東京都心。
かつては雑踏のざわめきとクラクション、そして見えざる呪霊たちの淀んだ気配が渦巻いていたこの街は、今や気味が悪いほどの静寂に包まれていた。
五条悟は、アルコットが遺したテンパッドの残骸を片手に、渋谷のスクランブル交差点を見下ろすビルの屋上に立っていた。
テンパッドの液晶画面はひび割れ、オレンジ色の光はとうに失われている。しかし、五条が微弱な呪力を流し込むと、次元の境界を感知するセンサーだけが辛うじて反応を示した。
ピピッ……ピピッ……。
「……あっちか」
五条は、テンパッドが指し示す方角――新宿方面へと視線を向けた。
六眼を通して見る街の光景は、何度見ても背筋が寒くなるものだった。
人々は規則正しく歩き、信号を守り、誰かとぶつかっても機械的に頭を下げる。
しかし、その顔に表情はない。
転んで膝から血を流している子供がいても、泣き声を上げない。母親も慌てて駆け寄ることはなく、ただ淡々と傷口を確認するだけだ。
ビルの解体現場で鉄骨が落下し、作業員が下敷きになっても、周囲の人間はパニックを起こすどころか、作業手順の一つとして救急車を呼ぶだけ。そこに「悲惨な事故」に対する恐怖や同情は一切存在しなかった。
「……見事なもんだね。完全に去勢されてる」
五条は、ビルの縁から足をぶらつかせながら独り言を呟いた。
恐怖がない。苦痛がない。悲しみがない。
それはつまり、争いも、犯罪も、そして「呪霊」も生まれない世界ということだ。
夏油傑が血反吐を吐いて目指し、結果として挫折した「非術師のいない平和な世界」を、あるいはTVAが管理しようとした「神聖時間軸」の究極の完成形を、この見えざる悪魔はあっさりと実現してしまったのだ。
だが、それは人間が人間であることを放棄した、ただの精巧な肉人形の社会に過ぎない。
「傑。お前が命懸けで防ごうとしてたのは、この『感情の漂白』だったのか?」
五条の脳裏に、時の終わりの城で消えゆく親友の笑顔がフラッシュバックする。
あの時、自分はマルチバースを解放し、「自由な未来」を選んだ。
その結果が、この心なき箱庭だというのなら。
「……悪いけど、僕の好みじゃないな。こんな面白くない世界」
五条は立ち上がり、黒い目隠しを少しだけずらした。
「せいぜい派手に引っ掻き回させてもらうよ」
テンパッドの反応が、新宿の地下深く――かつて呪霊の巣窟だった廃地下鉄の構内を指し示している。
五条は空間を圧縮し、一瞬にしてその場へと転移した。
新宿地下、旧第三セクター区画。
ここには、かつて人間たちの漏れ出した負の感情が溜まり、無数の低級呪霊が蠢いていたはずだ。
だが今は、埃とカビの匂いしかしない。呪力の残滓すら、綺麗に「消去」されている。
「……いるなら出ておいでよ。かくれんぼは嫌いなんだ」
五条は、暗闇に向かって軽く声をかけた。
返事はない。
しかし、五条の六眼は、暗闇の奥で「物理的な空間の歪み」を捉えていた。
呪力ではない。魔術でもない。
この世界の理とは全く異なる、異界の概念だった。
五条が一歩踏み出した瞬間。
ズシュッ!
暗闇から、目に見えない無数の「糸」のようなものが、五条の四肢に絡みつこうと伸びてきた。
それは物理的な糸ではない。人間の精神に直接アクセスし、感情の特定の領域を「切除」しようとする、概念的な干渉だ。
「おっと」
五条は立ち止まり、無下限呪術を自動展開のまま待機させた。
糸は五条の皮膚の数ミリ手前で、見えない壁に阻まれてピタリと止まる。
「これが、みんなの頭から『怖い』とか『痛い』を引っこ抜いてる正体か。……随分と繊細なメスだね」
五条は、目の前でうごめく透明な糸を観察した。
「でも、僕には届かないよ。僕と君の間には『無限』があるからね」
糸はしばらく五条の周囲を這い回っていたが、やがて諦めたように暗闇の奥へと引っ込んでいった。
この悪魔の能力は、対象の脳(精神)に直接干渉することで成立する。物理的な距離を無限に分割する五条の術式は、その干渉すらも防ぎ切っていたのだ。
「さて、糸の持ち主にご挨拶と行きますか」
五条は、糸が引っ込んでいった奥の通路へと歩を進めた。
暗闇を抜けた先には、広大な地下広場があった。
そして、その中央に「それ」はいた。
人の形をしていない。
巨大な脳髄と、無数の眼球、そして白骨化した翼が複雑に絡み合った、冒涜的なオブジェのような姿。
それが、宙に浮きながら、何本もの透明な糸を地上の人間たちに向けて伸ばし続けていた。
『……』
オブジェの表面にある無数の眼球が一斉にギョロリと動き、五条を凝視した。
「初めまして。君が、このつまらない映画の監督さん?」
五条は、ポケットに手を入れたまま、オブジェを見上げた。
「『恐怖』や『苦痛』を食べてるみたいだけど……そんなに美味しい? 僕なら、もっと甘いパフェの方が好きだけどな」
『……異物……』
オブジェから、空気を震わせるような声なき声が響いた。
人間の言語ではない。脳内に直接、概念として叩き込まれる意思。
『……我は、忘却(オブリビオン)。……苦痛を忘れ、恐怖を忘れ、人は平穏を得る。……なぜ、抗う……』
「忘却の悪魔、ね」
五条は、その名前を聞いて納得したように頷いた。
「チェンソーのガキの世界から、次元の壁が消えた隙にこっちへ出稼ぎに来たってわけだ。……確かに、ここは君にとって最高のバイキング会場だろうね。呪いっていう極上のスパイスが乗った恐怖が、そこら中に転がってたんだから」
五条の言葉に、忘却の悪魔の眼球たちが不快そうに細められた。
『……お前は、苦痛を望むか。……恐怖を望むか……』
「望まないさ」
五条は、スッと表情を消した。
「でも、それを奪われた人間は、もう人間じゃない。ただの壊れたおもちゃだ。……僕の生徒たちを、勝手に空っぽにしないでくれる?」
五条が右手の指を交差させようとした、その時。
「――待ちやがれ、オッサン!! そいつは俺の獲物だ!!」
地下広場の天井が、轟音と共に崩れ落ちた。
コンクリートの破片と鉄筋が降り注ぐ中、エンジン音を唸らせながら降下してきたのは、デンジだ。
ギャリギャリギャリギャリ!!!!
「……遅いよ、デンジくん」
五条は、瓦礫を無下限で弾きながら、空から降ってきたデンジを見上げて、ニヤリと笑った。
「待ちくたびれて、僕が先にデザート食べちゃうところだったよ」
「うるせぇ! この世界、メシがクソ不味くてイライラしてんだよ!」
デンジは着地と同時に、忘却の悪魔に向けて突進した。
「恐怖も痛みもねぇ肉なんて、噛みごたえがねぇんだよ! 全部吐き出させろぉぉ!!」
感情が消えた世界で、唯一正気を保つ「最強の呪術師」と「悪魔の心臓を持つ少年」。
二つの特異点が、ついに合流を果たした。