「テメェのその糸、全部ぶった斬ってやるよ!!」
地下広場に、デンジの野蛮な雄叫びが反響した。
両腕と頭部のチェンソーが、高速回転する。彼はコンクリートの床を蹴り砕き、空中に浮かぶ『忘却の悪魔』へ向かって一直線に跳躍した。
「そのままミンチになれやァァッ!!」
デンジは、悪魔の本体を守るように蠢く透明な糸の束に向けて、渾身の力で右腕の刃を振り下ろした。
悪魔の肉を切り裂き、血飛沫を浴びる。それがいつもの彼の戦い方であり、チェンソーの悪魔としての絶対的な暴力の証明だった。
だが、刃が糸に触れた瞬間。
ギャリ、ガリッ……ガガガガッ!
「……あ?」
いつもならバターのように対象を両断するはずの刃が、透明な糸に食い込んだまま止まった。それどころか、チェンソーの轟音が、ガス欠寸前のエンジンのように「ブルル……プスッ」と弱々しい音を立てて明滅し始めたのだ。
回転速度がみるみる落ち、頑丈なはずの刃がポロポロと刃こぼれを起こして砕け散っていく。
『……脆弱な、ノイズ……』
忘却の悪魔の無数の眼球が、空中で静止したデンジを冷ややかに見据えた。
透明な糸の一本が鞭のようにしなり、動けなくなったデンジの胴体を真横から薙ぎ払う。
「がはッ!?」
防ぐ間もなく、デンジは弾き飛ばされ、地下広場の壁面に深々と叩きつけられた。パラパラとコンクリートの破片が落ち、彼は血を吐いてうずくまる。
「……おいおい、派手に突っ込んだ割には、随分と刃こぼれが早いじゃないか」
少し離れた場所で見ていた五条悟が、呆れたようにため息をついた。
「ちげぇよ……! なんか、エンジンの調子がクソ悪いんだよ!」
デンジは壁から身を引き剥がし、胸のスターターロープを苛立たしげに何度も引いた。
「いつもならもっとギャリギャリ回るのに……! スロットルが全開にならねえ! 力が抜けてくみたいだ!」
五条は、デンジの言葉に微かに眉をひそめた。
(力が抜けていく? ……いや、そういえば僕もさっきから……)
五条は自身の体内を巡る呪力回路に意識を向けた。
六眼を通して見る彼自身の呪力は、まるで目に見えない極小の穴から少しずつ空気が漏れ出しているように、チリチリと減少を始めている。
「ま、君の整備不良は後で聞くよ。ここは僕がサクッと終わらせる」
五条は右手の指を交差させ、呪力を練り上げた。
「術式反転・『赫』」
指先から、赤い反発のエネルギーが放たれる――はずだった。
「……ん?」
まるで線香花火のようにパチパチと弱々しく瞬き、本来の半分以下のサイズしか形成されなかった。
そのまま放たれた『赫』は、悪魔の透明な糸に激突したものの、数本を弾き飛ばしただけで霧散してしまった。
五条の顔から、余裕の笑みがスッと消え失せた。
(出力が落ちてる……!? いや、練り上げた呪力が、術式を発動する直前で大気中に『蒸発』したのか?)
『……愚かな……』
忘却の悪魔から、脳を直接撫で回されるような不快な思念波が届く。
『……この世界から、既に「恐れ」は消えた。「痛み」も消えた。……負の感情という燃料は、とうに干上がっている……』
悪魔から伸びる数十本の透明な糸が、一斉に五条に向けて襲いかかってきた。
「チッ!」
五条は立ち止まり、『無下限呪術』でそれを受け止めようとした。先ほどは、この見えない壁で完全に糸の侵入を防げたはずだ。
糸の先端が、五条の皮膚の数ミリ手前でピタリと止まる。
だが、次の瞬間。
バチッ、バチバチッ……!
無下限のバリアが、激しく明滅し始めた。
(マズい、バリアを維持するための呪力供給が追いつかない……!)
五条の呪力が急激に枯渇していく。それに比例して、無限に分割されていたはずの空間の距離が、少しずつ、だが確実に縮まっていく。
数ミリ手前で止まっていた糸が、ジリジリと五条の顔面へと押し込まれてくる。
五条は反射的に首を捻り、後方へ跳躍した。
ヒュンッ、と風を切る音がして、五条の頬を透明な糸が掠めていく。
ツー……と、白い肌に赤い線が走り、鮮血が滴り落ちた。
五条は、自らの頬に触れ、指先に付いた赤い血を見つめた。
無下限が、破られた。いや、自分自身の呪力出力が落ちすぎて、術式が一時的に「剥がれた」のだ。
「……なるほどね。そういう理屈か」
五条は、額に冷や汗を滲ませながら、この現象の全容を完全に理解した。
呪力とは、人間の負の感情の澱みから生まれるエネルギーだ。
人々から「恐怖」と「苦痛」の記憶を消し去ることで、この世界は究極の平和を手に入れた。だがそれは同時に、世界から「呪力」というエネルギー源そのものを根こそぎ奪い取ることを意味していた。
悪魔であるデンジの力もまた、人間が抱く恐怖の総量を燃料にしている。だから刃が回らなくなったのだ。
五条の呪力も、デンジのチェンソーも、今や燃料タンクに穴の開いたスクラップと同義だった。
この心なき平和な世界において、彼らの存在そのものがシステムに対する「エラー」として排除されようとしている。
『……抗うな。全てを忘れ、安らぎの海へ沈め……』
悪魔の巨大な脳髄が不気味に脈打ち、地下広場の全方位から、逃げ場のない網の目のように透明な糸が展開された。
上、下、左右。あらゆる空間が糸で封鎖され、徐々に五条とデンジを追い詰めていく。
「クソッ、囲まれた! 切断できねえぞ!」
デンジが欠けたチェンソーを振り回すが、弱々しい回転では糸に傷すらつけられない。
五条もまた、迫り来る糸の檻を見つめ、ギリッと歯を食いしばった。
(出力はもう40%を切ってる……いや、まだ下がっていく。このままじゃ、僕の自我まで直接引っこ抜かれる)
最強の術師と、悪魔の少年。
彼らの持つ絶対的な力が、音もなく世界から「蒸発」していく。為す術もなく忘却の糸に絡め取られようとした、まさにその絶対絶命の瞬間だった。
「――チッ。相変わらず、無様なツラを晒しているな、五条悟」
地下の冷たい空気を切り裂くように、重く、傲慢で、ひどく不機嫌な声が響いた。
五条の背後。
彼が地上に置いてきた伏黒恵、今や感情を失い、操り人形のようになってしまった少年から、どす黒い呪力がヘドロのように溢れ出した。
その呪力は、干上がったこの空間において、あまりにも異質で、不純で、絶対的な存在感を放っていた。
五条の目が、驚愕に見開かれる。
「……お前」
伏黒恵の肉体を受肉の器とし、忘却の悪魔の干渉を深層意識の底で免れていた、16本分の指の力を宿す呪いの王。
両面宿儺だった。
宿儺は、迫り来る忘却の糸の檻を鬱陶しそうに一瞥すると、無造作に指を二本立て、軽く振るった。
「『解』」
不可視の斬撃が奔る。
五条とデンジを正面から包囲していた数十本の透明な糸が、スパッと切断され、空中で霧散した。
「助かった……いや、全然助かってないか。よりにもよって一番会いたくないヤツが出てきたよ」
五条が皮肉っぽく笑う。
だが、宿儺の表情は晴れない。それどころか、かつてないほどの苛立ちを露わにして、自身の掌を睨みつけていた。
先ほどの『解』。
普段の彼であれば、広場の壁ごと悪魔の本体までを両断しているはずの威力が、わずか数十本の糸を切り裂いただけで完全に止まってしまったのだ。
「……不愉快だ」
宿儺は、ギリッと牙を噛み合わせた。
「俺の魂の底力まで、薄れかけているではないか」
呪いの王すらも例外ではない。
世界から「恐怖」が消えゆく今、絶望的なまでの力の枯渇が、彼ら三人を同じ死の土俵へと引きずり降ろしていた。
※前作の時点で、宿儺は伏黒に受肉しています(必要ない描写だったと後悔しております)。