五条悟―神聖時間軸の剪定者―   作:ルルルだ。

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5話 最悪の変異体

木々の葉擦れの音と、グラウンドから聞こえる生徒たちの歓声が、五条悟の鼓膜を静かに叩き続けていた。

 

五条は、木陰に寄りかかったまま、自らの内側に渦巻く感情の正体を値踏みしようとしていた。

悲哀か。怒りか。それとも、安堵か。

彼の「六眼」は、眼下の光景が幻影でも罠でもなく、完璧に構築された「ひとつの現実」であることを冷徹に告げている。

夏油傑の肉体を乗っ取った羂索が見せた悪辣な走馬灯とは違う。これは、五条自身が心の奥底で――決して口には出さないが――望んでやまなかった、「彼が道を違えなかった世界」の純然たる結実だ。

 

(……この世界は、いずれ正史のエネルギーを喰いつくし、両方の世界が崩壊する)

 

TVAの分析官、アルコットの事務的な声が脳裏に蘇る。

ポケットの中にあるリセットチャージの冷たい感触が、彼に突きつけられた現実の重さを主張している。これを起動させれば、この穏やかな風景は、オレンジ色の光と共に塵となって消え去る。虎杖も、伏黒も、釘崎も、そして隣で笑う夏油傑も。

 

「……」

 

五条は目を細めた。

もし彼が、ただの「呪術師・五条悟」であったなら、感情を殺してボタンを押すことができただろう。呪いという理不尽を祓い、大局的な平和を守るのが彼の仕事だ。

だが、彼は「最強」であると同時に、誰よりも深く人との繋がり――特に「たった一人の親友」との繋がりを喪失した痛みを抱える人間だった。

 

その時、グラウンドの空気が僅かに変わった。

 

「おや?」

眼下の夏油傑が、ふと指導の手を止め、五条が潜む木立の方角へ視線を向けた。

鋭い呪力感知。特級呪術師としての感覚は、この平和な世界においても全く鈍っていない。

 

「どうした、傑?」

隣にいた「五条(IF)」が、夏油の視線を追って首をかしげる。

「いや……」夏油は眉をひそめ、木々の奥を透かすように目を凝らした。「気のせいか。一瞬、妙な呪力の流れを感じたが……同化しすぎていて分からなかった」

 

「僕の呪力の残り香でも嗅ぎ取ったんじゃない? 傑、僕のこと好きすぎでしょ」

「ふざけるな。お前の呪力とは質が……いや、まあいい。訓練に戻ろう」

 

夏油が再び生徒たちの方へ向き直るのを見て、木陰の五条(正史)は無意識のうちに止めていた息を、ゆっくりと吐き出した。

(危ない、危ない。無下限で呪力の漏れは完全に抑えているはずだけど……さすが傑だ。僕と同じ呪力を持つ『僕』が近くにいるから、ノイズとして処理されたか)

 

五条は、これ以上ここに留まるのは危険だと判断した。

リセットチャージを設置するなら、彼らに気づかれない場所――この世界の呪力の「核」となっている天元の結界の深部か、高専の忌庫あたりが妥当だろう。

 

彼は踵を返し、音もなく林の奥へと足を踏み出そうとした。

 

「……そこで何をしているのかな?」

 

背後から、不意に声がかけられた。

グラウンドからではない。彼が立っていた木陰から数メートル離れた、少し小高い丘の上からだ。

 

五条はピタリと足を止め、振り向いた。

 

そこに立っていたのは、白い詰襟の制服を着た、黒髪の少年だった。

特級呪骨『祈本里香』の呪縛から解き放たれ、本来の優しさを取り戻した穏やかな瞳。だが、その背には、巨大な刀袋が斜めに背負われている。

 

乙骨憂太。

五条悟が「自分に並ぶ術師になる」と見込んだ、もう一人の特級。

 

「……」

五条は無言で乙骨を見据えた。

乙骨の顔には、敵意はない。ただ、純粋な疑問と、微かな警戒の色が浮かんでいた。

 

「五条先生……ですよね?」

乙骨は、木漏れ日の中で五条の姿を確認し、少しだけ表情を和らげた。

「さっきまでグラウンドにいたはずなのに、いつの間にこちらへ? それに、その服……今日は実技訓練だから、いつものジャージじゃなかったでしたっけ?」

 

五条は、自分がTVAに連行された時のままの、黒いハイネックとジャケット姿であることに気づいた。この世界の「五条」は、もっとラフな格好でグラウンドに立っている。

 

「それに……」乙骨の瞳が、僅かに鋭さを増す。「先生の呪力、なんだかいつもと違います。まるで、すごく遠い場所から帰ってきたみたいな……」

 

乙骨の直感は、夏油の感知能力以上に鋭敏だった。彼は、五条の「姿」ではなく、「存在の違和感」を捉えていた。

 

五条は数秒の沈黙の後、いつもの軽い口調で肩をすくめた。

「あー、バレちゃったか。憂太、君って本当に鼻が利くよね。ちょっと野暮用があってね、着替える暇もなかったんだよ」

 

「野暮用、ですか?」

「そうそう。極秘任務。傑には内緒にしておいてよ、また小言を言われるからさ」

五条は人差し指を口元に当ててウインクしてみせた。

 

乙骨は一瞬ぽかんとした後、苦笑して頷いた。

「……五条先生らしいですね。分かりました、夏油先生には内緒にしておきます。でも、あまり無理はしないでくださいね。最近、空の様子がおかしいって、天元様も気にされてましたから」

 

その言葉に、五条の心臓が微かに跳ねた。

「空の様子?」

「ええ。なんか、変な色のノイズが走る時があるんです。僕にはよく分からないんですけど、先生たちなら何か知ってるかなって……」

 

乙骨の言葉は、この世界が「正史からのエネルギー収奪」の限界を迎えつつある証拠だった。

バグが進行し、世界そのものが破綻し始めている。

 

「……そうか。ありがとう、憂太。気をつけるよ」

五条は、普段よりも少しだけ低い声で答えた。

 

「はい! じゃあ、僕は任務があるので、これで」

乙骨はペコリと頭を下げ、軽やかな足取りで林を抜けていった。

 

一人残された五条は、再び深い沈黙に包まれた。

ポケットの中のリセットチャージが、先ほどよりも重く感じられた。

 

(……消すしかない。分かってる)

 

五条は空を見上げた。

乙骨の言う通り、青空の端が、一瞬だけノイズのように紫がかって見えた。

この世界は、かりそめの夢だ。正史を犠牲にして成り立つ、歪なユートピア。

彼がボタン一つ押せば、乙骨も、グラウンドで笑う生徒たちも、そして夏油傑も、全て無に還る。

 

五条は、ポケットからリセットチャージを取り出した。

 

「……僕に、これをやれっていうのか」

 

五条悟の「最強」としての合理性と、一人の人間としての感情が、かつてないほど激しく軋み合っていた。

TVAの用意した残酷な箱庭の中で、彼は初めて、自らの力ではどうすることもできない「運命の重さ」に足を取られようとしていた。

 

その時。

五条の背後の空間が、音もなく「ズレた」。

TVAのタイムドアではない。呪霊の気配でもない。

もっと、純粋に悪意に満ちた、極めて高度な呪力の操作。

 

「――おやおや。随分と悩んでいるようだね、五条悟」

 

聞き慣れた、しかしこの世界には絶対に存在してはならない声。

五条は振り返るよりも早く、無下限呪術を最大出力で展開した。

 

「……お前、なぜここにいる」

 

木々の間に立っていたのは、額に縫い目のある男。

袈裟を着た、羂索だった。

 

だが、それは五条が知る「夏油傑の肉体を乗っ取った羂索」ではない。

羂索は誰の肉体を使っているのか?

 

五条の六眼が、その男の「器」の正体を看破し、驚愕に見開かれた。

 

「……嘘だろ」

 

羂索が乗っ取っていたのは、他でもない。

黒い髪、特徴的な目隠し、そして五条自身と全く同じ呪力波形を持つ肉体。

 

「別次元の、僕の肉体か」

 

羂索は、五条悟の顔で、下劣極まりない笑みを浮かべた。

 

「ご名答。……素晴らしい器だよ、これは。君もそう思うだろう?」

 

剪定すべき理想の世界で、最悪の「変異体」が動き出そうとしていた。

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