無数に張り巡らされていた糸は、宿儺の放った『解』によって一時的に退けられたものの、再び空を這い回り、間合いを計っている。
「……ハッ」
五条悟は、頬の血を親指で拭いながら、自分の後方で不機嫌そうに舌打ちをしている両面宿儺を振り返った。
その顔には、先ほどまでの焦りよりも、どこか面白がるような悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。
「いやー、助かったよ。君に助けられる日が来るなんてね」
五条は、ポケットに手を入れたまま、わざとらしく明るいトーンで言った。
「でもさ、ちょっと出力が足りなくない? この前宇宙で会った君の『別バージョン』は、もっと元気いっぱいに色々ぶっ壊したりしてたよ? そっちの君は随分と大人しいねぇ」
五条の挑発に、宿儺の目がスッと細められた。
「……別バージョンだと? 貴様、俺の魂の欠片が別の次元で何をしているか知っているのか?」
宿儺の声は地を這うように低く、殺意に満ちていた。
「だが、そんな戯言はどうでもいい。俺が気に食わないのは、この薄気味悪い空間の『空気』だ」
宿儺は、自分の掌を握ったり開いたりして、体内を巡る呪力回路の淀みを確かめた。
「外の世界が、魂の抜け殻のような薄ら寒い気配で満ちていた。俺の呪力が、外気に触れるそばから削り取られていく。……不快極まりない」
宿儺の言う通りだった。
人間が「恐怖」や「苦痛」を感じなくなることで、呪力の源泉が干上がっている。
宿儺という特級呪物の塊でさえ、この世界の大気中では、まるで酸素の薄い高山にいるかのように、呪力の生成が上手くできないのだ。
「おい、そこの刺青の兄ちゃん!」
デンジが、欠けたチェンソーをスターターロープに押し当てながら、宿儺を指差した。
「俺の獲物を横取りすんじゃねえぞ! こいつは俺がミンチにするんだからな!」
宿儺は、デンジの方を一瞥し、鼻で笑った。
「吠えるな、犬っころ。貴様のその鈍らな刃で、あの脳みその化け物をどうやって斬るつもりだ? ……そもそも、貴様からも『恐怖』という名の呪力がまるで感じられん。ただの鉄屑だ」
「なんだとテメェ!」
デンジがキレて飛びかかろうとするが、五条がその前に腕を出して制止した。
「落ち着けってデンジくん。今は身内割れしてる場合じゃない」
五条は、上空で再び動き始めた忘却の悪魔を睨みつけた。
「……あいつ、また仕掛けてくるよ。しかも、さっきより糸の密度が上がってる」
『……無駄な、足掻き……』
忘却の悪魔の無数の眼球が、三人を同時に見据える。
空間の歪みがさらに強くなり、今度は数百本の透明な糸が、鞭のようにしなりながら、全方位から彼らに殺到してきた。
「チッ……!」
宿儺が再び指を振るう。
「『捌』!」
対象の呪力量に応じて威力を調整する斬撃が、網の目のように放たれる。
だが。
ガィィィンッ!!
「なっ……!?」
宿儺の目が驚愕に見開かれた。
先ほどは数十本の糸を切り裂けたはずの斬撃が、今度は糸の表面で火花を散らし、弾き返されたのだ。
「言っただろ、出力が落ちてるって」
五条が、迫り来る糸を体術で辛うじて躱しながら叫ぶ。
「僕らの呪力は時間経過でどんどん『蒸発』してる! さっきの君の斬撃は、もう10%以下の威力しか出てないんだよ!」
「オラァァァ!!」
デンジもまた、刃の欠けたチェンソーで糸を殴りつけるが、全く歯が立たずに弾き飛ばされる。
宿儺は、自身の斬撃が通じなかった事実に、ギリッと牙を噛み合わせた。
「……屈辱だ。この俺が、こんな得体の知れん化け物の糸切れに手こずるとは」
宿儺のプライドが、彼自身に許容できない現実を突きつけていた。
このままでは、呪いの王である自分すらも、あの脳みその悪魔に自我を抜き取られ、消滅してしまう。
「どうする、五条悟」
宿儺は、五条を睨みつけたまま、初めて「対話」を試みるような口調で言った。
「貴様のその『無限』とやらも、もう機能していないのだろう。……俺たち三人、まとめてあの脳みその餌になるつもりか?」
「まさか」
五条は、額の汗を拭いながら、ニヤリと笑った。
「提案がある。……僕ら、一時休戦ってことで手を組まない?」
「……俺に、貴様らと共闘しろと言うのか?」
宿儺の顔が、さらに不機嫌に歪む。
「他に手があるなら聞くよ? 君が一人で、あの化け物を刻めるっていうならね」
五条は、迫り来る糸の猛攻を避けながら、言葉を続ける。
「あの悪魔は、地上の人間たちから『恐怖』を奪い取って、自分の力にしてる。つまり、あの糸が地上に繋がっている限り、僕らのエネルギーは吸われ続けるし、あいつは無敵のままだ」
五条は、悪魔の本体から真っ直ぐ上へ向かって伸びている、極太の透明な糸の束を指差した。
「あいつの本体は『概念』に守られてて、今の僕らの出力じゃ傷一つつけられない。……でも、あいつが地上に伸ばしてる『糸』を切断して、人間たちに『恐怖』を返してやれば……世界に呪力が戻る」
「『糸』を、引きちぎるだと?」
宿儺は、五条の言葉に鼻で笑った。
「馬鹿を言え。俺の『解』でさえ表面を撫でるだけだったのだぞ。この枯渇した呪力出力で、あの概念の塊のような糸をどうやって斬るというのだ。貴様のその眼穴は節穴か?」
「節穴じゃないから言ってるんだよ」
五条は、迫り来る透明な糸の群れを最低限のステップで躱しながら、六眼を極限まで凝らした。
「僕の眼には、あの糸の構造がハッキリ見えている。あれは完全に形のない幽霊じゃない。地上の人間たちの脳髄と、あいつの本体を繋ぐ『物理的な管』だ。管である以上、引っ張れば必ず『張力』が発生する」
「張力……?」
デンジが首をかしげる。「なんだそれ。美味いのか?」
「ゴムゴムの実を限界まで引っ張ったら、パチンって切れやすくなるだろ? あれと同じ理屈だよ」
五条はデンジにも分かるように噛み砕いて説明し、再び宿儺を見据えた。
「いいか、二人とも。僕の残りの呪力で、極小の『蒼』を生成する。それでターゲットの糸一本を、ぶち切れる寸前までピンと張り詰めさせる。……そこが、概念の糸が最も物理的な脆さを露呈する『点』だ」
五条は、自らの人差し指と中指を交差させた。
「僕が合図した瞬間に、その一点へ向けて、君の斬撃とデンジくんのチェンソーを、寸分違わぬタイミングで十字に叩き込め。……三人がかりで、たった一本の糸を強引にへし折るんだ」
宿儺の顔が、かつてないほど不機嫌に歪んだ。
「……俺に、この犬っころとタイミングを合わせろと? 呪いの王たるこの俺が、貴様らの三文芝居の歯車になれと言うのか」
「嫌ならいいよ? 君の魂がガス欠で消え去るのを、ここで大人しく待ってなよ」
五条は挑発的に笑った。
「でも、プライドが許さないだろ? 自分より下等な脳みそ野郎に、手も足も出ずに干からびて死ぬなんてさ」
「……チッ。減らず口を叩く男だ」
宿儺はギリッと牙を噛み合わせた。
「一度だけだ。俺の斬撃に少しでも遅れれば、貴様らごと微塵切りにしてやる」
「俺は合わせるとかよくわかんねえけど、引っ張ってパンパンになったところをブチ斬ればいいんだな! それなら得意だぜ!」
デンジが、刃の欠けたチェンソーを構え直し、エンジンをブルンと吹かした。
「オッサン、さっさと引っ張れ! 腹減って死にそうだ!」
『……愚かな……這い虫どもが……』
忘却の悪魔が、三人の不穏な動きを察知し、その巨大な脳髄を波打たせた。
数十本の透明な糸が、束となって一本の巨大な槍のように変形し、五条たちを串刺しにせんと殺到してくる。
「散れ! ターゲットは右から三番目、一番太い糸だ!」
五条の合図で、三人は同時に動いた。
デンジが壁を蹴り、天井の配管にぶら下がって糸の猛攻を回避する。
宿儺は瓦礫を盾にし、無駄な呪力消費を抑えながら対象の糸との距離を詰めた。
五条は、迫る糸の槍を紙一重でかわしながら、右手の指先に残された微弱な呪力を一点に集束させる。
(……出力は8%。『無下限』の自動防御すら維持できない。本当にガス欠寸前だ)
五条は冷や汗を流しながらも、六眼で目標の糸の「座標」を完全にロックオンした。
「術式順転・『蒼』!!」
五条の指先から、ゴルフボールほどの大きさの青い引力球が放たれた。
それは悪魔の本体を狙うのではなく、右から三番目の糸の「中間地点」の空間にピタリと固定された。
凄まじい引力が、透明な糸を掃除機のように吸い込もうとする。
ギリギリギリッ……!
悪魔の本体と地上を繋ぐ糸が、五条の『蒼』に引っ張られ、弓の弦のように限界まで張り詰めた。
透明だった糸の表面に、物理的な負荷による「歪み」が可視化される。
『……ギィ……!?』
忘却の悪魔が、初めて明確な動揺の思念を漏らした。
概念で構成された自身の器官に、物理的な「痛み」に似た負荷が掛かっているのだ。
「今だ!! 叩き込め!!」
五条が叫ぶ。
「オラァァァァァッ!!」
デンジが天井から落下し、重力と体重の全てを乗せて、右腕のチェンソーを張り詰めた糸の一点に振り下ろす。
「『解』」
全く同時に。
宿儺が、地面スレスレの死角から、残された呪力の出力を極限まで絞り込み、刃の如く鋭い不可視の斬撃を上段へ向けて放ち上げた。
上からのチェンソーの暴力と、下からの呪力の斬撃。
五条の『蒼』が作り出した極限の張力の「点」で、二つの刃が完璧な十字を描いて激突した。
ガギィィィィィィンッ!!!!
地下広場に、金属同士が限界を超えて軋むような、耳を塞ぎたくなる高周波が鳴り響いた。
火花が散る。デンジのチェンソーの刃がさらに欠け、宿儺の斬撃が弾かれそうになる。
「切れろぉぉぉぉ!!」
デンジが血走った目で叫び、無理やりチェンソーを押し込む。
「押し通せ、犬っころ!」
宿儺もまた、己のプライドを懸けて呪力の出力を底上げし、斬撃の刃をさらに深く食い込ませた。
限界まで張り詰めていた糸の表面に、ピキッ、と一本の亀裂が走る。
五条の六眼が、その亀裂を見逃さなかった。
「そこだ!」
三つの力が、完全に一点で臨界を突破した。
ブゥゥン……バツンッ!!!!
重々しい破断音と共に。
忘却の悪魔が地上へと伸ばしていた最も太い糸の一本が、ついに中央から真っ二つに引きちぎられた。
切断された糸の先が、狂った蛇のようにのたうち回り、やがて光の粒子となって空間に溶けていく。
『……ギ……ギャアァァァァァァッ!!!』
忘却の悪魔の無数の眼球が、苦痛に大きく見開かれ、脳髄から紫色の体液が噴き出した。
概念が切断されたことによる、本体へのダイレクトなダメージ。
「やったぞ……!」
五条が息を吐き出した、その瞬間だった。
ドクンッ。
地下広場の空気が、一気に重さを増した。
五条の体内に、そして宿儺とデンジの体内に、信じられないほどの「熱」が流れ込んでくる。
糸が切断されたことで、地上のどこかにいる数万人の人間たちの脳内に、悪魔に奪われていた「恐怖」や「苦痛」の記憶がフラッシュバックとして逆流したのだ。
突如として蘇った事故の記憶、呪霊の恐怖、死への不安。
それらが爆発的な『負の感情』となって、世界の大気に一気に還元された。
「……ハッ。空気が美味くなったな」
宿儺が、自身の掌を見つめ、凶悪な笑みを深くした。
干からびていた彼の呪力回路に、極上の「呪い」が猛烈な勢いで注ぎ込まれ、循環を始めている。
「エンジン、直ったぜぇ!!」
デンジのチェンソーが、先ほどのガス欠が嘘のように、ギャリギャリと本来の狂暴な駆動音を響かせて高速回転を始めた。
「出力、10%から……15%に回復」
五条は、自身の指先で再びチリチリとスパークし始めた青い呪力を感じ取り、黒い目隠しの奥で目を細めた。
「最高だ。この調子で、残りの糸も全部ぶち切ってやる」