「……できるな? 五条悟」
アルコットの冷徹な問いかけが、無機質な取調室に響いた。
五条悟はパイプ椅子の背もたれからゆっくりと体を離し、金属製のテーブルに身を乗り出した。
モニターの中では、教卓の前に立つ夏油傑が、虎杖や伏黒たちに向かって何事か楽しげに語りかけている。その隣には、五条自身がいて、生徒をからかうように笑い声をあげていた。
音声はない。だが、その場の空気の柔らかさ、誰も欠けていない教室の温度が、画面越しに伝わってくるようだった。
「……趣味が悪いね」
五条は、声のトーンを平坦に保つように努めた。「わざわざ僕に、こんな安っぽい夢物語の始末を押し付けるなんてさ。TVAってのは、人の嫌がることを探す天才の集まり?」
「我々に感情はない。ただ、タイムラインの質量と分岐の危険度を計算しているだけだ」
アルコットは端末から目を離さず、新しいタイムドアの座標を入力し始めた。
「このアース-JJK-091は、君の世界の『特異点』だ。2006年の夏、君たちが守るべきだった少女、天内理子が生き延びたことで、夏油傑という呪術師の運命が反転した。結果、彼は離反せず、君と共に次世代を育成している」
アルコットの指先が止まり、五条を見据えた。
「美しい因果に見えるかもしれない。だが、この世界は本来の歴史が持つべき『負荷』を回避したことで、膨大な矛盾を抱え込んでいる。いずれ正史のエネルギーを喰いつくし、両方の世界が崩壊する。……消すしかない」
「……」
五条は答えなかった。
ただ、モニターの中で笑う親友の姿を、穴が開くほど見つめていた。
六眼が機能していない今の彼には、それがただのピクセルで構成された光の明滅に過ぎないと分かっている。それでも、胸の奥底に沈めていたはずの澱のような感情が、じわりと波立つのを止められなかった。
「……いいよ」
五条はふと息を吐き、立ち上がった。
「仕事だ。パパッと終わらせてくる」
彼が背を向けた瞬間、アルコットが低い声で付け加えた。
「忠告しておく、五条。タイムドアの先では、君の呪力は完全に戻る。だが、その圧倒的な力をもってしても、『自分の望んだ世界』を前にして平常心を保てる者は少ない。……情に流されれば、君自身がその世界に飲み込まれ、変異体として処理されることになるぞ」
「心配性だね、お役人さん。僕を誰だと思ってるの?」
五条は振り返らず、片手を軽く挙げてヒラヒラと振った。
そして、オレンジ色の光の膜の中へ、躊躇なく足を踏み入れた。
光を抜けると、そこはむせ返るような青葉の匂いに包まれていた。
「……あー、なるほどね」
五条は目隠しの上から額を押さえ、深く息を吸い込んだ。
六眼が瞬時に再起動し、周囲の空間、大気中の呪力の残滓、そして生命の鼓動を完璧に読み取る。
降り立ったのは、東京都立呪術高等専門学校の敷地内、少し外れた雑木林の中だった。
空は高く、先ほどの「呪霊と人間が逆転した世界」のようなおぞましいノイズはない。
鳥が鳴き、風が木々を揺らす音が、あまりにも『正常』に響いている。
彼の知る現実(正史)と、寸分違わぬ完璧な世界。
だが、五条の六眼は、その世界の根底に流れる「違和感」を正確に捉えていた。
(呪力の総量が、圧倒的に穏やかだ……)
本来の歴史であれば、夏油の離反、渋谷事変、死滅回游と続く血みどろの戦いによって、日本中の呪力は濁り、荒れ狂っているはずだった。しかし、この世界の大気は、まるで湖面のように凪いでいる。
大きな悲劇を回避し続けたことで、負の感情が致命的なまでに蓄積されていないのだ。
五条は懐から、TVAに渡された円筒形のリセットチャージを取り出した。
これのタイマーを起動し、この世界の「核」――おそらくは、高専の中心に設置して立ち去れば、任務は終わる。
先ほどのように、数十秒で全てがオレンジ色の粒子となって消滅するはずだ。
「……」
五条はチャージの起動ボタンに指をかけた。
しかし、その指は動かなかった。
(……少しだけ、見てみるか)
彼はチャージをポケットにしまい込み、足音を消して林を抜けた。
リセットチャージの設置場所を探すという名目。だが、それが自分自身への言い訳であることは、彼自身が一番よく分かっていた。
木立を抜けると、グラウンドが見下ろせる見晴らしの良い斜面に出た。
五条は木陰に身を隠し、眼下の光景を見下ろした。
そこでは、呪術の実技訓練が行われていた。
虎杖悠仁が驚異的な身体能力で走り回り、伏黒恵が玉犬を操ってそれを追い詰める。釘崎野薔薇が檄を飛ばし、二年生の禪院真希や狗巻棘がそれを見守っている。
平和な風景。
だが、五条の視線は、彼らを指導している二人の大人の姿に釘付けになった。
一人は、黒い目隠しをした五条自身。
そしてもう一人。
「……悠仁、力みすぎだ。呪力はへそから指先へ、もっと滑らかに流すことを意識しろ」
落ち着いた、どこか諭すような温かい声。
黒い長髪を後ろで束ね、高専の黒い制服をきちんと着こなした男。
夏油傑だった。
(……本物だ)
五条の喉が、微かに鳴った。
六眼が、あの男の呪力波形を、肉体を、魂の形を、寸分の狂いもなく「夏油傑」であると判定している。
額に不気味な縫い目などない。羂索に乗っ取られた死体ではなく、呪詛師としてすり減り、五条自身の手で殺めた親友でもない。
もし、あの夏、彼が道を違えなかったら。もし、二人で「最強」のまま、大人になっていたら。
その答えが、何気ない日常の風景として、そこにあった。
「傑、堅苦しいって。悠仁はもっとこう、ドーン! バキッ! って感覚で動くタイプなんだからさ」
グラウンドにいる「五条」が、夏油の肩に馴れ馴れしく腕を回して笑う。
「お前が甘やかすから、基礎がおろそかになるんだろうが。少しは教師としての自覚を持て、悟」
夏油は呆れたように息を吐きながらも、その口元には穏やかな笑みが浮かんでいた。
生徒たちが二人のやり取りを見て笑う。
血の匂いも、理不尽な死の気配もない。
そこにあるのは、五条悟がかつて夢見、そして永遠に失ったはずの「青い春」の完璧な延長線上だった。
木陰に立つ五条(正史)は、ポケットの中で、固く拳を握りしめていた。
「……最悪だ」
絞り出すような声は、誰に向けたものか分からなかった。
TVAへの怒りか。
それとも、この幻のような世界を前にして、リセットチャージのボタンを押すことを躊躇っている自分自身への嘲笑か。
風が吹き抜け、木々がざわめく。
五条は、その場から動くことができなかった。
TVAの時計は時を刻んでいないはずだが、彼にとっての「永遠のような数分間」が、静かに流れていった。