二ノの子   作:柚葉

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2.5次元舞台編

「東京ブレイド」。

今、若者の間で爆発的な人気を誇る少年漫画の舞台化。

その制作発表で、原作ファンの間にある激震が走った。

 

「シオン」ブレイドが戦場から拾った、記憶を失った弟分。

 

原作には影も形もない、完全な舞台オリジナルキャラクター。

しかも、その役を射止めたのは、B小町の「最凶の妹」こと新野春だった。

 

「…春、あんた本当にやるの? 男の娘(こ)キャラなんて」

 

楽屋で、有馬かなが台本を片手に呆れ顔で問いかける。

春は鏡の前で、胸にさらしを巻き、ウィッグを調整しながら、いつもの飄々とした笑みを浮かべた。

 

「いいじゃん、楽しそうだし。性別なんて、ただの『設定』でしょ? かなちゃん」

 

春の声は、すでに少し低く、少年の瑞々しさを帯びていた。

「ほしの瞳」が鏡越しに煌めく。

客観的に自分を観察している春にとって、女であることも、新野春であることも、すべては上書き可能なデータに過ぎない。

 

「演技なんて、特別なことしたことないんだけどなぁ」

 

春はアクアの隣を通り過ぎる際、わざと少年の足取りで肩をぶつけた。

アクアは、彼女が「ずっと演技をして生きている」という事実に戦慄する。

彼女にとって、舞台の上と下には何の境界線もない。

 

原作者の鮫島アビ子は、当初、オリジナルキャラの追加に否定的だった。

だが、オーディションで春を見た瞬間、彼女はペンを走らせるのを止めた。

 

春が演じたのは、ただの美少年ではない。

 

「誰にも愛されたことがないから、愛し方を知らない怪物」。

 

それは春自身の人生そのものを、少しだけ削って差し出したような、あまりに純粋で残酷な「シオン」だった。

 

「…いい。この子なら、私のブレイドの世界を壊さない。むしろ、補完してくれる」

 

アビ子の太鼓判により、春は「舞台の隠し玉」として君臨することになる。

 

稽古場。

主演の鳴嶋メルトや、鞘姫を演じる有馬かな、つるぎを演じる黒川あかね。

実力派が揃う中で、春の「シオン」は異様な存在感を放っていた。

 

「…兄さん、僕を捨てないで」

 

春がアクア(刀鬼)の裾を掴み、潤んだ瞳で見上げる。

その瞳に宿るのは、いつものファンシーな星ではない。

もっと鋭く、もっと無垢な、縋り付くことしかできない獣の光。

 

「…っ」

 

あかねが、その演技を見て震える。

(あの子、メソッド演技じゃない…。自分の感情を殺して、空っぽの器に『シオン』という概念を流し込んでる。…私よりずっと、化け物…!)

 

春の「嘘」は、舞台というフィクションの装置と最悪の相性を見せていた。

観客は、彼女が女であることを忘れ、新野春であることを忘れ、ただそこにいる「薄幸の少年」を救いたいと願ってしまう。

 

「…春、やりすぎるな。お前の精神が摩耗する」

 

休憩中、アクアが水を渡しながら低く告げる。

だが、春は「シオン」の表情のまま、アクアの手を握り返した。

 

「摩耗なんてしないよ。だって、もともと『私』なんてどこにもいないんだもん」

 

春は、アクアの指先をそっと噛み、悪戯っぽく笑った。

 

「舞台の上なら、お兄さんに堂々と抱きつける。性別も、血筋も、ニノ(お母さん)のことも、全部忘れて『弟』になれる。…これ、最高の免罪符だね、お兄さん」

 

春はそう言うと、次のシーンのために颯爽と立ち上がった。

彼女は今、人生で初めて、自発的に「嘘」を謳歌していた。

それは、現実から逃避するための嘘ではなく、現実を上書きして、アクアを自分の物語の中に永遠に閉じ込めるための、壮大な「演劇」だった。

 

「…さあ、いこうか、義兄上(あにうえ)。…僕たちの、復讐の続きを」

 

少年の声で紡がれたその言葉は、客席の誰よりも、隣に立つアクアの心を深く、深く突き刺した。

 

2.5次元舞台『東京ブレイド』の幕間。華やかな表舞台の熱気とは裏腹に、舞台裏の薄暗い通路では、二人の「天才」が静かに火花を散らしていた。

 

黒川あかねは、壁に背を預け、目の前を通り過ぎようとする春を呼び止めた。

その声には、役としての情熱ではなく、プロファイラーとしての冷徹な観察眼が宿っている。

 

「…ねえ、春ちゃん。その『目』、どうやって作ってるの?」

 

春は足を止め、ゆっくりとあかねの方を向いた。アイの衣装を纏った彼女の瞳には、観客を熱狂させるファンシーな星が、どろりとした闇を孕んで瞬いている。

 

「あかねお姉ちゃん、何のこと? 私はただ、みんなが喜んでくれるように、アイさんの『嘘』を演じてるだけだよ」

 

「嘘ね。…でも、あなたのそれは『演技術』じゃないわ」

 

あかねが一歩踏み込む。

彼女はアクアを救いたい一心で、春という存在を徹底的に分析してきた。

その結論が、彼女の唇から溢れ出す。

 

「あなたの瞳にあるのは、星野アイへの憧れじゃない。

 

…良助の『執着』と、ニノの『怨念』。その二つが混ざり合って、アイという光を無理やり閉じ込めている。

…あなたは、お父さんとお母さんが壊した宝物を、自分の目の中にコレクションして悦に浸っているだけ」

 

春の口角が、ピクリと吊り上がった。

それは、アイのような慈愛の微笑ではなく、獲物を追い詰めた肉食獣のそれだった。

 

「…あはは。流石、あかねお姉ちゃん。客観的な分析、100点満点。…でも、それが分かってて、どうしてお兄さんは私を選んだと思う?」

 

春はあかねの至近距離まで詰め寄り、その耳元で毒を吐くように囁いた。

 

「あかねお姉ちゃんは、お兄さんの『良心』に訴えようとするでしょ? でもね、お兄さんが本当に求めているのは、救済なんかじゃない。…自分と一緒に地獄に堕ちてくれる、共犯者なの。…お父さんを殺し、お母さんを壊した私という『罪』そのものを、お兄さんは愛してるんだよ」

 

あかねの瞳が揺れる。

春は畳み掛けるように、あかねの胸元を指でなぞった。

 

「あかねお姉ちゃんは、アイさんを『理解』しようとした。でも、私はアイさんを『支配』してる。…お兄さんの初恋の思い出さえも、私のこの汚れた瞳で上書きしてあげたの。…ねえ、悔しい? あなたが必死に磨いた演技の鏡なんて、私のこのドロドロの真実(リアル)の前じゃ、ただのガラス細工だよ」

 

あかねは唇を噛み締め、震える拳を隠しながらも、真っ直ぐに春を見据え返した。

 

「…そう。あなたはアクアくんを地獄に繋ぎ止めたと思っているのね。…でも、可哀想。あなたはアイを支配しているつもりで、その実、死んだアイに一生囚われ続けているだけ。…アクアくんがあなたを見ている時、彼はあなたを見ていない。…あなたの瞳に映る、自分の『罪』を数えているだけよ」

 

あかねの言葉に、春の星が激しく明滅する。

 

「あなたは一生、『新野春』として愛されることはない。…アイの影を使い果たした時、そこに残るのは、誰にも顧みられない、空っぽな人殺しの娘だけ」

 

「…っ、黙れよ、子役上がり…!」

 

春の「客観性」が崩れ、剥き出しの憎悪が顔を出す。

あかねは確信した。

この少女の強さは、その「空虚」ゆえのものだと。

 

「…あ、二人とも、こんなところにいたんだ」

 

通路の奥から、アクアの声が響いた。

その瞬間、春は憑き物が落ちたように「アイ」の笑顔に戻り、あかねに抱きついた。

 

「あはは! あかねお姉ちゃん、今の演技指導、すっごくタメになったよ! お兄さん、あかねお姉ちゃんって本当に凄いや!」

 

「…ええ、私も勉強になったわ、春ちゃん」

 

アクアの前で演じられる、完璧な「仲良し」の嘘。

だが、すれ違いざま、春はあかねにだけ聞こえる声で、氷のような宣告を残した。

 

「…お兄さんの隣は、誰にも譲らない。…あかねお姉ちゃんも、アイさんも」

 

春の瞳に宿る星が、あかねのプロファイリングさえも拒絶するように、暗く、深く輝いた。

舞台のベルが鳴る。

光の当たるステージへ向かう二人の背中は、どちらも「嘘」と「真実」の境界線上で、危うく揺らめいていた。

 

 

舞台『東京ブレイド』の初日公演後。

楽屋へと続く静かな非常階段で、あかねはアクアを呼び止めた。

彼女の目には涙が溜まり、その声は使命感と悲しみに震えている。

 

「アクアくん、お願い、目を覚まして。…春ちゃんのあの『瞳』、あれはアイの再来なんかじゃない。彼女の両親がアイに抱いていた、ドロドロの執着と怨念を再構成(トレース)しているだけなの」

 

あかねは、アクアの肩を掴んで必死に訴える。

 

「あの子はあなたを愛してるんじゃない。自分の欠落を埋めるために、あなたを『地獄の共犯者』に仕立て上げようとしているだけ。このままじゃ、アクアくんの心まで壊されて、あの子の復讐の道具にされちゃうよ…!」

 

アクアは、あかねの手をゆっくりと、けれど冷たく振り払った。

その瞳には、かつての復讐者としての暗い光が宿っている。

 

「…分かっているさ。そんなこと、あいつの側にいれば嫌でも気づく」

 

「え…?」

 

あかねが絶句する。

アクアは階段の下、暗闇の方を見つめながら自嘲気味に笑った。

 

「あいつの瞳に映っているのが、良助の狂気だろうが、ニノの怨念だろうが、俺にはどうでもいいんだ。…あいつがアイの姿で、アイの声で、俺の罪を肯定してくれる。その『嘘』だけが、今の俺にとって唯一の救いなんだよ」

 

「そんなの、救いなんかじゃないわ! ただの毒よ!」

 

「ああ、毒だな。…でもあかね、お前のような『綺麗な正論』は、今の俺には眩しすぎて焼き切られそうになるんだ。…俺には、あいつが撒き散らすドロドロの毒が、ちょうどいい温度の安らぎなんだよ」

 

あかねは、アクアの言葉に自分の心が粉々に砕ける音を聞いた。

彼女がプロファイリングで導き出した「真実」も、彼を救いたいという「献身」も、アクアが自ら望んで浸かっている「泥濘」の前では無力だった。

 

「…あ、お兄さん。こんなところにいたんだ」

 

階段の上から、鈴を転がすような、けれどゾッとするほど澄んだ春の声が響いた。

春は、あかねの絶望を見下ろすように、アクアの背中にしなだれかかる。

その瞳にある星は、あかねのプロファイリングを嘲笑うかのように、一段と妖しく瞬いた。

 

「お兄さん、あかねお姉ちゃんに何か言われちゃった? …いいんだよ、お兄さん。私は、お兄さんがどれだけ汚れてても、どれだけ壊れてても、世界で一番愛してあげるから」

 

春はアクアの首筋に顔を埋め、あかねに向かって、音もなく唇を動かした。

 

『——ザ・マ・ア・ミ・ロ』

 

アクアは、春の細い肩を抱き寄せ、あかねに一度も振り返ることなく階段を降りていった。

 

「行こう、春。次の幕が上がる」

 

「うん、お兄さん。最高の『嘘』を、また二人で演じようね」

 

残されたあかねは、暗い階段で一人、膝をついた。

彼女の「初恋」は、春という猛毒によって、手の届かない深淵へと引きずり込まれてしまった。

アクアを救おうとしたあかねの善意は、皮肉にも、アクアと春の「共依存」をより強固なものにするためのスパイスでしかなかったのだ。

 

舞台のベルが、再び鳴り響く。

それは、救済を拒絶した二人の、終わらない地獄の幕開けを告げる合図だった。

 

 

『東京ブレイド』千秋楽、クライマックス。

新宿の地下、降りしきる雨の演出(プロジェクションマッピング)の中、ブレイドの義弟・シオン(新野春)は、兄を庇って宿敵の刃に貫かれた。

 

客席の数千人が、息を呑む。

春が演じるシオンは、血を吐きながらアクア(刀鬼)の腕の中に崩れ落ちた。

 

「…ねえ、兄さん。…僕のこと、拾ってくれて、ありが、とう…」

 

その声は、掠れ、消え入りそうで、けれど劇場の隅々にまで呪いのように響き渡った。

春の瞳から「ほしの瞳」のファンシーな輝きが、すうっと引いていく。

代わりに宿ったのは、光を失っていく硝子玉のような、圧倒的な「死」の質感だった。

 

「シオン…! 目を開けろ、シオン!!」

 

アクアの叫びが響く。

演技ではない、彼自身の焦燥が混じった咆哮。

だが、腕の中の春は、指先ひとつ動かさない。

呼吸が止まっている。筋肉の弛緩、肌の色の変化――客観的に自分を殺すことに特化した春の「嘘」は、生物学的な死の徴候さえも完璧にトレースしていた。

 

客席から、嗚咽(おえつ)が漏れ始める。

それは感動の涙ではない。

「目の前で、一人の少年が本当に命を落とした」という、生理的な恐怖と喪失感。

 

(…あはは。みんな、信じてる。私が、死んじゃったって)

 

動かない春の意識の隅っこで、冷徹な観客としての彼女が笑っていた。

数分間、舞台上には重苦しい沈黙が支配し、あまりのリアリティに、照明スタッフさえも次へのスイッチを押すのを一瞬躊躇(ためら)ったほどだ。

 

終演のベルが鳴っても、観客は席を立てなかった。

SNSでは「#シオン」「#新野春」が瞬時に世界トレンド1位に躍り出る。

だが、その内容は称賛よりも「安否確認」に近かった。

 

「…春! 起きなさい、もう幕は降りたわよ!」

 

舞台袖に運ばれた瞬間、有馬かなが半狂乱で春の肩を揺さぶる。

あかねも、メルトも、顔色が真っ青だ。

数秒後、春は「ぷはっ」と短く息を吐き、何事もなかったかのように目を開けた。

 

「…ふぅ。ちょっと息止めるの、苦しかったかな」

 

春は、少年のウィッグを乱暴に脱ぎ捨て、いつもの「飄々とした」少女の顔に戻る。

だが、その瞳にはまだ、死の淵を覗いてきたような不気味な残光が漂っていた。

 

「…お前、本当に死ぬ気だったのか」

 

アクアが、震える手で春の腕を掴む。

彼の衣装には、春が演出用に仕込んだ血糊がべっとりと付着していたが、アクアにはそれが本物の返り血のように感じられて仕方がなかった。

 

「死なないよ、お兄さん。…私は『嘘つき』だもん。死んだフリなんて、呼吸するより簡単だよ」

 

春はアクアの首に腕を回し、耳元で冷たく囁いた。

 

「でも、気持ちよかった。…数千人の人が、私一人のために『絶望』してくれた。お母さん(ニノ)が欲しがってたアイさんの輝きって、こういうことだったんだね」

 

この日を境に、新野春は単なる「B小町のメンバー」から、「生と死の境界を歩くカリスマ」へと変貌を遂げた。

観客は、彼女が舞台で見せたあの「死」の瞬間を忘れられない。

彼女が笑えば安堵し、彼女が歌えば救いを求める。

 

「…さあ、いこうか、お兄さん。次は、本物のステージだ」

 

春は、呆然と立ち尽くすアクアを置き去りにして、狂熱に沸くロビーへと向かう。

客観的に世界を見続けてきた少女は、ついに「自分を殺す」という究極の嘘によって、世界を自分の手のひらの上に載せることに成功したのだ。

 

その瞳に浮かぶファンシーな星は、もはや誰の目にも「救い」という名の猛毒にしか見えなかった。

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