二ノの子   作:柚葉

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映画編

アクアが進める復讐劇『15年の嘘』が、アイの「死」と「闇」を暴くための劇薬だとするならば、それと対をなすように企画された映画があった。

 

タイトルは『星の瞬き:B小町物語』。

 

アイの輝かしい功績と、彼女が愛したステージの「表側」を美しく描き切る、ファン向けの自伝的クロニクル。

監督は五反田のような天才的で偏屈な監督ではなく、ヒット作を連発する商業映画の巨匠が務めることになった。

 

そして、その主演――「アイ役」に抜擢されたのは、他でもない新野春だった。

 

「…冗談でしょ。あの子が、アイを演じるの?」

 

苺プロの事務所で、有馬かなが台本を叩きつけた。

アイを殺した男と、それを唆した女の娘。

その出自を知る者にとって、これほど残酷なキャスティングはない。

 

だが、世間は知らない。

世間が見ているのは、『今ガチ』でバズり、舞台で「真実の死」を演じてみせた、ミステリアスで圧倒的なカリスマ、新野春だ。

 

「いいじゃん、かなちゃん。…私以上に、アイさんの『嘘』を理解してる人なんて、この世にいないよ」

 

春は、鏡の前で長い黒髪をなびかせ、アイがよくやっていた「星を作るポーズ」をしてみせた。

客観的に自分を見ている春にとって、これは母への復讐の総仕上げであり、自分という「器」を完全にアイで塗りつぶすための儀式だった。

 

同時期、アクアは五反田監督のもとで『15年の嘘』の撮影に入っていた。

あちらはドロドロとした内情を暴く「劇薬」。

こちらはキラキラとした希望を売る「毒入りの飴」。

 

撮影現場で、春は一切の妥協を許さなかった。

ダンスシーン。一ミリの狂いもないステップ。

ファンサービスシーン。

見る者すべてを恋に落とす、完璧な「ほしの瞳」。

 

「…カット! 素晴らしい。春ちゃん、君はアイが乗り移っているみたいだ」

 

監督の絶賛に、春は「えへへ、ありがとうございます」とアイそっくりの笑顔で返す。

だが、その内側は凍りついていた。

彼女は、自分がアイを演じれば演じるほど、アクアが守りたかった「アイの思い出」が、自分の汚れた血で上書きされていくのを楽しんでいた。

 

ある日の夜、隣り合ったスタジオの廊下で、二人の「アイ」が交差した。

『15年の嘘』の衣装を着たルビーと、『星の瞬き』の衣装を着た春。

 

「…春ちゃん。あんたのやってること、私には分からない」

 

ルビーの瞳には、本物のアイの血筋が宿す「光」がある。

対する春の瞳には、良助の「執着」とニノの「怨念」が作り上げた、ファンシーで空虚な「星」が渦巻いている。

 

「いいんだよ、ルビーお姉ちゃん。お姉ちゃんは『真実』を演じて。私は、みんなが欲しがってる『綺麗な嘘』を完璧に演じてあげるから」

 

春はルビーの横を通り過ぎ、待機していたアクアの前に立った。

アイの衣装、アイの髪型、アイの香水。

アクアの目の前にいるのは、彼が一生をかけて追い続けている「母親」の、最も美しかった頃の幻影だ。

 

「ねえ、お兄さん。…どっちのアイが、お兄さんの好みかな?」

 

春はアクアのネクタイを指で弄り、アイが子供たちにだけ見せていた、あの慈愛に満ちた表情を作ってみせた。

 

「復讐のためにアイを壊そうとするお兄さんと、アイを完璧に再現して世界を騙そうとする私。…どっちが、アイさんを愛してるんだろうね?」

 

映画『星の瞬き』の撮影が進むにつれ、春の精神は「新野春」という個体を維持することを放棄し始めた。

彼女は今、24時間、アイとして生きている。

食事の好みも、笑い方も、瞳の輝かせ方も。

 

「…お兄さん、私を抱いてよ。アイとして、私を愛して」

 

深夜の楽屋。

春はアクアにしがみつき、アイの声で囁いた。

それは、良助がかつてアイに求めた「独占欲」の再来。

アクアは、目の前の少女が「春」なのか「アイ」なのか、あるいは自分の「罪」そのものなのか、判別がつかなくなっていく。

 

「嘘はとびきりの愛。…でしょ? お兄さん」

 

春の瞳に浮かぶ星が、アクアの意識を闇の奥へと誘う。

二つの映画が完成したとき、世界は「真実のアイ」ではなく、春が作り上げた「完璧な嘘のアイ」に跪くことになる。

 

それが、新野春という「恐ろしい子」が仕掛けた、最大にして最後の復讐劇だった。

 

そのマンションの一室は、かつてアイが絶頂期に住み、そして最期を迎えた場所。

現在は、苺プロが「アイの再来」である春のために、あえて同じ部屋を借り上げていた。

春は一人、深夜の静寂の中で、アイが最後に見た景色と同じ窓の外を眺めていた。

 

「…ねえ、アイさん。お母さんもお父さんも、あなたのことしか見てなかったよ」

 

春は客観的な視線で、部屋の隅々を観察する。

リフォームされ、綺麗になった壁紙。

だが、クローゼットの奥にある点検口の蓋が、わずかに浮いていることに気づいた。

細い指を隙間に差し込み、蓋を外す。

その暗がりの奥に、埃を被った一冊の古いノートが隠されていた。

 

それは、アイが誰にも見せず、ニノでさえ存在を知らなかった「本当の日記」だった。

 

日記のページを捲る。そこには、ファンに向けた嘘でも、子供たちへの慈愛でもない、一人の少女としての剥き出しの言葉が綴られていた。

 

『今日、先生に会った。宮崎の、あのひまわりみたいな場所で。』

『嘘をつかなくていいって、初めて言われた気がする。』

『先生。そう呼ぶときだけ、私は星じゃなくて、ただのアイになれる。』

 

春の瞳の星が、激しく明滅した。

良助でもなく、誰でもない。

アイが唯一、心の底から恋焦がれ、その死を看取ることさえ叶わなかった初恋の相手。「雨宮吾郎」。

 

「…あはは。傑作。アイのは初恋は、この死んじゃったお医者さんだったんだ」

 

翌日、春は撮影現場の控室にアクアを呼び出した。

彼女は、アイの衣装を着たまま、その日記をアクアの目の前に放り出した。

 

「お兄さん。これ、見つけたよ。アイさんの本当の初恋。…雨宮吾郎っていう、宮崎の先生だって」

 

アクアの手が、目に見えて震えた。

日記の記述――それは、雨宮吾郎を知っているものしか知り得ない、アイとの秘められた記憶そのものだった。

アクアの瞳の「黒い星」が、動揺で激しく歪む。

 

「…な、ぜ、お前が…それを…」

 

「お兄さん、顔色が悪いよ? まるで、自分自身のことが書いてあるみたい」

 

春はアクアの顔を覗き込み、その瞳を至近距離で凝視した。

客観的な観察眼。

春は、アクアがこれまで見せてきた「子供らしからぬ知識」や「アイへの異常な執着」、そして今この瞬間の「魂が震えるような反応」を、一つの点に繋ぎ合わせた。

 

「…お兄さん。…ううん、先生。…アイさんの『初恋の人』は、ずっと隣にいたんだね」

 

アクアの呼吸が止まる。

秘密。

誰にも、ましてや復讐相手に近い春にだけは知られてはならない「転生の真実」を、この少女は一瞬で見抜いてしまった。

 

「…お前、何を…」

 

「隠さなくていいよ。…私、今、すっごく感動してるの」

 

春はアクアの首に手を回し、狂おしいほどの笑みを浮かべた。

ファンシーな星が、アクアの絶望を祝福するように煌めく。

 

「お兄さんは、アイさんの息子でありながら、アイさんの愛した男だったんだ。…これ以上の『嘘』がこの世にある? ねえ、お兄さん。…いや、先生」

 

春はアクアの耳元で、アイの声を完璧に模倣して囁いた。

 

「私が、アイさんになってあげる。先生の好きだった、あの宮崎の時のアイさんを、私が完璧に再現してあげる。…だから、もう一度私に恋してよ。今度は、殺されないようにね?」

 

アクアは、目の前の少女が、母を殺した男の娘であることさえ忘れ、その底知れない「恐怖」に震えた。

春は、アクアの「前世」という究極の真実さえも、自分の「嘘」をより完璧にするための材料として飲み込んでしまったのだ。

 

「…さあ、撮影に戻ろうか、ゴロー先生。…私たちの、新しい神話の始まりだよ」

 

春はアイのステップで、軽やかに控室を出ていった。

残されたアクアは、自分が守りたかった「アイとの思い出」が、春という猛毒によって、二度と取り戻せない形に書き換えられていくのを、ただ立ち尽くして見ていることしかできなかった。

 

アクアが雨宮吾郎の転生者であるという事実は、ルビーにとっても人生を根底から覆す激震だった。

だが、それをルビーに突きつけたのは、アクア本人ではなく、アイの衣装を纏った「最凶の妹」、新野春だった。

 

苺プロの屋上。春は、泣き崩れるルビーの背中を優しく、慈しむように撫でている。

 

「…ねえ、ルビーお姉ちゃん。嬉しいでしょ? ずっと探してた『先生』は、ずっと隣にいたんだよ。アイさんの愛した人も、お姉ちゃんの初恋の人も、みんなお兄さんの中にいたの」

 

「あ、あぁ…あ、くん…せんせ…」

 

ルビーは過呼吸気味に、春の膝に顔を埋める。

春の瞳の星は、ルビーの精神的な防衛本能を麻痺させるように、甘く、どろりと輝いていた。

 

春にとって、アクアを独占することに意味はない。

彼女の執着は、もっと深層の、「アクアという存在を、救いようのない業(カルマ)の鎖で縛り付けること」にある。

 

「お姉ちゃん。隠さなくていいよ。…お兄さんを愛してるんでしょ? アイさんの娘として、一人の女の子として。…いいよ、お姉ちゃんにも分けてあげる」

 

「え…?」

 

ルビーが顔を上げる。春は、聖母のような、あるいは悪魔のような微笑みを浮かべた。

 

「私はもう、お兄さんと一つになったよ。お父さんとお母さんの罪を全部背負って、お兄さんの熱を、その魂の形を、体中に刻み込んでもらった。…だから、次はお姉ちゃんの番。私たち三人で、アイさんの嘘を、先生の愛を、永遠に共有(シェア)するの」

 

春にとって、肉体関係さえも「自立」や「愛情」の証明ではなく、アクアという生贄を解体し、自分とルビーという二人の「アイ」で分かち合うための儀式に過ぎない。

 

その日から、アクアの日常は「幸せな地獄」へと変貌した。

 

仕事現場では、完璧なアイドル・ルビーと、完璧なアイの再来・春に挟まれ、世界中から羨望の眼差しを向けられる。

だが、一歩家の中に入れば、そこには「前世」と「現世」の境目が消滅した、狂気の空間が待っていた。

 

「おかえりなさい、先生」

「おかえり、アクア」

 

二人の少女が、同じアイの香りをさせて彼を迎える。

春は、アイがゴローにだけ見せたであろう「甘え方」を日記から再現し、ルビーは一線こそ越えないものの、さりなとして先生に抱いていた純粋な恋心を爆発させる。

 

アクアは、二人を抱き寄せながら、自分の精神が少しずつ、砂の城のように崩れていくのを感じていた。

 

春は、アクアの腕の中で、客観的に自分たちを観察している。

 

(…あはは。最高に綺麗。アイさんの息子であり恋人である人を、アイさんの娘と、アイさんを殺した男の娘で分け合ってる。…これ以上の復讐も、これ以上の『嘘』も、この世には存在しないよ)

 

春の執着は、もはやアクア個人への愛を超え、この歪な関係性を完璧な作品として完成させることに向かっていた。

彼女はアクアの耳元を噛み、熱い吐息と共に囁く。

 

「ねえ、お兄さん。…幸せ? ずっと欲しかったアイさんの愛が、ここには二つもあるんだよ。…どこにも行かないでね。私たちが、お兄さんを一生、この嘘の中に閉じ込めてあげるから」

 

アクアは答えない。

ただ、春の瞳に宿る、ファンシーで暗黒な星の光に吸い込まれるように、ゆっくりと目を閉じた。

それは、かつて良助が、そしてニノが望み、決して手に入らなかった「アイとの永遠」の、あまりに歪んだ実現だった。

 

二つの映画、『星の瞬き』と『15年の嘘』の同時公開。

それは日本映画界、延いては世界のエンターテインメント史に刻まれる「事件」となった。

 

表側を描いた『星の瞬き』で、春が演じたアイは、人々の理想を具現化した「救済の女神」として。

裏側を描いた『15年の嘘』で、ルビーが演じたアイは、悲劇を背負いながら愛を渇望した「人間の少女」として。

 

観客は二つのスクリーンを行き来し、矛盾する「二人のアイ」の狭間で、かつてない多幸感と絶望を同時に味わった。

そして、その両方の中心にいるアクアという存在が、アイの愛した「唯一の証」であることを知る。

 

「…ねえ、お兄さん。外を見て。みんな、私たちの『嘘』に跪いてるよ」

 

映画館のバルコニーから、舞台挨拶に集まった数万人の群衆を見下ろし、春は恍惚とした表情で呟いた。

 

世間は、アクア、ルビー、そして春の三人を「奇跡の三位一体」と呼び始めた。

アイの血を引く兄妹と、アイの魂を(と世間は信じている)継承した義妹。彼らが寄り添い合い、時折見せる「家族」以上の濃密な距離感。

 

それはもはやスキャンダルの対象ではなく、不可侵のある種の宗教的芸術として受け入れられた。

 

「春ちゃん、見て。みんなが私たちを呼んでる…! アイが、ここにいるって信じてる!」

 

ルビーの瞳には、かつてないほど巨大な、純白の光を放つ星が宿っている。

彼女はアクアの左腕を抱き、幸福の絶頂にいた。アクアが「先生」であることを共有したことで、彼女の魂は救済され、春という共犯者を得たことで、その愛は狂気へと昇華された。

 

対して、アクアの右腕を抱く春の瞳には、底なしの暗黒を内包したファンシーな星。

彼女はアクアの耳元に口を寄せ、群衆には聞こえない声で囁く。

 

「…よかったね、先生。アイさんは死んだけど、アイさんの望んだ『愛してる』という嘘は、今ここで完成したんだよ」

 

アクアは、押し寄せる歓声の中で、自らの「復讐」がどこへ行き着いたのかを悟った。

カミキヒカルを破滅させるための映画だったはずが、気づけば自分たちが、カミキさえも手に入れられなかった「永遠」を演じ続ける神座(たまくら)に座らされていた。

 

春の執着。

ルビーの依存。

そして、自分自身の「雨宮吾郎」としての過去。

 

それらすべてを「とびきりの嘘」という糊で貼り付け、世界という観客の前で演じ続ける。

それが、春がアクアに与えた、死よりも重い償い。

 

「…ああ。…完璧な、嘘だ」

 

アクアがそう口にした瞬間、春は満足げに彼に口づけをした。

カメラのフラッシュが、数万人の絶叫が、その瞬間を「神話」として固定していく。

 

映画は大ヒットを続け、三人はもはや地上を歩く人間ではなくなった。

私生活は苺プロによって厳重に守られ、その実態は「三人の箱庭」という閉ざされた聖域に収束していく。

 

夜、誰もいないリビングで、三人はアイがかつて座したあのソファに座る。

ルビーがアクアの膝に頭を預け、春がアクアの背中から抱きつく。

 

「ねえ、先生。…次は、どんな嘘をつこうか?」

 

春が楽しそうに提案する。

客観的に世界を見続けてきた少女は、ついに主観さえも「嘘」で塗りつぶし、自分たちが作り上げた偽物の宇宙の主(あるじ)となった。

 

アクアは、左右から向けられる「星」の輝きに焼かれながら、二度と昇ることのない太陽を待ち続ける。

そこにあるのは、永遠に続く、眩いばかりの暗闇だった。

 

 

 

後日、警察の精神鑑定により、新野冬子(ニノ)は「娘・春がアイの転生体である」という強固な妄想に取り憑かれていると診断された。

だが、その妄想は、今や日本中のファンが共有している「真実」でもあった。

 

春は、自分を壊した母さえも、自分の「嘘」を構成する一つの部品として利用し尽くしたのだ。

 

彼女の瞳に浮かぶファンシーな星。

それは今日も、テレビの中で、映画の中で、そしてアクアの隣で、誰よりも美しく、誰よりも不気味に瞬き続けている。

 

「嘘は、とびきりの愛だもんね。…そうでしょ、お兄さん?」







あとがき

控えめに言って地獄の様相を呈してきました。
書き溜めはここで終了となりました。
現時点でストックはございません。
構想としての着地点は決めてありますので間が空いても完結させますのでよろしくお願いします。
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