二ノの子   作:柚葉

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2026.03.01 訂正 年齢設定間違ってた ごめんなさい 修整しました。


芸能界へ~恋愛リアリティーショー編

その瞳に浮かぶのは、夜空の星ではない。

それは、お菓子細工のように甘く、万華鏡のように不自然な、「ファンシーな星」だ。

 

「…ねえ、先生。私は今日、親戚の家に泊まりに行くことになってたよね?」

 

新野 春(にいの はる)は、施設の職員の目をじっと見つめて微笑んだ。小柄な体躯に、アイドルの完成形にさらに執念を塗り重ねたような美貌。

黒髪の間から覗くその瞳が、ふわりと光を帯びる。

 

「…ああ、そうだったな。春、忘れ物はないか? 車を呼んでやろうか」

「ううん、大丈夫。迎えが来てるから」

 

職員の意識が、春の言葉通りに書き換えられていく。

本来なら外出届も身元引き受け人のサインも必要なはずだが、彼の脳内では「すべて完了済み」として処理された。

春は一礼して施設を出る。

背負ったリュックには、わずかな着替えと、偽造した身分証、そして母――新野ニノが残していった、忌々しいほどに美しい執念の記憶だけが入っていた。

 

 

渋谷の雑踏を歩く春の足取りは軽い。

しかし、その心は冷めきっていた。

自分の人生を、一歩引いた場所から眺めているような感覚。悲しくもなければ、ワクワクもしない。

 

(自立しなきゃ。あの人が一番嫌がる方法で)

 

母、ニノ。

かつてB小町の一員であり、伝説のアイドル・アイに狂信的な愛憎を抱き続けた女。

春を産み落とし、施設と家を往復させながら、その顔にアイの面影を見つけては泣き、あるいは罵った女。

春が芸能界に入ることは、ニノにとって「聖域への侵入」であり、耐え難い侮辱になるはずだ。

 

「失礼します。…オーディションの募集を見て来ました」

 

苺プロダクションの事務所。

応対に出たのは、代表取締役の斉藤ミヤコだった。

彼女は鋭い審美眼で春をスキャンする。

 

「…募集は締め切ったはずだけど。それに、あなた、いくつ? 随分幼く見えるけど」

 

「十六歳です。ほら、ここに書類も」

 

春が差し出したのは、年齢を四歳上に書き換えた偽造の保険証のコピー。

そして、真っ直ぐにミヤコの目を見た。

「ほしの瞳」が、じわりと熱を持つ。

 

「私は、今のB小町に足りないものを埋められる。…そうでしょ?」

 

ミヤコの脳裏に、強烈なノイズが走る。

(この子は危ない。素性も怪しいし、何よりこの顔は――)

本来の直感はそう告げていた。

しかし、春の瞳に浮かぶファンシーな星を見つめた瞬間、その思考は「絶対的な肯定」へと反転する。

 

「…ええ、そうね。今のうちには、あなたのような『華』が必要だわ。…新野、春さん。今日からうちに登録しましょう。寮の手配も急がせるわ」

 

ミヤコの手が、迷いなく契約書を取り出す。

客観的にその光景を眺めている春は、心の中で小さくため息をついた。

(あ、通っちゃった。…チョロいな、大人って)

 

 

契約書にサインを終え、事務所の廊下を出たときだった。

 

「――あんた、誰?」

 

低く、冷ややかな声。

振り返ると、そこには青い瞳に冷徹な光を宿した少年、アクアが立っていた。

彼は春の顔を凝視し、わずかに眉をひそめる。

その視線は、ミヤコのように暗示に呑まれてはいない。

 

「今日から入った、新人。新野春。よろしくね、お兄さん」

 

春は、いつものように「ほしの瞳」を全開にして微笑んだ。

普通ならこれで、彼は「可愛らしい後輩だ」と納得して去るはずだ。

だが、アクアは動かない。

むしろ、不気味なものを見るような目で春の瞳を覗き込んできた。

 

「…その目。何だ、それは。…嘘を吐くときのアイに似ているが、決定的に何かが違う」

 

「…へぇ」

 

春の口角が、わずかに上がる。

初めてだ。

自分の「嘘」を「嘘」として認識したまま、踏みとどまる人間に出会ったのは。

 

(面白い。この人なら、私の『現実感』を壊してくれるのかな)

 

「…今からガチで恋始めちゃうような、そんな番組に出るんだっけ? お兄さん」

 

春はアクアの横を通り抜けながら、耳元で囁く。

その瞳には、子供じみた悪戯心と、底知れない虚無の星が、ぐるぐると渦巻いていた。

 

 

『今からガチで恋始めます』――通称『今ガチ』。

その撮影現場に、一人の少女が「見学」という名目で現れた。

 

苺プロダクションの社長、斉藤ミヤコが強引にねじ込んだ新人。

本来、番組の構成が決まった後にメンバーを追加するなどあり得ない話だが、現場のプロデューサーは春の瞳を見つめた瞬間、呼吸を忘れた。

 

「…いい。すごくいいよ。君、ちょっとカメラの前に立ってみないか?」

 

スタッフたちの困惑は、春の「ほしの瞳」によって数秒で「納得」へと書き換えられる。

そこに立っているだけで、現場の空気が歪む。

黒髪をなびかせ、小柄な体を揺らして歩く姿は、かつてのアイよりも幼く、しかし完成されていた。

 

 

春にとって、歌とダンスは「娯楽」ではなく「義務」だった。

施設に預けられる前、母・ニノから受けた狂気じみたレッスン。

 

「アイはもっと、指先の角度がこうだったの」

「声が違う。もっと甘く、もっと人を突き放すように笑って!」

 

ニノがアイに抱いていた、崇拝に近い嫉妬。

そのすべてを叩き込まれた春のパフォーマンスは、もはやコピーを超えた「執念の結晶」だ。

 

休憩時間、セットの隅でアクアがその様子を冷ややかに見つめていた。

彼は、春がスタッフを「瞳」で操り、本来予定になかった「テストショット」を撮らせていることに気づいている。

 

「…やりすぎだ。スタッフの判断力が鈍ってる」

 

アクアが声をかけると、春はカメラの前でポーズを解き、ふらりと彼に近づいた。

 

「お兄さん、また私を疑ってる? でもね、みんな喜んでるよ。私の『嘘』を欲しがってる」

 

春はアクアの胸元を軽く指で突き、アイの癖を完璧にトレースした角度で小首を傾げる。

 

「ダンス、見てた? お母さんにね、死ぬほどやらされたんだ。アイさんのステップ。アイさんの呼吸。…私の中には、あの人が死んでも捨てきれなかった『アイ』が詰まってるの」

 

その声には、自分自身の感情が全く乗っていない。

客観的に「今の自分はアイを完璧に再現できている」と分析しているだけだ。

 

「…ニノの娘か」

 

アクアの言葉に、春のファンシーな瞳が、ほんの一瞬だけ濁った。

 

「正解。…あの人、私がアイの曲を歌うたびに泣きながら私を叩くんだよ。可笑しいよね。自分が教えたのに」

 

 

 

撮影が再開される。

アクア、黒川あかね、鷲見ゆき…。

揃い踏みのキャストの中に、不純物として混じり込む新野春。

 

彼女は『今ガチ』という「恋愛リアリティショー」という名の台本のないドラマを、自分の瞳一つで書き換えようとしていた。

 

「ねえ、黒川あかねさん。…私と、友達になってくれる?」

 

春があかねの目を見つめる。

プロの役者として鋭い感性を持つあかねは、春の瞳を見た瞬間、背筋に冷たいものが走るのを感じた。

 

(この子、何…? 感情が見えない。…でも、断っちゃいけない気がする。この子が言うことは、全部『正しい』んだって、頭が…!)

 

あかねの瞳が、春のファンシーな光に侵食されていく。

アクアは悟った。

この少女は、芸能界という巨大な「嘘の舞台」を、文字通り自分の色に塗りつぶそうとしている。

 

「…自立、ね。お前のやり方は、復讐よりもタチが悪い」

 

アクアの独り言に、春は背中越しにピースサインを送った。

彼女にとって、これはニノへの嫌がらせであり、世界への復讐であり、そして――自分という「現実」を探すための、虚無的なゲームだった。

 

 

『今ガチ』の先行カットがネットに流れた瞬間、SNSは静かな、しかし異様な熱狂に包まれた。

「アイの再来」「B小町の亡霊」――そんな言葉が並ぶ。

小柄で童顔、それでいて指先の動き一つまでが、かつての伝説を完璧にトレースしている。

 

その映像を、狂気と執念の瞳で見つめていた女がいた。

新野ニノ。

かつてアイを愛し、憎み、その死によって心を止めてしまった女。

 

「…あの子、勝手なことを…!」

 

施設に預け、自分の「アイへの贖罪」の道具として、あるいは「アイの代替品」としてレッスンを課してきた娘。

それが、自分の許可なく、アイが立つはずだったステージの端に足をかけた。

それはニノにとって、耐えがたい「聖域の冒涜」だった。

 

 

数日後。撮影現場の裏口に、深々と帽子を被った女が現れた。

スタッフを突き飛ばさんばかりの勢いで突き進む彼女を止めたのは、無機質なほどに落ち着いた声だった。

 

「お母さん、やっぱり来たんだ」

 

新野春。

衣装を着た彼女は、鏡の前で自分の姿を客観的に眺めていた。

振り返った春の瞳には、あの「ファンシーな星」が妖しく明滅している。

 

「春! あんた、何のつもり!? アイの真似をして、人前で…! あんたは私の所有物で、アイの影でいればいいのよ!」

 

ニノの叫びが廊下に響く。

激昂し、手を振り上げようとする母。

だが、春はその目を真っ直ぐに見つめた。

逃げも隠れもしない。

ただ、瞳の奥にある星を、ニノの網膜に焼き付けるように。

 

「…何を怒ってるの? お母さん。忘れたの?」

 

春の声は、鈴の音のように澄んでいて、しかし温度がない。

 

「お母さんが言ったんだよ。『春、テレビに出なさい。あなたがアイとして輝く姿を、私に見せて』って。…先週、施設に来た時に約束したじゃない」

 

「…え? 私が…そんなこと…」

 

ニノの脳内に、激しいノイズが走る。

言っていない。

そんなはずはない。

だが、春の瞳を見つめれば見つめるほど、「言ったかもしれない」「いや、確かに言った」という偽りの記憶が、脳の溝を埋めていく。

 

「…そう、だったかしら。私が、あなたに…」

 

「そうだよ。お母さんは私に、最高のアイドルになってほしいんだよね。だから私はここにいるの。…お母さんはもう、安心して帰っていいんだよ。お仕事の邪魔になっちゃうから」

 

春の細い指が、ニノの肩にそっと触れる。

その瞬間、ニノの瞳から戦意が消えた。

操り人形のように、がくりと肩の力が抜ける。

 

「…そうね。私が、お願いしたんだったわね。…頑張りなさい、春。アイのように。私の、アイのように…」

 

フラフラとした足取りで、ニノは背を向けた。

あんなに激しかった怒りは、春の「嘘」によって綺麗に塗りつぶされ、彼女は満足げな笑みすら浮かべて去っていく。

 

 

「…ひどい嘘だな」

 

物陰から、アクアが姿を現した。

彼は今のやり取りをすべて見ていた。

母親の記憶を、その場の思いつきで書き換えて追い返す。

そのあまりに手慣れた、そして血の通わないやり方に、アクアは嫌悪感以上の「危うさ」を感じていた。

 

「あら、見てたの? お兄さん」

 

春は、去っていく母の背中を一度も振り返らず、鏡の中の自分に戻る。

 

「嘘はとびきりの愛、なんでしょ? お母さん、今すっごく幸せそうな顔してたよ。自分の望みが叶ったって思い込んで。…地獄にいるより、ずっとマシじゃない」

 

「お前自身はどうなんだ。…自分の言葉で、自分の母親を壊して、何とも思わないのか」

 

春は、アイがよくやっていた「内緒だよ」のポーズを、機械的なほど正確に再現して見せた。

 

「言ったでしょ、お兄さん。私、自分のことにも現実感がないんだ。…今喋ってる私が『本物』かどうかも、私には分かんないんだよ」

 

その瞳に浮かぶファンシーな星は、悲しいほどにキラキラと輝いていた。

 

 

『今ガチ』の第3話、フリータイムの撮影中。

夕暮れの屋上で、春とアクアは二人きりになった。

カメラは遠くにあり、マイクもスタッフの指示で一時的にオフにさせている――春が、担当ディレクターの目を見つめて「少し静かにしてて」と囁いたからだ。

 

「ねえ、お兄さん。…私の目、怖いの?」

 

春は手すりに腰掛け、小柄な体を揺らす。夕陽をバックにした彼女の輪郭は、かつてのアイそのものだった。

彼女は「ほしの瞳」を最大限に発動させる。

目の前の男を屈服させ、自分の「嘘」を「真実」だと認めさせるために。

 

「お兄さんは、私のことが大好き。…私の歌も、ダンスも、全部本物だって、そう思ってるよね?」

 

春の瞳の奥で、ファンシーな星が激しく渦を巻く。

強制的な肯定。

脳を直接書き換えるような、暴力的なまでの「嘘」。

だが。

 

「…悪いな。俺の脳には、もう先客がいてね」

 

アクアの瞳に、一点の曇りもない、鋭利な「黒い星」が灯った。

それは春のファンシーな輝きを、底知れない闇の奥へと吸い込んでいくような、圧倒的な存在感。

 

春の心臓が、ドクンと跳ねた。

「ほしの瞳」が、弾かれた。

自分の嘘が、初めて他人の拒絶によって「無効化」されたのだ。

 

「…っ、あはは。…すごい。私の星、負けちゃった」

 

春は膝をつき、力なく笑った。

客観的に自分を見ているはずの彼女の視界が、初めてぐにゃりと歪む。

アクアはその様子を冷徹に見つめていたが、ふと、ある違和感に気づく。

 

彼女の瞳から星が消えた瞬間、そこに残ったのは「アイのような輝き」ではなかった。

ただの、空っぽな。

ヒビの入った硝子細工のような、救いようのない「全否定」の虚無。

 

(…アイとは違う。アイは、嘘を愛だと信じようともがいていた。だが、この女は――)

 

「お前…自分のことを『存在しない』と思ってるだろ」

 

アクアの声が、春の耳に冷たく突き刺さる。

 

「母親にアイの影を強要され、瞳の力で他人の現実を壊し続けた結果、お前自身の『芯』がどこにも残っていない。…アイよりよっぽど、壊れてる」

 

アイの「嘘」は人を幸せにするための魔法だった。

だが、春の「嘘」は、自分をも消し去るための毒液だ。

 

「…やっぱり、そう思う?」

 

春は地面に座り込み、楽しそうに首を傾げた。

その仕草、その角度。

アイの癖を完璧になぞりながら、彼女はアクアの目を見つめ返す。

今度は暗示ではなく、純粋な、剥き出しの観察眼で。

 

「お兄さん、その目。…私、知ってる。お母さんの部屋にあった古い映像。…アイさんがステージで見せた、一番綺麗な時の光」

 

春は這いずるようにアクアに近づき、その裾を掴んだ。

自分の中に詰め込まれた「アイの要素」が、アクアという存在に共鳴している。

 

「…お兄さん、アイさんの息子さんでしょ?」

 

アクアの表情が凍りつく。

だが、春は構わずに続ける。

その顔には、初めて「演技」ではない、歪な笑みが浮かんでいた。

 

「嬉しいな。…私をこの地獄に縛り付けた『神様』の子供に会えるなんて。ねえ、お兄さん。…復讐したいなら、手伝ってあげようか? 私のこの『嘘』、何にだって使えるよ」

 

自分の人生をゴミ捨て場に放り投げたような、あまりに軽薄で、あまりに絶望的な提案。

アクアは、目の前の少女が、自分以上に深い闇の淵で踊っていることを悟った。

 

 

アクアに正体を突きつけた翌日から、春の立ち回りは劇的に変化した。

昨日までの「不気味な天才」のオーラを霧散させ、彼女は『今ガチ』の現場で、完璧な「みんなの妹」を演じ始めたのだ。

 

「あかねお姉ちゃん、この服どっちがいいかなぁ?」

「ゆきお姉ちゃん、自撮り一緒に撮ってもいい?」

 

童顔で小柄な体躯。

少し舌足らずな喋り方(もちろん、ニノに叩き込まれた計算ずくの可愛さだ)。

彼女が「ほしの瞳」で軽く視線を流せば、共演者もスタッフも「この子は守ってあげなきゃいけない存在だ」と、強固な認識を植え付けられてしまう。

 

たとえそれが嘘であっても、目の前の春があまりに無邪気で、愛らしいから。

 

 

苺プロでも、春の「妹」としての地位は瞬く間に確立された。

特に、アイへの強い憧れを持つルビーに対して、春は最も効果的な毒を撒く。

 

「ルビーちゃん…ううん、ルビーお姉ちゃん。私、ダンス自信ないから教えてほしいな」

 

アイの面影を持つ春に「お姉ちゃん」と呼ばれ、頼られる。

ルビーにとって、それは抗いがたい誘惑だった。

春は、ルビーがアイのダンスを踊る姿を、客観的に、冷徹に観察する。

 

(…本物の娘さんは、やっぱり光り方が違う。でも、足りない。執念も、嘘も、絶望も)

 

春は、ルビーの「光」を吸い取るように、彼女の癖を自分のものにしていく。

ルビーが教えれば教えるほど、春は「アイを超えた何か」に変貌していくが、ルビーはその異様さに気づかない。

瞳の暗示が、違和感をすべて「妹への愛おしさ」に変換してしまうからだ。

 

 

そんな狂騒の中で、唯一、正気を保っているのはアクアだけだった。

彼は、妹のルビーが春に懐き、苺プロ全体がこの「小さな怪物」に飲み込まれていくのを、苦々しく見つめていた。

 

「…何のつもりだ。妹ポジションなんて、お前には似合わない」

 

自販機の影、カメラの死角でアクアが問い詰める。

春はルビーから借りたリボンを弄りながら、ひらひらと手を振った。

 

「いいでしょ? 守られる立場って、一番自由なんだよ。誰も『妹』が嘘をついてるなんて思わない。お兄さんだって、私を排除したら、ルビーちゃんに恨まれちゃうよ?」

 

春の瞳に、ファンシーな星がちりつく。

それはアクアに効かないことを分かった上で、彼を挑発するような輝き。

 

「…お兄さん何かしようとしているでしょ。なら、私は『最高の舞台装置』になってあげる。私がもっと有名になって、ニノ(お母さん)を絶望の底に叩き落として、その過程でお手伝いしてあげる」

 

春はアクアの耳元に口を寄せ、甘く、毒を含んだ声で囁いた。

 

「その代わり、私をちゃんと見ててね。…世界中で、お兄さんだけが、私の『本当の嘘』を知ってるんだから」

 

春はそう言い残すと、駆け寄ってきたスタッフに「はーい!」と元気よく手を振って戻っていく。

その背中は、誰が見ても愛くるしい新人アイドルのものだった。

 

しかし、アクアには見えていた。

彼女が歩いた後に残る、どろりとした、救いようのない虚無の足跡が。

 

 

『今ガチ』の放送が始まると、新野春の存在は爆発的な勢いでSNSを席巻した。

「守りたくなる美少女」「令和の妹キャラ」――その完成されたビジュアルと、時折見せる年相応(に見せかけた)無邪気な仕草に、視聴者は熱狂した。

 

だが、デジタルの海は時として、肉眼よりも残酷に真実を映し出す。

 

「…ねえ、春ちゃん。ちょっといいかな?」

 

撮影の合間、MEMちょがスマホを片手に春に近づいてきた。

彼女はバズりのプロだ。

画面越しに人々の熱量を読み解く彼女の瞳には、春の投稿に対する「ある種の違和感」が映っていた。

 

「どうしたの? MEMお姉ちゃん」

 

春は小首を傾げ、計算され尽くした「妹の笑顔」を向ける。

だが、MEMちょはその笑顔をスルーして、画面を見せた。

 

「春ちゃんの自撮り、めっちゃ伸びてる。でもさ、リプ欄見て。…『目が怖い』『吸い込まれそうで不気味』っていうコメントが、妙に多いんだよね。これ、加工のせい? それとも…」

 

MEMちょは鋭い。

春の「ほしの瞳」は、映像を通すとその「強制的な肯定」の力が、視聴者には「得体の知れない圧迫感」として伝わってしまうのだ。

ファンシーな星の輝きが、デジタルノイズの中で毒々しく変質している。

 

「あはは、MEMお姉ちゃん。私、目が大きいからかなぁ?」

 

「…かもね。でも、これ放っておくと『加工中毒』とか変な叩かれ方しちゃうかも。私の方が上手くレタッチしてあげようか? ほら、もっと『人間味』が出るようにさ」

 

MEMちょの言葉には、確かな善意があった。

彼女は春の背後に漂う、底知れない虚無感に無意識に気づき、それを「バズりのための演出」としてではなく、一人の少女の危うさとして救おうとしていたのだ。

 

春は一瞬、目を細めた。

(…優しいんだね、この人。私の『嘘』を、ただの加工だと思って守ろうとしてくれる)

 

「…ありがとう、MEMお姉ちゃん。じゃあ、お願いしちゃおうかな」

 

春は、MEMちょの懐に潜り込むようにしてスマホを預けた。

「妹」として振る舞いながら、春は客観的に分析する。

MEMちょのような「プロの善意」さえも、自分のツールとして利用できる。

 

その様子を遠くから見ていたアクアは、MEMちょにまで毒が回ることを危惧したが、同時に気づいた。

春がMEMちょの前でだけは、ほんのわずかに「演技の出力」を落としていることに。

 

(…あいつ、自分を救おうとする光に、当てられてるのか?)

 

だが、ネットの熱狂は春の意図を超えて加速していく。

「新野春」という偶像(アイコン)は、MEMちょのフォローによって「不気味な美少女」から「ミステリアスな聖域」へと昇華され、いよいよ誰も手出しできない怪物へと育ち始めていた。

 

 

「MEMお姉ちゃん、これ…すごく綺麗。私、こんなに『人間』っぽく見えるんだね」

 

MEMちょがレタッチした写真を見て、春は感嘆の声を漏らした。

画面の中の自分は、瞳の「ファンシーな星」が絶妙に中和され、どこか温かみのある少女として写っている。

 

「でしょ? 春ちゃんは素材が強すぎるから、少し引き算した方がみんな安心するんだよ」

 

MEMちょは得意げにピースサインを作った。だが、その直後。

春がスマートフォンの画面を消し、鏡のように反射する黒いパネル越しに、MEMちょの目を見つめた。

 

「ねえ、お姉ちゃん。…お姉ちゃんも、私と同じだよね?」

 

「…え? 何が?」

 

MEMちょの頬が、わずかに引きつる。

春の瞳には、暗示ではない、純粋に「見透かす」ような光が宿っていた。

客観的に世界を見続けてきた彼女には、他人が必死に隠している「歪み」が、ノイズのように見えてしまうのだ。

 

「年齢。…サバ読んでるでしょ。それも、かなり」

 

「…っ!」

 

MEMちょの呼吸が止まる。

苺プロの誰にも、アクアにさえも悟らせていないはずの、彼女の最大の秘密。

若さに固執し、夢を掴むために塗り固めた「嘘」。

 

「…どうして、そう思うの?」

 

「わかるよ。私、ずっと『嘘』の中で生きてきたから。お姉ちゃんの笑い方、時々すごく『大人』の疲れが見えるもん。…私と同じ。本当の自分を隠して、誰かが望む『ガワ』を演じてる」

 

春は椅子から立ち上がり、MEMちょの背後に回って、その細い肩に腕を回した。

小さな、子供のような体温。

けれど、囁かれる言葉は冷酷なまでに鋭い。

 

「いいんだよ。責めてるわけじゃないもん。…私もね、実は十六歳じゃないんだ。もっとずっと、子供だよ」

 

「…えっ?」

 

「施設から出るために、ちょっとだけ書類をいじっちゃった。…ね? 私たち、お揃いだね、MEMお姉ちゃん」

 

春はMEMちょの首筋に顔を埋め、クスクスと笑った。

その笑い声は、孤独な共犯者を見つけた子供のような、無邪気で残酷な響き。

 

MEMちょは、自分がこの「小さな怪物」を救おうとしていたはずが、いつの間にかその闇に引きずり込まれていることに気づいた。

だが、不思議と嫌な気はしなかった。

完璧なアイドル・アイの再来に見えるこの少女もまた、自分と同じように「嘘」という名の鎧を着て、必死にこの世界に立っているのだと知ってしまったから。

 

「…最悪。春ちゃん、可愛げなさすぎ」

 

MEMちょは自嘲気味に笑い、春の頭を乱暴に撫でた。

 

「いいよ。…あんたのその『嘘』、私が墓場まで持っていってあげる。その代わり、私のことも絶対バラさないこと。わかった?」

 

「うん。約束だよ、お姉ちゃん」

 

春の瞳に、今日一番の「ファンシーな星」が輝いた。

それは他人を操るための光ではなく、自分と同じ「嘘つき」を見つけたことへの、歪な親愛の証だった。

 

 

その日から、二人の絆は異様なほど深まった。

MEMちょのプロデュース技術と、春の「人を狂わせる美貌」。

二人の「嘘つき」が手を組んだことで、『今ガチ』のパワーバランスは完全に崩壊していく。

 

「お兄さん、見てて。…私、お姉ちゃんと一緒なら、この世界を全部『嘘』で塗りつぶせる気がする」

 

撮影を見守るアクアに、春は確信に満ちた笑みを向ける。

アクアは、春が自分以外の「理解者」を見つけたことに驚きつつも、その協力相手がMEMちょという、ある種で最も「善良な嘘つき」であることに一抹の不安を覚えずにはいられなかった。

 

春の「妹」としての快進撃は、ここから制御不能な領域へと加速していく。

 

 

MEMちょの個人チャンネルで公開された一本の動画が、界隈に激震を走らせた。

タイトルは――【最強の妹】超絶美少女の春ちゃんと踊ってみた!【新野春】。

 

MEMちょの卓越した編集技術と、春の「アイを凌駕するダンス」が融合したその映像は、瞬く間にミリオン再生を突破。

コメント欄は「この二人、本当の姉妹?」「尊すぎる」「春ちゃんの瞳に吸い込まれる…」という絶賛の嵐で埋め尽くされた。

 

苺プロ所属ではないMEMちょにとって、これは単なるコラボの枠を超えた「戦略的提携」だったが、それを見て黙っていられない人物がいた。

 

 

「ちょっと! 春ちゃん! MEMちょさんとばっかり仲良くして、ずるくない!?」

 

苺プロのレッスン室。

ルビーが頬を膨らませ、地団駄を踏みながら春に詰め寄った。

彼女にとって、春は「アイの面影を持つ、可愛い妹分」だったはず。

それがいつの間にか、ヨソのインフルエンサーと「最強姉妹」なんて呼ばれているのが面白くない。

 

「私の方が先に春ちゃんと知り合ったし、ダンスだって教えてあげたのに! 私も一緒に動画撮る! センターは私!」

 

ルビーの「プンスコ」モード全開の抗議。

アクアは遠くで「やれやれ」という顔で眺めていたが、春は一歩も引かなかった。

 

「…ルビーお姉ちゃん」

 

春が、ふわりとルビーの懐に飛び込んだ。

小柄な体をルビーの胸に預け、上目遣いでその瞳を見つめる。

「ほしの瞳」が、ルビーの視界をファンシーな色彩で塗りつぶしていく。

 

「ルビーお姉ちゃんは、特別だよ? MEMお姉ちゃんは『お仕事』のパートナー。でも、ルビーお姉ちゃんは…私の『憧れ』だもん」

 

「…あ、あこがれ?」

 

ルビーの単純な脳内に、春の甘い暗示が染み渡る。

 

「そうだよ。ルビーお姉ちゃんのダンスには、私にはない『光』がある。私はそれを隣で見ていたいだけ。…ねえ、怒らないで? 私はずっと、ルビーお姉ちゃんの一番近くにいたいんだよ」

 

春はルビーの服の裾をぎゅっと握りしめ、少しだけ瞳を潤ませて見せた。

客観的な春の脳内では、「よし、これで落ちる」という冷徹なカウントダウンが進んでいる。

 

「…もうっ! しょうがないなぁ、春ちゃんは! 憧れられてるんじゃ、先輩としてしっかりしなきゃね!」

 

案の定、ルビーは鼻の下を伸ばして上機嫌になった。

さっきまでの怒りはどこへやら、春を抱きしめて「よーしよし、いい子だねー」と可愛がっている。

 

 

「…相変わらず、えげつないな」

 

隅でスマホをいじっていたアクアが、呆れたように呟く。

春はルビーの腕に抱かれながら、アクアに向かってだけ、感情の消えた「無」の表情でピースサインを作ってみせた。

 

その時、レッスン室のドアが開いた。

「おっはよー! 撮影の打ち合わせに来たよー!」

現れたのはMEMちょだ。

 

「あ、MEMちょさん! ちょうど良かった、春ちゃんは私のなんだからね!」

「えー、ルビーちゃん独り占めはずるいなー。ね、春ちゃん?」

 

二人の年上に挟まれ、引っ張りだこになる春。

彼女は、自分が「妹」という装置として完璧に機能していることを再確認する。

 

(ルビーお姉ちゃんは『光』。MEMお姉ちゃんは『技術』。そして私は、その両方を食いつぶして、自分の足場にする『嘘』)

 

春の瞳に浮かぶファンシーな星は、二人から向けられる愛情を燃料にして、さらに妖しく、毒々しく輝きを増していく。

彼女の目的は、自立。そして、自分をアイの影としてしか見なかった母・ニノへの、徹底的な「拒絶」の証明。

 

「あはは、二人とも大好きだよ」

 

春が吐いたその嘘は、誰にも「嘘」とは悟られないまま、苺プロの中に深く、深く根を張っていくのだった。

 

 

『今からガチで恋始めます』最終回。

舞台は夜の海辺。波音だけが響く静寂の中、告白の時間がやってきた。

 

番組当初、春は「マスコット的な妹分」として振る舞っていた。だが、回を追うごとに彼女の瞳が見せる「一瞬の虚無」や「大人びた諦念」に、視聴者は釘付けになっていた。SNSでは「#春ちゃんの正体」「#あの瞳に勝てない」というハッシュタグが乱舞し、彼女の告白相手が誰になるのか、日本中が固唾を呑んで見守っていた。

 

 

春が呼び出したのは、アクアだった。

カメラが二人の表情を、最高のライティングで捉える。

 

「…お兄さん」

 

春の声は、震えていた。

いや、震えているように「演出」されていた。小柄な体を少し丸め、寒そうに自分の肩を抱く。その姿は、あまりにも脆く、守ってあげたくなる「理想の妹」そのものだ。

 

「私ね、ずっと探してたんだ。…私の本当の姿を見てくれる人を。お母さんも、施設の人も、みんな私の『嘘』しか見てくれなかったから」

 

春がゆっくりと顔を上げる。

「ほしの瞳」が、月光を反射してファンシーに、けれどどこか悲劇的に明滅する。

画面越しに見ている数百万人の視聴者は、この瞬間、彼女の「孤独な独白」に完全に同調(シンクロ)した。

 

「お兄さんだけだよ。私の目が『怖い』って言ってくれたのは。…私、お兄さんの前でだけは、嘘をつかなくて済む気がするの」

 

(…嘘だ。全部、真っ赤な嘘だよ、お兄さん)

 

春の脳内は、氷のように冷えていた。

客観的に、今の自分の表情がどれほど「同情」を誘い、どれほど「ヒロイン」として完成されているかを分析している。

アクアは無言で彼女を見つめ返す。彼の瞳にある「黒い星」は、春の誘惑を拒絶しているが、番組としてはそれが「重い過去を抱えた少年と、孤独な少女の対峙」という最高の画(え)になっていた。

 

 

「…好きだよ。私を、お兄さんの『本当の妹』にして?」

 

春が手を差し伸べる。

その瞬間、番組のリアルタイム視聴率は垂直立ち上がりを見せ、歴代最高記録を更新した。

サーバーが悲鳴を上げ、コメント欄は「神回」「泣ける」「アクア行け!」という叫びで埋め尽くされる。

 

だが、アクアはその手を取らなかった。

彼は一歩踏み出し、春の耳元で、マイクがギリギリ拾わないほどの低音で囁いた。

 

「…満足か? 日本中をお前の『嘘』で騙して」

 

春は、カメラに背を向けた一瞬、アクアにだけ見える角度でニヤリと口角を上げた。

アイがかつて見せたことのない、邪悪で、それでいて清々しいほどの悪役(ヴィラン)の笑み。

 

「満足だよ。…だってこれでお母さん、二度と私に『アイの影』を押し付けられなくなったもん。私は今、日本中で一番有名な『新野春』になったんだから」

 

 

結果として、アクアは「今は誰とも付き合えない」という、彼らしい、けれど番組を壊さない絶妙なラインで告白を断った。

しかし、視聴者にとってそれは「悲恋の結末」として逆に熱狂を生んだ。

 

番組終了後、トレンドの1位から10位までを関連ワードが独占。

新野春。

たった数ヶ月前まで、名前も素性も知られなかった施設育ちの少女が、今や「最も目が離せない新人」として芸能界の頂点へと続く階段を駆け上がり始めたのだ。

 

「…お疲れ様、春ちゃん。すごかったよ」

 

現場に駆けつけたMEMちょが、興奮気味に春を抱きしめる。

春は「うう、振られちゃった…」とMEMちょの胸に顔を埋めて泣き真似をしながら、その視線は遠く、テレビモニターに映る自分の姿を捉えていた。

 

(自立、成功。…ねえ、お母さん。悔しいでしょ? 私の『嘘』は、お母さんの『執念』をもう超えちゃったんだよ)

 

春の瞳に浮かぶファンシーな星は、もはや暗示を使わずとも、見る者すべてを狂わせる「魔力」を持ち始めていた。






あとがき

設定を思いついて書きだしたら春が勝手に走り出しました。
「私を見て」「ここに居るよ」って。
春の生きざまをどうか優しく見守ってあげてください。

本作では春視点で特に気にならなかった事柄はスルーされています。
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