オレンジ色の光の膜を抜けると、そこは果てしなく続くオフィスだった。
タイプライターの乾いた打鍵音。電話のベル。書類の束を抱えて早足で歩く、1970年代風のスーツや制服を着た職員たち。
果てしなく並ぶデスクの列は地平線まで続いているように見え、窓の外には星も空もなく、ただ黄金色に輝く幾何学的な「時間の流れ」がうねっていた。
「……へえ。随分とレトロな市役所だね」
五条悟はポケットに手を突っ込んだまま、周囲をぐるりと見回した。
すぐに、ある異常に気がつく。
「六眼」が沈黙している。視界に入ってくる情報が、ただの「目で見ただけの現象」に成り下がっているのだ。
指先を軽く擦り合わせてみる。呪力の微かなスパークすら起きない。体内の呪力が、ピタリと凪いでいた。
「無駄だよ、五条悟」
前を歩くアルコットが、振り返りもせずに言った。
「TVAの中では、魔法も呪力も、どんな超常の力も機能しない。ここは全ての現実の外側であり、インフィニティ・ストーンでさえ、ここではただの文鎮にしかならない」
「なるほどね。天逆鉾の親玉みたいな空間ってわけだ。デスクワークに超能力は邪魔だもんね」
五条は肩をすくめた。呪力が完全にゼロになる感覚は久々だが、彼に焦りはない。
二人は無機質な廊下を抜け、取調室のような殺風景な小部屋に入った。
中央には金属製のテーブルと、古いブラウン管テレビを巨大化したようなモニター。
「座りたまえ」
アルコットが促す。五条はパイプ椅子に無造作に腰掛け、長い脚を組んだ。
「さて、状況を説明しよう」
アルコットが手元の端末を操作すると、テーブルの上に分厚い紙の束がドサリと現れた。
「君たちの宇宙――我々の呼称で『セクター・フリンジ(辺境区画)』は、本来、分岐が存在しない単一のタイムライン(神聖時間軸)しか存在しないはずだった。我々からしても、監視の手間がかからない平和な田舎町だ」
「田舎扱いとは傷つくね。東京は結構都会だよ?」
五条の茶化しを無視し、アルコットは淡々と続ける。
「だが、先日君たちが関わった『セクター・プライム(主要区画)』……ワンダ・マキシモフという魔女の干渉によって、マルチバースという『病』が君たちの世界に感染してしまった。本来あり得ない『IFの可能性』が、次々と新たなタイムラインとして枝分かれしている」
モニターにノイズ混じりの映像が映し出された。
そこには、見慣れた新宿の街並みが映っていたが、空には複数の黒い太陽が浮かび、人々が異形の呪霊と化して徘徊している世界だった。
映像が切り替わる。今度は、日本列島が海に沈み、巨大な寺院だけが空に浮遊している世界。
「ちょっとした運命の掛け違いから生まれた可能性が、今、癌細胞のように増殖し、君たちの『正史』のタイムラインからエネルギーを吸い上げている。最近、視界がブレたり幻聴が聞こえたりしないか? それは世界が重みで処理落ちしている証拠だ」
「……あのオッサンの尻拭いってわけか」
五条はスティーヴン・ストレンジの顔を思い浮かべてため息をついた。「で? その剪定とやらを、あんたたちがプチッと消せばいいじゃない。そういうお仕事でしょ?」
アルコットの表情に、初めて苦々しい色が混じった。
「それができれば、わざわざ君を呼んだりはしない。……君たちの世界の分岐は、『呪力』という因果の質量が重すぎる。我々のセットチャージを起爆させても、呪霊のように即座に再生してしまうのだ」
アルコットがモニターを切り替える。
TVAの重武装した兵士たちが、額に縫い目のある男――羂索の姿をした変異体などに一方的に虐殺されている映像が流れた。
「物理的、かつ呪術的にその世界の『核』を破壊し、因果を断ち切らなければタイムラインは消去できない。それができるのは、正史の『最強』である君だけだ」
「僕を清掃員として雇う気? 随分と都合のいい話だね」
五条は椅子の背もたれに寄りかかり、アルコットを冷ややかに見据えた。
「断るって言ったら?」
「君の世界の時間を永久に停止させ、虚無へ廃棄する。我々にとって君の世界は、管理コストのかかる不良債権になりつつあるのだ」
アルコットは一切の感情を交えずに言い放った。
「君自身の手でバグを片付けるか、全てを無に帰すか。二つに一つだ」
沈黙が部屋を支配した。
五条はしばらくアルコットを睨みつけていたが、やがてフッと肩の力を抜き、いつもの軽い調子に戻った。
「……ま、放置すれば僕の生徒たちがいる世界も消えちゃうんでしょ? 仕方ない、タダ働きしてあげるよ。でも、その前に一つ要求がある」
「要求だと?」
「お腹空いた。ここ、食堂あるでしょ? 甘いものが食べたい」
アルコットは深くため息をついた。
案内されたTVAのカフェテリアは、オフィスと同様に無味乾燥だった。
オレンジと茶色を基調としたプラスチックのテーブルが並び、職員たちが黙々と食事をとっている。
五条の目の前に置かれたのは、グレーのペースト状の何かと、無機質な四角いゼリーだった。
「……これ、食べ物?」
五条がスプーンでゼリーをつつくと、ゴムのように弾き返された。
「栄養素は完璧に計算されている」アルコットが向かいの席でコーヒーを啜りながら答える。
「味覚に訴えかける娯楽要素は、勤務の妨げになるので排除してある」
五条は渋々ゼリーを口に運び、無表情で飲み込んだ。
ふと、食堂の壁に設置された複数のモニターが目に入る。
TVAが監視している様々な世界の映像が、ニュース番組のように流れていた。
ある画面では、星条旗の盾を持った男が凍った海に墜落していく歴史的瞬間。
別の画面では、頭をチェンソーに変えた少年(デンジ)が、血まみれになって巨大なコウモリの悪魔を切り刻んでいる映像。
「あ、これ知ってる」五条がチェンソーマンの映像を指差す。「最近一緒に戦ったヤバい子だ。彼もこのセクター・フリンジってやつの住人?」
「アース-CSMだな。ああ、彼の世界でも分岐が多発している。君の手が回らなくなれば、彼にも声をかける予定だ。悪魔の概念もまた、我々の兵器では消し去るのが困難でね」
アルコットはコーヒーカップを置いた。
「さて、腹ごしらえが済んだら仕事だ。まずは手始めに、完全に崩壊しきった『末期症状』の分岐を処理してもらう。……対象はアース-JJK-774。呪霊と人間が完全に逆転した世界だ」
「りょーかい」
五条は立ち上がり、首をポキポキと鳴らした。
「せいぜい派手にやらせてもらうよ。どうせ消えちゃう世界なんだからさ」
「タイムドアの先では君の呪力は元に戻る。だが忘れるな」
アルコットが五条の背中に釘を刺す。
「君がこれから向かうのは、紛れもなく『現実』の一つだ。そこに生きる者たちの息遣いに惑わされるな。彼らは正史を喰らう寄生体だ。……全てを壊し、リセットチャージを設置しろ」
五条は振り返らず、ひらひらと手を振って食堂を後にした。
彼らが用意したオレンジ色の光の扉の前に立つ。
一歩踏み出せば、そこは自分自身が壊さなければならない「別の可能性」。
(仕事、仕事っと)
五条悟は口角を少しだけ上げ、光の向こう側へと足を踏み入れた。
彼にとって、最初の「剪定」が始まろうとしていた。