赤黒い亀裂が、青空を無残に這い回っていく。
足元の枯れ葉は泥濘へと変貌し、木々は急速に立ち枯れていく。羂索が起動した「強制次元崩壊装置」は、この世界が回避し続けてきた巨大な呪力の負債を、一気に取り立てるかのように空間そのものを蝕んでいた。
「どうした? 動きが鈍いぞ、五条悟!」
羂索・五条が、崩壊していく空間の中心で嘲笑う。
その姿は五条自身と全く同じでありながら、纏う呪力の質感は粘着質で、底知れぬ悪意に満ちていた。
「他人のガワでよく喋る口だ」
五条は泥濘む地面を蹴り、瞬時に間合いを詰めた。
無下限呪術による絶対的な防御を纏いながら、呪力を込めた右拳を振り抜く。
羂索もまた、同じく無下限の防御を展開し、五条の拳を己の数ミリ手前で停止させる。
ガギィィィッ!!
互いの「無限」が衝突し、空間が凄まじい悲鳴を上げた。
本来なら決して交わることのない二つの不可侵領域が、全く同じ術式構造を持つがゆえに、摩擦熱のような青白い火花を散らして軋み合う。
「君の『無限』は綺麗すぎる。だから脆いんだよ」
羂索は至近距離で嗤い、空いた左手で印を結んだ。
「術式反転・『赫』」
五条も即座に反応し、同じ印を結ぶ。
「『赫』」
至近距離で放たれた二つの反発の力が真正面から激突し、爆発的な衝撃波が二人を弾き飛ばした。
五条は空中で姿勢を立て直し、音もなく着地する。だが、彼の六眼は、その爆発の余波が林の向こう――グラウンドの方角へ向けて広がっていくのを捉えていた。
「……悟! 何をしている!」
土煙を切り裂き、焦燥に満ちた声が響いた。
五条の肩が、微かに跳ねる。
崩れゆく木々の間から駆けつけてきたのは、夏油傑だった。その後ろには乙骨憂太、そして遅れて虎杖や伏黒たちの姿も見える。
彼らの目に映ったのは、赤黒く崩壊し始めた空と、荒れ果てた大地、そして――。
「……五条先生が、二人?」
乙骨が息を呑み、刀の柄に手をかけたまま硬直した。
夏油は鋭い視線で、五条(正史)と羂索・五条を交互に睨みつけた。
「どういうことだ。特級呪霊の擬態か? いや……呪力波形が全く同じ……?」
特級呪術師である夏油でさえ、六眼と無下限呪術を完全に再現している存在を前に、瞬時の判断を保留せざるを得なかった。
「やあ、傑。そして生徒諸君」
羂索・五条が、悪びれもせずに手を振った。
「見ての通り、私は偽物と交戦中だ。私の姿を騙る悪趣味な呪詛師か何かだろう。手伝ってくれるかい?」
「……ふざけるな」
五条(正史)の声が、地を這うように低く響いた。
彼の周囲の空気が、怒りでビリビリと震え始める。
「お前ら、下がれ! そいつは……」
五条が夏油たちに警告しようとした瞬間、羂索が動いた。
彼が狙ったのは五条ではない。まだ事態を飲み込めていない、虎杖たち生徒の集団だった。
「『蒼』」
羂索の指先から発生した強力な引力が、虎杖と伏黒の体を無慈悲に吸い寄せる。
「うわっ!?」
「なっ……!」
「させないよ」
夏油が瞬時に呪霊を喚び出し、生徒たちを引力から引き剥がそうとする。
だが、それこそが羂索の狙いだった。
「傑!」
五条(正史)は叫び、夏油を庇うように飛び出した。
羂索の真の狙いは、夏油傑の背後を取ること。五条と同じ顔、同じ声を持つ羂索は、一瞬の隙を突いて夏油の背後に回り込み、その首筋に手刀を突きつけた。
「動くなよ、偽物君」
羂索は、夏油を人質に取る形で五条(正史)を見据え、歪な笑みを浮かべた。
「少しでも動けば、この親友の首が飛ぶ。……ああ、君にとっては幻影かもしれないが、彼らにとってはこれが『現実』だ。そうだろ?」
「……悟? お前、本当に悟なのか?」
首元に刃を突き立てられながらも、夏油は目の前に立つ五条(正史)を見つめていた。
その瞳には、疑念よりも深い、友を案じる光が宿っている。
五条の胸の奥で、何かが軋んだ。
かつて彼自身の手で引導を渡した親友。その手が血に濡れる感触は、今でも魂に焼き付いている。
目の前にいるのは、TVAの言う「バグ」だ。正史を喰らう寄生体。消さなければならない幻。
頭では分かっている。だが、夏油傑の声が、体温が、そこにある。
(……だから嫌だったんだよ。こんな任務)
五条は、黒い目隠し越しに、羂索と夏油を見据えた。
「……おい。その汚い手で、傑に触るな」
「おや? 怒っているのかい?」
羂索は夏油の首元に少しだけ力を込めた。一筋の血が流れる。
「君の弱点はそこだ、五条悟。君は最強でありながら、常に『誰か』を必要としている。このかりそめの世界でさえ、君は過去の亡霊に囚われているんだよ」
羂索は嘲笑った。
「さあ、どうする? 君がリセットチャージを起動しないなら、私がこの世界からエネルギーを吸い尽くすまでだ。この親友も、生徒たちも、全て干からびて死ぬ。……君が彼らを殺すか、私が殺すか。どちらにせよ、結末は同じだ」
「……」
五条は深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
周囲の崩壊は進んでいる。空の亀裂からは、紫色の異次元の光が漏れ出し始めていた。
時間が、ない。
「……傑」
五条は、人質にされている夏油に向かって、静かに呼びかけた。
「ごめん。ちょっと痛いかもしれないけど、我慢してくれ」
「……悟?」
夏油が目を見開く。
五条の右手に、かつてないほどの濃密な呪力が集束していく。
術式反転『赫』と、術式順転『蒼』。
それらを衝突させ、仮想の質量を押し出す複合術式。
「虚式……」
羂索の表情が強張った。
「正気か!? この至近距離で放てば、夏油傑も巻き込まれるぞ! 君は幻影だとしても、彼を殺せるのか!」
五条の唇が、微かに弧を描いた。
「僕を誰だと思ってる?」
五条は両手の指を弾いた。
「『茈』」
放たれた紫色の閃光。
それは、全てを消し去る仮想の質量。
だが、その軌道は羂索の予測を裏切っていた。五条は、羂索と夏油を「直接」狙ったわけではない。
彼が狙ったのは、羂索が展開している「無下限呪術のバリアの境界線」そのものだった。
ゴオオオオオオオオオッ!!!!
紫の光が空間を抉り取りながら、羂索のバリアに激突する。
「チッ……!」
羂索は夏油を突き飛ばし、全呪力を防御に回さざるを得なかった。
夏油の体が吹き飛び、乙骨が間一髪でそれを受け止める。
「今だ!」
五条は瞬速で羂索の懐に飛び込んだ。
彼が選んだのは、遠距離からの消去ではなく、ゼロ距離での確実な「破壊」。
「甘いよ、五条悟!」
羂索もまた、防御を解いて迎撃に出た。
全く同じタイミングで、全く同じ威力の『黒閃』が、二人の拳から放たれる。
ドガァァァァン!!!!
黒い火花が、崩壊する空間の中心で炸裂した。
二つの「六眼」が、至近距離で互いの存在を捉え、二つの「無下限」が、互いの情報の海を強制的に接続し合う。
その瞬間だった。
空間に、あり得ないほどの「情報の特異点」が発生した。
「……ッ!?」
五条の視界が、白く焼き切れた。
六眼の処理能力を超えた情報が、脳髄に直接流れ込んでくる。
それは、目の前にいる「羂索・五条」が経てきた、別のタイムライン、別の次元の履歴だった。
五条の意識は、肉体を離れ、狂気と混沌に満ちた「別の過去」へと引きずり込まれていく。
――視界が切り替わる。
そこは、血と瓦礫に塗れた、見知らぬ新宿の街並みだった。
足元には、真っ二つに両断された「自分自身」の死体が転がっている。
そして、その死体を見下ろしながら、額に縫い目のある男が、狂喜に満ちた声で笑い声を上げていた。
『素晴らしい……! これが、六眼の視界か!』
五条悟の脳内に、最悪の知能犯が辿った「マルチバース侵略のオリジン」が、再生され始めた。