東京呪術高専。
あの日――次元が裂け、未知の怪物や他次元の魔術師たちと入り乱れた死闘から、十日が過ぎていた。
スティーヴン・ストレンジという奇妙な魔術師が閉じたはずの「穴」は、目に見える形では完全に塞がっている。
校庭では、虎杖悠仁がパンダを相手に組み手の稽古に励み、それを伏黒恵と釘崎野薔薇が呆れたように眺めている。いつもと変わらない、五条悟が守り抜きたいと願う「青い春」がそこにあった。
しかし。
「……気持ち悪いな」
校舎の屋上の縁に座り、五条は、目隠しの奥で微かに眉をひそめた。
彼の「六眼」が、数日前からこの世界に「ノイズ」を検知し始めていた。
空が、一瞬だけフィルムが焼けたようにセピア色にブレる。
歩いている生徒の影が、ほんのコンマ数秒、全く別の動きをする。
存在しないはずの誰かの笑い声や、金属がぶつかる音が幻聴のように鼓膜を叩く。
呪霊の気配ではない。結界の異常でもない。
まるで、一本のビデオテープの上に、別の映像が二重、三重に上書き録画されようとしているような、世界の処理落ち。
五条は掌を太陽にかざした。
「あの魔女(ワンダ)が引っ掻き回した影響が、まだ残ってるってわけか……。ストレンジのオッサン、アフターケアがなってないんじゃないの?」
独り言を呟き、立ち上がろうとしたその時だった。
――カチリ。
背後の空間から、場違いな音が響いた。
ただ、そこにあった空間が、文字通り「長方形に切り取られた」のだ。
五条が振り返るよりも早く、その切り取られた空間の縁が眩いオレンジ色に発光し、溶鉄のような光の扉(タイムドア)が形成された。
「……へえ」
五条はポケットに手を突っ込んだまま、ゆっくりとそちらへ向き直った。
茶色のスーツに身を包んだ、一人の初老の男だった。手にはブリーフケースを持ち、首から職員証のようなものを下げている。
その背後には、重厚な装甲服とフルフェイスのヘルメットを被った兵士(ミニットメン)が二名、警棒のようなもの(タイムスティック)を持って控えていた。
男は、現代最強の呪術師である五条悟を前にしても、恐怖はおろか、警戒の色すら見せなかった。
ただ、足元のコンクリートの照り返しを不快そうに顔をしかめ、手元のタブレット端末のようなものをタップした。
「指定座標、確認。……セクター・フリンジ、アース-JJK、タイムライン変動値、危険域に到達」
男の声は、ひどく事務的なものだった。
彼はタブレットから顔を上げ、五条を見た。
「君が五条悟だね。TVA(時間変異取締局)の上級分析官、アルコットだ。君に同行を求める」
「TVA? どこの保険会社?」
五条は薄く笑いながら、一歩前に出た。
「悪いけど、セールスなら間に合ってるよ。見ての通り、ここは学校でね。不審者はつまみ出す決まりなんだ」
五条から、目に見えないプレッシャが放たれる。
並の呪詛師であれば、この威圧感だけで膝から崩れ落ちるだろう。
だが、アルコットはため息をつき、スーツの埃を払っただけだった。
「呪力、というエネルギーだったか。セクター・プライム(マーベルの世界群)の魔法とはまた違った厄介な代物だな。だが、無駄な威嚇はやめたまえ。私たちは君と戦いに来たわけではない。……『清掃作業』の通達に来ただけだ」
「清掃?」
「そうだ」
アルコットは五条を冷徹な目で見据えた。
「君たちの世界は、本来『分岐』が存在しない、一本道の美しいタイムラインだった。我々TVAからしても、手のかからない辺境の田舎町のようなものだ。……だが、先日セクター・プライムで起きたインカージョン騒ぎの余波で、君たちの世界に『マルチバース』という概念が感染してしまった」
男の言葉に、五条の脳裏にストレンジや他次元の悪魔たちの顔がよぎる。
「今、この世界は癌細胞に侵されている。本来あり得ない『IFの可能性』が、次々と新たなタイムラインとして枝分かれし、正史であるこの世界(メインライン)のエネルギーを吸い上げて肥大化しているのだ」
アルコットがタブレットを操作すると、五条の目の前の空中にオレンジ色のホログラムが投影された。
それは、一本の太い光の線(正史)から、無数の細い糸(分岐)が絡みつくように発生し、太い線を締め上げていく映像だった。
「最近、視界がブレたり、幻聴が聞こえたりしないか? それは、他の可能性の世界が、君たちの現実に干渉し始めている証拠だ。このままでは、枝の重みに耐えきれず、君たちの世界は木っ端微塵に崩壊する」
「……なるほどね。で? その剪定作業とやらを、保険会社のおじさんたちがやってくれるってわけ?」
五条の口調から軽薄さが消え、声の温度が一段下がった。
「通常ならそうする」
アルコットは眉間を揉んだ。
「我々のリセットチャージを使えば、分岐した時間軸など一瞬で消去できる。……だが、君たちの世界は『呪い』という因果の質量が重すぎる。我々の標準装備では、完全に消し去ることができない。刈り取っても、呪霊のように再生してしまうのだ」
「だから僕を呼びに来たって? 随分と都合のいい話だね」
「都合がいいのはお互い様だ、五条悟」
アルコットの背後にいるミニットメンが、タイムスティックを構えた。
「君のその『無下限呪術』とやらなら、空間と因果を物理的に断ち切ることができると計算弾き出された。……君が我々に協力し、バグった分岐世界を自らの手で消去するなら、この正史の世界は保証してやろう」
五条は六眼を極限まで稼働させ、アルコットたちに纏わりつくエネルギーを視た。
呪力ではない。彼らが持つ小さな端末が、この宇宙の「時間のルール」そのものに介入し、編集権限を持っていることを理解した。
戦えば勝てるかもしれない。だが、生徒たちがいるこの学校で、時間を好き勝手にいじられるのはリスクが高すぎる。
「……なるほど。少しは話を聞く価値がありそうだ」
五条は立ち上がり、ポケットから手を出して両手を軽く挙げた。降参のポーズだ。
「賢明な判断だ」
アルコットは、オレンジ色の扉へと向かった。
「来たまえ。君が『何を消さなければならないのか』、我々の本部で正確に教えてやろう」
五条は、オレンジ色の光の向こう側――見たこともないような幾何学的な構造物が無限に連なる空間を見つめた。
振り返り、校庭で笑い合う生徒たちの姿を一度だけ確認する。
(待ってろよ。面倒事は、先生が片付けてくるから)
彼は薄く笑い、オレンジ色の扉の中へと足を踏み入れた。
それが、五条悟にとっての、終わりのない「選択」の始まりだった。