を喰らい尽くし、血の海で笑う世界。
五条悟が闇に堕ち、非術師を皆殺しにして暴君と化した世界。
特級呪霊たちが進化し続け、人類が完全に絶滅した世界。
「可能性が自由になればなるほど、最悪のバッドエンドが指数関数的に生まれていく。TVAの連中は、セクター・プライム(TVAが主に監視する、マーベルの世界)さえ無事なら、私たちの世界がどうなろうと知ったことではなかった。……計算結果は冷酷だったよ。マルチバースを許容すれば、私たちの世界群は、遠からず呪いの飽和によって自壊する」
夏油の声が、静かに、だが確かな重みを持って五条の胸を打つ。
「だから、私は決めたんだ」
夏油は、背後の巨大な時間織り機を見上げた。
「TVAの連中には任せておけない。私がこのシステムを乗っ取り、この『時の終わり』から、私たちの世界を完全に隔離し、管理すると」
「……お前が」
五条の目が、鋭く細められた。
「じゃあ、あのアルコットとかいうお役人が、偉そうに『神聖時間軸』を語ってたのは……」
「ああ、私がアルコットたちの記憶を消去し、書き換えた」
夏油は淡々と事実を告げた。
「彼らは『マニュアルに従って異常を処理している』と思い込んでいるが、その指示を出しているのは私だ。私こそが、セクター・フリンジにおける『在り続ける者』だ」
「ふざけるなッ!!」
包帯五条が激昂し、『赫』を放とうと右腕を突き出す。
「お前が裏で糸を引いて、何兆という人間の可能性を……俺たちの平和な未来を勝手に切り捨てていたというのか!!」
「そうだ」
夏油は、包帯五条の怒りを受け止めるように、静かに頷いた。
「やめろ」
五条(正史)が、包帯五条の肩を掴んで制止した。
五条の六眼は、夏油が今、この城から全マルチバースの「時間そのもの」を呪力で縫い合わせ、強引に形を保っていることを理解していた。彼を殺せば、時間が弾け飛び、ここにいる全員が虚無の塵となる。
「……傑」
五条は、かつての親友を、静かに見据えた。
「お前が神を気取って、アルコットたちを操り、一つのタイムラインだけを残したって言うなら……どうして、あんな歴史を選んだ」
五条の声が、僅かに震えた。
「ワンダが穴を開けるまで、お前はここで永遠に、僕らが苦しむだけの歴史を監視し続けるつもりだったのか?」
夏油は、空になったティーカップをデスクに置き、静かに伏し目がちになった。
その表情には、後悔も、懺悔もない。
「……知りたいか、悟」
夏油が顔を上げる。その瞳の奥に、果てしない絶望の記憶が渦巻いているのを、五条は感じ取った。
「私がTVAという組織に拾われ、あそこで何を見て、何に絶望し……そしてなぜ、この『一本道』を選ばざるを得なかったかを」
夏油が静かに目を閉じると、彼から放たれる呪力の波長が、空間の壁面に張り付いたステンドグラスのような「記憶の窓」の一つを大きく拡張させた。
五条と、背後に立つ包帯五条、そしてデンジの視界が、強烈な呪力のフラッシュバックに飲み込まれる。
それは、五条が知る夏油傑ではない。
TVAによって「変異体」として処理されるはずだった、ある一つの極端な可能性の結末。