五条悟―神聖時間軸の剪定者―   作:ルルルだ。

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第二部(完結編)
23話 偽りの平穏


「本日の呪霊発生件数、全国でゼロ件。これで、連続98日目となります」

 

補助監督の伊地知潔高は、手元のタブレットから顔を上げた。

東京都立呪術高等専門学校、職員室。

 

五条悟は、長椅子に深く背中を預け、天井の木目を見つめたまま「ふーん」と気のない返事をした。

 

「ゼロ、ね。未登録の三級や四級の目撃情報も?」

「はい。窓からの報告も一切ありません。先月、北海道で『呪霊らしき影を見た』という通報がありましたが、調査の結果、ただの野生のヒグマの見間違いでした」

「……平和だねぇ」

 

五条は、黒い目隠しを少しだけ持ち上げ、伊地知の顔を見た。

伊地知は、いつものように胃痛に耐えるような神経質な顔……ではなく、憑き物が落ちたような、ひどく穏やかで柔和な笑みを浮かべていた。

 

「ええ。本当に、素晴らしいことです。我々補助監督の深夜の残業もなくなりましたし、何より、術師の方々が危険な目に遭わずに済む。ようやく、正しい世界になったのですね」

 

五条の指先が、コーヒーカップの縁でピタリと止まった。

 

時の終わりの城で、夏油傑が遺した「時間織り機」を破壊し、マルチバースを解放してから数ヶ月。

五条やデンジたちは、あの虚無の空間から無事にそれぞれの元の世界(アース)へと帰還した。TVAの干渉は消え、彼らの世界は誰のシナリオにも縛られない、無限の可能性を持つ自由な海へと解き放たれたはずだった。

 

夏油は言っていた。

『システムを破壊すれば、お前が愛した生徒たちが無惨に死ぬ世界や、呪霊が人類を喰らい尽くす世界が、無限に誕生することになるぞ』と。

 

五条は、その混沌を覚悟の上で、自由を選んだ。

悲劇が起きようとも、自分たちでそれを乗り越えていく強さを信じたからだ。

あの日以降、五条はかつてない規模の呪霊の暴走や、他次元からの未知の敵の侵略に備え、高専の警備体制を最大レベルに引き上げていた。

 

だが、現実はどうだ。

 

混沌どころか、呪霊という存在そのものが、この世界から「蒸発」してしまったのだ。

最初の数週間は、TVA崩壊による次元の揺り戻しかとも思われた。だが、1ヶ月が過ぎ、2ヶ月が過ぎても、呪いの気配は一切戻ってこない。

 

「……伊地知。ちょっと聞きたいんだけどさ」

五条は、椅子から立ち上がり、ゆっくりと伊地知のデスクに歩み寄った。

「昨日、渋谷でけっこうデカい事故があったよね。ブレーキとアクセルを踏み間違えたトラックが、交差点に突っ込んだやつ」

 

伊地知は、タブレットをスクロールさせ、笑顔のまま頷いた。

「ああ、はい。死者12名、重軽傷者30名の痛ましい事故ですね。ニュースでも大きく取り上げられていました」

「その現場周辺の、呪力の残滓測定はどうだった?」

「規定通り行いましたが、ゼロです。微弱な負の感情の澱みすら、一切観測されませんでした」

 

五条の「六眼」が、伊地知の脳の血流と、微細な筋肉の動きを解析する。

脈拍は一定。発汗なし。瞳孔の揺れ、なし。

12名が死亡する凄惨な事故の資料を読み上げているにもかかわらず、伊地知の精神は、完全に弛緩しきっていた。

 

「……そう。ご苦労様」

 

五条は職員室を出て、高専の長い廊下を歩き始めた。

 

「異常だ」

 

五条は、忌々しげに舌打ちをした。

呪霊が消えたこと自体が問題ではない。呪霊の発生源は、人間の脳から漏れ出す「負の感情」だ。

怒り、悲しみ、嫉妬、そして恐怖。

凄惨な事故が起きれば、被害者の無念や遺族の悲痛、目撃者の恐怖がそこに集積し、必ず呪力が淀む。それが人間の自然な精神の構造だ。

 

それが「ゼロ」になるということは、つまり。

人間の脳から、負の感情そのものが消え失せているということだ。

 

五条は、そのまま高専の敷地を出て、渋谷の街へとワープした。

 

スクランブル交差点。

数ヶ月前、羂索や他次元のヴィランたちが入り乱れ、地獄と化した場所。

そして昨日、暴走トラックが突っ込み、多くの命が奪われた現場。

アスファルトにはまだ、生々しいタイヤの痕と、洗い流しきれなかった血のシミが薄く残っている。

 

だが、交差点を行き交う群衆の顔を見て、五条は背筋に冷たいものを感じた。

 

誰もが、穏やかに微笑んでいる。

血のシミを避けて歩く者はいない。その上を、まるで花畑を歩くような足取りで踏み越えていく。

交差点の巨大なビジョンでは、ニュースキャスターが昨日の事故の続報を読み上げているが、その声色にはアナウンサー特有の「沈痛さ」を装う抑揚すらない。ただの天気予報を読み上げるような、平坦で明るいトーンだ。

 

五条は、交差点の真ん中で目隠しをずらし、六眼を完全に解放した。

 

見渡す限りの群衆。何千という人間の脳。

本来なら、一人ひとりから微弱に漏れ出しているはずの、チカチカとしたノイズのような呪力の漏出。

それが、見事に「無」だった。

全員の脳から、恐怖や苦痛を処理する特定の機能だけが、外科手術で綺麗に摘出されたかのように欠落している。

 

「……傑。お前が防ごうとしてた『最悪』ってのは、こういうことだったのか?」

 

五条の呟きは、誰の耳にも届かない。

 

マルチバースの扉が開き、セクター・フリンジの防壁が消滅したことで、この世界は他次元からの干渉を受けやすくなった。

派手な侵略者なら、五条がその力でねじ伏せれば済む話だった。

 

だが、今この世界に静かに浸食している「何か」は、物理的な破壊を行っていない。

人類に危害を加えるどころか、人類から「恐怖」と「苦痛」を奪い去り、究極の平穏を与えているのだ。

 

「……冗談じゃない。こんなの、ただの飼育箱だ」

 

恐怖がないということは、生存本能がないということだ。

悲しみがないということは、他者を尊ぶ心がないということだ。

痛みを恐れない人間は、もはや人間ではない。ただの精巧な肉の人形だ。

 

五条は、再び目隠しを戻し、ポケットに手を突っ込んだ。

 

生徒たちはどうなっている。

呪力という負の感情を武器とする呪術師たちが、感情を去勢されればどうなる?

 

嫌な予感が、五条の足を急がせた。

彼はすぐさま空間を圧縮し、高専の訓練場へと向かった。

この「偽りの平穏」という名の猛毒が、虎杖たちにまで及んでいないことを祈りながら。

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