五条悟―神聖時間軸の剪定者―   作:ルルルだ。

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24話 忘れ去られた感情

訓練場で、二つの人影がグラウンドの端で向かい合っている。

 

五条悟は、木陰からその様子を静かに観察していた。

虎杖悠仁と、伏黒恵。

彼らが無事に日常へ帰還し、こうして稽古に励む姿は、五条がTVAの箱庭を壊してでも守りたかった「未来」そのもののはずだった。

 

だが、五条の六眼は、決定的な異質さを捉えていた。

 

「……悠仁、次だ。構えろ」

伏黒が、木刀をだらりと下げたまま、ひどく平坦な声で言った。

「おう、伏黒。いつでもいいぞ」

虎杖もまた、顔から表情をすっぽりと抜け落としたまま、素手で構えを取る。

 

パァン!!

 

伏黒が踏み込み、木刀を虎杖の肩口へ振り下ろした。

本来なら、虎杖の人間離れした反射神経で躱すか、呪力で受け止めるべき一撃。

しかし、虎杖は全く動かなかった。

 

鈍い音と共に、木刀が虎杖の鎖骨に直撃する。

骨が軋む音が、少し離れた五条の耳にも届いた。

 

「あ、当たったな」

虎杖は、自分の肩を打った木刀を見下ろし、まるで他人の体に起きた出来事のようにポツリと呟いた。

痛みに顔をしかめることも、反撃に転じることもない。ただ、事実を確認しただけだ。

 

「ああ。俺の勝ちだ」

伏黒もまた、勝利の喜びも、友人を打ち据えたことへの躊躇いもなく、木刀を引き戻した。

 

「……おいおい」

五条は、木陰からゆっくりと歩み出た。

「二人とも、ちょっと待った」

 

「あ、五条先生」

虎杖が、木刀で打たれた肩を庇う素振りも見せずに振り返る。

伏黒も同じく、無表情のまま五条に一礼した。

 

「何してる? 悠仁、今のは完全に避けられただろ」

五条は、虎杖の肩に手を伸ばした。六眼で見れば、打撲による内部出血と骨の微細なヒビが確認できる。明らかに激痛が走っているはずだ。

 

「え? ああ、そうですね」

虎杖は、自分の肩を不思議そうに撫でた。

「なんか、避ける理由が思い浮かばなくて。当たっても、別に……どうってことないですから」

 

五条の背筋に、氷を滑らせたような悪寒が走った。

 

「どうってことない? 痛いだろ、それ」

「痛い……?」

虎杖は首を傾げた。「『痛い』っていうのは、体がダメージを受けたっていう信号ですよね。それは分かります。でも、だから何だって言うか……別に、嫌な感じはしないんです」

 

五条は伏黒に視線を移した。

「恵。お前もだ。寸止めもしないでフルスイングしたな。もし悠仁の骨が折れたらどうするつもりだった?」

 

「骨が折れれば、家入さんの反転術式で治してもらえばいいだけです」

伏黒は、木刀を地面に突き立て、AIの音声アシスタントのように滑らかに答えた。

「怪我を恐れて訓練の手を抜くのは非効率です。……そもそも、彼が怪我をしても、私が彼に危害を加えたとしても、そこに何の『問題』があるのか分かりません」

 

「問題が大アリだろうが!!」

 

五条は思わず声を荒らげた。

その怒声に、虎杖も伏黒も、ビクッと肩をすくめる……ことすらしなかった。

彼らはただ、五条の大きな声量の波形を物理的な音として処理し、「なぜ先生の音声ボリュームが上がったのか」と不思議そうに見つめ返してくるだけだ。

 

五条は、自分の手が微かに震えていることに気づいた。

 

(……感情が、物理的に消去されている)

 

渋谷のスクランブル交差点で見た群衆と同じだ。

恐怖、苦痛、悲しみ、そして怒り。

人間が生存するために不可欠な「負の感情」の概念が、彼らの脳から綺麗に抜き取られている。

だから、怪我を恐れない。友人を傷つけることに罪悪感を覚えない。他人の死にも無関心になる。

 

「……呪力は出せるか?」

五条は、努めて冷静な声を取り繕い、二人に尋ねた。

 

虎杖と伏黒は、言われた通りに掌に意識を集中させた。

数秒の沈黙の後、虎杖が申し訳なさそうに頭を掻いた。

「ダメですね。なんか、エンジンがかからないっていうか……怒りとか、悔しさみたいなものを燃料にしてたはずなんですけど、その燃料の作り方を忘れちゃったみたいです」

 

伏黒も同意するように頷く。

「私も同じです。式神を呼び出すための、精神のトリガーが引けません」

 

呪術師から負の感情を奪う。

それは、彼らから呪力を奪い、戦う力を完全に去勢することに他ならない。

 

「……そうか。二人とも、今日はもう休んでていいよ。硝子に肩診てもらってね」

五条は、二人に背を向けた。

 

「はい。お疲れ様でした、先生」

二人は、感情の抜けた声で同時に答え、連れ立って医務室の方へ歩き出した。

その背中には、かつて彼らが背負っていた「呪術師としての業」も「若者としての葛藤」も、何一つ残っていなかった。

 

五条は、無人のグラウンドに一人取り残された。

 

「……こんな平和を、誰が望んだ?」

 

五条の拳が、ギリッと音を立てて握り込まれる。

マルチバースを解放した代償。

夏油傑が命懸けで防ごうとしていたのは、特級呪霊の暴走や、別次元からの派手な侵略軍だけではなかったのだ。

 

(次元の壁が消えたことで、この世界に、人間から『感情(恐怖)』を食い物にしている得体の知れないバグが入り込んだ)

 

五条は、六眼を最大出力で展開し、東京の空を睨みつけた。

敵の姿は見えない。呪力の波長もない。

なぜなら、敵は「呪霊」ではないからだ。呪力というルールに縛られていない、全く別の生態系を持つ存在。

 

「……悪魔」

 

五条の脳裏に、かつて共にTVA本部で暴れ回った、頭のネジの飛んだ少年の顔が浮かんだ。

人間の恐怖を力に変え、概念そのものを食い尽くす力を持つ存在。

あの少年が住んでいたセクター・フリンジのもう一つの世界、アース-CSMのルールが、この世界に直結し、浸食しているのだとしたら。

 

「……探しに行くしかないか。このふざけた静寂の中で、一人だけ騒がしいバカを」

 

五条は、ポケットからアルコットが遺したテンパッドの残骸を取り出した。

通信機能は死んでいるが、次元の座標を検知するセンサーはまだ生きているはずだ。

彼は、この感情のない人形の国に成り下がった世界で、ただ一人の少年を探し出すため、虚空へと歩み出した。

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