オレンジ色の光を抜けた瞬間、五条悟の脳内に爆発的な情報量が雪崩れ込んできた。
「……あー、やっぱりこれがないと調子狂うね」
五条は目隠しの上から軽く目元を押さえ、口角を上げた。
休止していた「六眼」が再起動し、周囲の空間、原子の振動、そして大気に満ちる呪力の流れを完璧に読み取り始める。体内の呪力も、力強く循環していた。
彼が降り立ったのは、見慣れた新宿のスクランブル交差点だった。
だが、その光景は彼の知る現実とは決定的に異なっていた。
空は毒々しい紫色に染まり、太陽の代わりに巨大な眼球のようなものが幾つも浮かんでいる。
そして何より異様なのは、横断歩道を行き交う「群衆」だ。
スーツを着てスマホをいじっているのは、頭部が火山のようになった呪霊や、顔から木の枝を生やした呪霊たちだった。彼らは二本足で歩き、普通に言葉を交わし、カフェでコーヒーのようなヘドロを啜っている。
逆に、路地裏やビルの影から怯えたように這い出してくるのは、四つん這いになり、うめき声を上げる異形の「人間」たちだった。
呪霊と人間が完全に逆転した世界。アース-JJK-774。
「文字通りのバグだね。趣味が悪すぎる」
五条が呆れたように呟いた時、コートのポケットに入れていたTVAのテンパッドが短く鳴った。アルコットからの通信だ。
『五条悟。状況はどうだ』
「最悪。僕の生徒たちが見たら泣いて逃げ出すレベルの地獄絵図だよ」
『それが分岐の末路だ。因果が捻じれ、概念が反転している。……その交差点の中央地下に、その世界を維持している特異点がある。それを君の呪力で破壊し、リセットチャージを設置しろ』
「はいはい、了解」
五条は端末をしまい、交差点の中央へと歩き出した。
彼の姿に気づいた「呪霊のサラリーマン」たちが、悲鳴を上げて道を開ける。
「ヒィィッ! 人間だ! 特級の人間が出たぞ!」
「逃げろ! 祓われる!」
五条は足を止め、滑稽なほどに怯える呪霊たちを一瞥した。
「……なんか、調子狂うな。君たち、自分が人間だと思い込んでるわけ?」
一匹の呪霊が、震える手で五条にカバンを投げつけたが、それは「無下限」のバリアに阻まれて空中で静止し、ポトリと落ちた。
「ま、どっちでもいいや。どのみち、こんな処理落ちした世界、長持ちしないだろ」
五条は交差点の中央に立つと、右手の指を軽く交差させた。
「術式反転・『赫』」
指先から放たれた極小の赤い光が、足元のアスファルトを撃ち抜いた。
轟音と共に地面がすり鉢状に吹き飛び、地下深くの空間が露わになる。そこには、赤黒く脈打つ巨大な肉塊――この異常なタイムラインを無理やり繋ぎ止めているバグの核が鎮座していた。
五条は躊躇なく、その肉塊の中心にTVAから渡された円筒形の装置「リセットチャージ」を突き刺した。
端末を操作し、タイマーを起動させる。
『起爆まで三十秒。直ちにタイムドアで帰還しろ』
アルコットの事務的な声を聞きながら、五条は再びオレンジ色の扉を開いた。
背後では、リセットチャージが稼働し、紫色の光を放ち始めていた。
光が触れた端から、世界が「溶解」していく。
アスファルトも、ビルも、逃げ惑う呪霊のサラリーマンたちも、悲鳴を上げる間もなくオレンジ色の粒子へと分解され、虚無へと吸い込まれていく。
物理的な破壊ではなく、時間と空間そのものの「消去」。
五条はタイムドアをくぐる直前、肩越しにその光景を見つめた。
彼にとって呪霊は祓うべき対象だが、ひとつの世界が、まるで黒板の文字を消しゴムで消すようにあっけなく消滅していく様は、形容しがたい薄気味悪さがあった。
「……ま、仕事だしね」
小さく呟き、五条は光の中へ足を踏み入れた。
TVA本部。
アルコットの待つ小部屋に戻ると、デスクの上のモニターには「タイムライン・リセット完了」の文字が表示されていた。
「ご苦労。手際がいいな」
アルコットは端末に視線を落としたまま言った。
「これくらい朝飯前だよ。あんな狂った世界、残しておく理由もないしね」
五条はパイプ椅子にドカッと座り、長い足を投げ出した。
「で? 次はどこ? さっさと終わらせて、元の世界に帰りたいんだけど」
「そう急ぐな。分岐は一つや二つではない。ワンダ・マキシモフが撒き散らしたカオスは、君たちの世界の根幹にまで根を張っている」
アルコットはモニターの映像を切り替えた。
今度は、崩壊した世界ではない。一見すると、非常に平和な街並みが映し出された。
五条の通う、東京都立呪術高等専門学校の敷地内。
グラウンドでは、虎杖や伏黒、釘崎たちが笑い合いながらトレーニングをしている。
そこまでは、五条の知る「正史」と何も変わらない。
だが、画面の端に映った二つの人影を見て、五条の顔からスッと表情が消えた。
一人は、五条悟本人。
そしてもう一人、彼と肩を並べて歩き、楽しげに笑い合っているのは――袈裟ではなく、高専の教師用の黒い制服を着た、夏油傑だった。
「……なんだよ、これ」
五条の声が、地を這うように低くなった。六眼が使えない状態でも、その眼差しはアルコットを射抜いていた。
「アース-JJK-091。2006年の『星漿体護衛任務』において、天内理子が生存し、夏油傑が離反しなかったタイムラインだ」
アルコットは、五条の殺気など意に介さない様子で淡々と説明した。
「君にとっては理想的な『IF』かもしれない。だが、我々から見れば、これもまた正史を圧迫する強大なバグに過ぎない」
アルコットは五条に向き直った。
「次はこの世界を剪定してもらう。……できるな? 五条悟」
沈黙が降りた。
TVAの無機質なオフィスのノイズが、ひどく遠くに感じられた。
五条はモニターの中で笑い合う「自分と親友」の姿を、ただ無言で見つめ続けていた。