木々の葉擦れの音と、グラウンドから聞こえる生徒たちの歓声が、五条悟の鼓膜を静かに叩き続けていた。
五条は、木陰に寄りかかったまま、自らの内側に渦巻く感情の正体を値踏みしようとしていた。
悲哀か。怒りか。それとも、安堵か。
彼の「六眼」は、眼下の光景が幻影でも罠でもなく、完璧に構築された「ひとつの現実」であることを冷徹に告げている。
夏油傑の肉体を乗っ取った羂索が見せた悪辣な走馬灯とは違う。これは、五条自身が心の奥底で――決して口には出さないが――望んでやまなかった、「彼が道を違えなかった世界」の純然たる結実だ。
(……この世界は、いずれ正史のエネルギーを喰いつくし、両方の世界が崩壊する)
TVAの分析官、アルコットの事務的な声が脳裏に蘇る。
ポケットの中にあるリセットチャージの冷たい感触が、彼に突きつけられた現実の重さを主張している。これを起動させれば、この穏やかな風景は、オレンジ色の光と共に塵となって消え去る。虎杖も、伏黒も、釘崎も、そして隣で笑う夏油傑も。
「……」
五条は目を細めた。
もし彼が、ただの「呪術師・五条悟」であったなら、感情を殺してボタンを押すことができただろう。呪いという理不尽を祓い、大局的な平和を守るのが彼の仕事だ。
だが、彼は「最強」であると同時に、誰よりも深く人との繋がり――特に「たった一人の親友」との繋がりを喪失した痛みを抱える人間だった。
その時、グラウンドの空気が僅かに変わった。
「おや?」
眼下の夏油傑が、ふと指導の手を止め、五条が潜む木立の方角へ視線を向けた。
鋭い呪力感知。特級呪術師としての感覚は、この平和な世界においても全く鈍っていない。
「どうした、傑?」
隣にいた「五条(IF)」が、夏油の視線を追って首をかしげる。
「いや……」夏油は眉をひそめ、木々の奥を透かすように目を凝らした。「気のせいか。一瞬、妙な呪力の流れを感じたが……同化しすぎていて分からなかった」
「僕の呪力の残り香でも嗅ぎ取ったんじゃない? 傑、僕のこと好きすぎでしょ」
「ふざけるな。お前の呪力とは質が……いや、まあいい。訓練に戻ろう」
夏油が再び生徒たちの方へ向き直るのを見て、木陰の五条(正史)は無意識のうちに止めていた息を、ゆっくりと吐き出した。
(危ない、危ない。無下限で呪力の漏れは完全に抑えているはずだけど……さすが傑だ。僕と同じ呪力を持つ『僕』が近くにいるから、ノイズとして処理されたか)
五条は、これ以上ここに留まるのは危険だと判断した。
リセットチャージを設置するなら、彼らに気づかれない場所――この世界の呪力の「核」となっている天元の結界の深部か、高専の忌庫あたりが妥当だろう。
彼は踵を返し、音もなく林の奥へと足を踏み出そうとした。
「……そこで何をしているのかな?」
背後から、不意に声がかけられた。
グラウンドからではない。彼が立っていた木陰から数メートル離れた、少し小高い丘の上からだ。
五条はピタリと足を止め、振り向いた。
そこに立っていたのは、白い詰襟の制服を着た、黒髪の少年だった。
特級呪骨『祈本里香』の呪縛から解き放たれ、本来の優しさを取り戻した穏やかな瞳。だが、その背には、巨大な刀袋が斜めに背負われている。
乙骨憂太。
五条悟が「自分に並ぶ術師になる」と見込んだ、もう一人の特級。
「……」
五条は無言で乙骨を見据えた。
乙骨の顔には、敵意はない。ただ、純粋な疑問と、微かな警戒の色が浮かんでいた。
「五条先生……ですよね?」
乙骨は、木漏れ日の中で五条の姿を確認し、少しだけ表情を和らげた。
「さっきまでグラウンドにいたはずなのに、いつの間にこちらへ? それに、その服……今日は実技訓練だから、いつものジャージじゃなかったでしたっけ?」
五条は、自分がTVAに連行された時のままの、黒いハイネックとジャケット姿であることに気づいた。この世界の「五条」は、もっとラフな格好でグラウンドに立っている。
「それに……」乙骨の瞳が、僅かに鋭さを増す。「先生の呪力、なんだかいつもと違います。まるで、すごく遠い場所から帰ってきたみたいな……」
乙骨の直感は、夏油の感知能力以上に鋭敏だった。彼は、五条の「姿」ではなく、「存在の違和感」を捉えていた。
五条は数秒の沈黙の後、いつもの軽い口調で肩をすくめた。
「あー、バレちゃったか。憂太、君って本当に鼻が利くよね。ちょっと野暮用があってね、着替える暇もなかったんだよ」
「野暮用、ですか?」
「そうそう。極秘任務。傑には内緒にしておいてよ、また小言を言われるからさ」
五条は人差し指を口元に当ててウインクしてみせた。
乙骨は一瞬ぽかんとした後、苦笑して頷いた。
「……五条先生らしいですね。分かりました、夏油先生には内緒にしておきます。でも、あまり無理はしないでくださいね。最近、空の様子がおかしいって、天元様も気にされてましたから」
その言葉に、五条の心臓が微かに跳ねた。
「空の様子?」
「ええ。なんか、変な色のノイズが走る時があるんです。僕にはよく分からないんですけど、先生たちなら何か知ってるかなって……」
乙骨の言葉は、この世界が「正史からのエネルギー収奪」の限界を迎えつつある証拠だった。
バグが進行し、世界そのものが破綻し始めている。
「……そうか。ありがとう、憂太。気をつけるよ」
五条は、普段よりも少しだけ低い声で答えた。
「はい! じゃあ、僕は任務があるので、これで」
乙骨はペコリと頭を下げ、軽やかな足取りで林を抜けていった。
一人残された五条は、再び深い沈黙に包まれた。
ポケットの中のリセットチャージが、先ほどよりも重く感じられた。
(……消すしかない。分かってる)
五条は空を見上げた。
乙骨の言う通り、青空の端が、一瞬だけノイズのように紫がかって見えた。
この世界は、かりそめの夢だ。正史を犠牲にして成り立つ、歪なユートピア。
彼がボタン一つ押せば、乙骨も、グラウンドで笑う生徒たちも、そして夏油傑も、全て無に還る。
五条は、ポケットからリセットチャージを取り出した。
「……僕に、これをやれっていうのか」
五条悟の「最強」としての合理性と、一人の人間としての感情が、かつてないほど激しく軋み合っていた。
TVAの用意した残酷な箱庭の中で、彼は初めて、自らの力ではどうすることもできない「運命の重さ」に足を取られようとしていた。
その時。
五条の背後の空間が、音もなく「ズレた」。
TVAのタイムドアではない。呪霊の気配でもない。
もっと、純粋に悪意に満ちた、極めて高度な呪力の操作。
「――おやおや。随分と悩んでいるようだね、五条悟」
聞き慣れた、しかしこの世界には絶対に存在してはならない声。
五条は振り返るよりも早く、無下限呪術を最大出力で展開した。
「……お前、なぜここにいる」
木々の間に立っていたのは、額に縫い目のある男。
袈裟を着た、羂索だった。
だが、それは五条が知る「夏油傑の肉体を乗っ取った羂索」ではない。
羂索は誰の肉体を使っているのか?
五条の六眼が、その男の「器」の正体を看破し、驚愕に見開かれた。
「……嘘だろ」
羂索が乗っ取っていたのは、他でもない。
黒い髪、特徴的な目隠し、そして五条自身と全く同じ呪力波形を持つ肉体。
「別次元の、僕の肉体か」
羂索は、五条悟の顔で、下劣極まりない笑みを浮かべた。
「ご名答。……素晴らしい器だよ、これは。君もそう思うだろう?」
剪定すべき理想の世界で、最悪の「変異体」が動き出そうとしていた。