二ノの子   作:柚葉

6 / 7
星の瞬き

断崖絶壁。

 

 

映画の撮影がすべて終わり、真実の断罪が行われる場所。

アクアは一人、実の父であり、アイを死に追いやった元凶、カミキヒカルと対峙していた。

 

アクアの懐には、心中を覚悟したナイフが隠されている。

共に奈落へ落ちる。それが、彼が何年もかけて練り上げてきた復讐の終着点だった。

 

だが。

 

「…遅かったね、お兄さん」

 

カミキの背後から、影が揺れた。

そこに立っていたのは、アイの衣装を着た新野春だった。

彼女はカミキの隣に、まるで愛娘のように、あるいは恋人のように寄り添っている。

 

「春、そこをどけ。…これは、俺とこの男の決着だ」

 

アクアの声が震える。

だが、カミキヒカルは優雅な笑みを浮かべ、春の肩に手を置いた。

 

「驚いたよ、アクア。…僕に、こんなに美しい『娘』がいたなんて。彼女がすべて話してくれた。君が僕を殺しに来ること。そして、君が…アイの愛した『先生』の生まれ変わりであることもね」

 

アクアの思考が停止する。

春はカミキにすべてを売ったのか。

 

「お兄さん、勘違いしないで」

 

春が、一歩前へ出る。

その瞳の「ほしの瞳」は、カミキの持つ禍々しい黒い星さえも飲み込むような、見たこともない色彩「絶望を包み込む桃色の虚無」で溢れていた。

 

「お兄さんは、ここで死んで終わりにするつもりだったでしょ? …そんなの、私が許さない。だって、お兄さんは私の『神様』なんだから」

 

春は、カミキヒカルの頬をそっと撫でた。

カミキは、かつてのアイと同じ瞳を持つ少女に、初めて「恐怖」を感じた。

彼がこれまで奪ってきた命の重みさえも、この少女の抱える「空虚」の前では、羽毛のように軽い。

 

「ねぇ。…アイさんを殺して、楽しかった? でもね、偽物のあなたが『本物』を消しても、何も手に入らないんだよ」

 

春の瞳が、至近距離でカミキを射抜く。

客観的な計算に基づいた、精神の破壊。

 

「あなたは一生、アイさんに会えない。…でも、私は会わせてあげられる。ほら、私の目を見て。…私が、今、あなたの『アイ』になってあげるから」

 

春の暗示が、カミキの脳を直接書き換える。

カミキの目には、春の姿がかつてのアイに見え、その背後に自分が殺した無数の被害者たちの影が見えた。

 

「…あ、あ、あああああああ!!」

 

カミキは狂乱し、崖の縁まで後退する。

彼は死を望んだのではない。

春が見せた「永遠に続く死の瞬間」という嘘に、精神が耐えきれなかったのだ。

 

カミキは自ら奈落へと身を投げた。

原作のようなアクアとの刺し違えではない。

一人の少女が放った「嘘」という暴力に、自我を粉砕されての自滅。

 

アクアは、ナイフを握ったまま膝をついた。

仇はいなくなった。

だが、勝利の感触はない。

 

「…お兄さん。終わったよ」

 

春が、崖の縁に立つ。

彼女はカミキを追うように飛び降りることはしなかった。

ゆっくりとアクアのもとに歩み寄り、その後ろから首に腕を回す。

 

「あの人は死んだ。お兄さんは、生き残った。…私の嘘が、お兄さんを救ってあげたんだよ」

 

「…春。お前は…」

 

「お兄さんは、もうどこにも行けない。…ルビーお姉ちゃんと、私と、三人で…世界中を騙しながら、一生この地獄で踊り続けるの」

 

春はアクアの耳を甘く噛み、微笑んだ。

心中よりも残酷な、「死ぬことも許されない幸福な余生」。

 

アクアは、自分の影が春の影と溶け合い、一つになっていくのを見つめていた。

断崖の下から吹き上げる風が、アイの香水の匂いを運んでくる。

 

「嘘は、とびきりの愛。…ね、先生?」

 

春の瞳に浮かぶ星は、もはや夜空のどんな星よりも眩しく、そして毒々しく、救いようのない光を放ち続けていた。

 

二人の復讐劇は幕を閉じた。

そして、新野春という「最凶の妹」が主演を務める、終わりのない喜劇が幕を開けた。

 

 

 

黒川あかねは、絶望の淵にいた。

映画の公開、カミキヒカルの最期。

世間が「三人(春 ルビー アクア)の神話」に熱狂する中、彼女だけはその中心にある「歪み」を、プロファイリングで見抜いていた。

 

アクアは、あかねにとっても、かつて命を救われ、そして初めて愛を知った「初恋の人」だ。

その彼が、春という底知れない少女の毒に侵され、感情を失った抜け殻のようになっている。

 

あかねは、苺プロの稽古場の片隅で、一人アイのステップを刻む春を呼び止めた。

 

「…春ちゃん。いい加減にしたら?」

 

あかねの声は冷たく、鋭い。

春はゆっくりと動きを止め、鏡越しにあかねを見た。

アイの衣装、アイの髪型。

けれど、その瞳に宿る星は、あかねがかつて舞台『東京ブレイド』で模倣した「アイ」よりも、遥かに深く、どろりとした闇を湛えている。

 

「あかねお姉ちゃん。…何のこと?」

 

「アクアくんを、あの場所に閉じ込めるのはやめて。…あなたはアイを演じているんじゃない。アイという皮を被って、アクアくんを食べてるだけ」

 

あかねは一歩踏み出し、春の「正体」を解き明かすように言葉を畳み掛ける。

「あなたの父親は良介。母親はニノ。…あなたの愛は、アイへの執着ではなく、彼女を殺した両親の『憎しみ』の変奏曲。…違う?」

 

春は、一瞬の沈黙の後、クスクスと肩を揺らして笑った。

それは少女の笑い声ではなく、すべてを悟りきった老人のような、不気味な響き。

 

「あかねさんは、お兄さんのことが本当に好きなんだね。…『初恋』、だっけ? 羨ましいな。そんな綺麗な言葉、私には眩しすぎて分からないよ」

 

春があかねの目の前に立ち、その瞳を覗き込む。

あかねは「ほしの瞳」に抗おうと目をそらさない。

だが、春の瞳に浮かぶ星は、あかねの知る「演技術」の範疇を越えていた。

 

「でも、あかねさん。…お兄さんが今、誰の体温を求めてるか知ってる? 誰の嘘に縋って、ようやく正気を保ってるか知ってる?」

 

春があかねの耳元に口を寄せる。

その吐息は、氷のように冷たい。

 

「あかねさんの『真実の愛』は、お兄さんを救えなかった。…救ったのは、私の『とびきりの嘘』だよ。先生はね、アイさんの死をずっと悔やんでた。だから、私がアイさんになってあげたの。…それのどこがいけないの?」

 

「それは…それは、救いじゃない! 呪いよ!!」

 

あかねが叫ぶ。

だが、春の表情は変わらない。

春は、あかねの胸元にそっと手を置いた。

 

「呪いでいいよ。…愛なんて、結局は互いを縛り付けるための呪文でしょ? あかねさんがお兄さんを想う気持ちも、私から見れば立派な『執念』だよ。…私たち、似てるね」

 

春は、あかねの目から一筋の涙が溢れるのを、客観的な視線で観察していた。

あかねは気づいた。

自分は「黒川あかね」として、誠実にアクアに向き合おうとした。

けれど、春は「自分」を捨て、アクアが最も求めていた「幻想」そのものに成り果てた。

 

その覚悟の差、あるいは「自己の欠落」の深さに、あかねは戦慄した。

 

「…あかねさん。お兄さんのこと、まだ好きなら…そばにいてもいいよ」

 

春が、慈悲を与えるような微笑みを浮かべる。

 

「ルビーお姉ちゃんと、私と、あかねさん。…みんなでお兄さんを愛してあげよう? 誰が本物で、誰が偽物かなんて、お兄さんにとってはもうどうでもいいことなんだから」

 

「…っ、ふざけないで…!」

 

あかねは春の手を振り払い、逃げるように稽古場を飛び出した。

背後で、春が再びアイのステップを刻み始める音が聞こえる。

 

春は鏡を見つめ、自分の中に流れる「良介の狂気」と「ニノの執念」を、アクアという光で優しく包み込んだ。

 

(…あかねさん、ごめんね。お兄さんの初恋は、あかねさんかもしれない。…でも、お兄さんの『永遠』は、私なんだよ)

 

鏡の中の「アイ」が、静かに、けれど残酷にウインクをした。

あかねの「初恋」は、春が作り上げた巨大な「神話」の波に、音もなく飲み込まれていった。

 

 

 

あかねは、春を憎みきれなかった。

プロファイリングを通じて春の深淵に触れれば触れるほど、そこにあるのは悪意ではなく、親に愛されず「自分」を与えられなかった子供の、叫びのような空白だと知ってしまったからだ。

 

だからあかねは、春を壊すのではなく、春がひた隠しにする一人の少女としての欲求を暴き出す道を選んだ。

 

稽古場の隅、あかねは再び春と対峙した。

今度は怒りではなく、深い慈しみを含んだ瞳で。

 

「春ちゃん。あなたは完璧にアイを演じている。でも、その完璧さが、逆にあなたの『嘘』を証明しているわ」

 

あかねは、春の手を優しく握った。

春は一瞬、拒絶するように指先を強張らせたが、あかねの温もりがそれを許さない。

 

「アイとしてアクアくんを愛して、アイとしてルビーちゃんを導いて…。でも、『新野春』としてのあなたは、今、どこで何を感じているの?」

 

「…何、言ってるの。私は――」

 

「言わなくていい。私が視せてあげる」

 

あかねは、春の瞳を真っ直ぐに見つめ、プロファイラーとしての全感覚を動員して、春が押し殺してきた「個」の感情を言語化していく。

 

「あなたは、お母さんへの復讐のためでも、アイの代わりになるためでもなく…ただ、一人の女の子として、アクアくんに『春』って名前を呼んでほしかっただけなんじゃないの?」

 

春の瞳の星が、激しく揺れた。

客観的に自分をコントロールしてきたはずの回路が、あかねの理解という名のメスによって切り裂かれる。

 

「…違う。私は、お兄さんの便利な道具でいいの。アイさんの代わりで、いいの…」

 

「道具なら、そんなに悲しい顔をしないわ。あなたは、アクアくんを独占したいんじゃない。アクアくんに、アイの幻影を透かさずに、あなた自身を見てほしい…そう、泣き叫んでいるのが見えるよ」

 

あかねの言葉が、春の心の最深部に届く。

春は、アイの衣装を着たまま、その場に力なく膝をついた。

「ほしの瞳」が消え、そこにはただの、寂しがり屋の少女の瞳が残された。

 

「…あかねさんは、ずるいよ。…そんなの、認めたら…私、もうアイさんを演じられなくなっちゃうじゃない…」

 

春の目から、大粒の涙が溢れる。

それは「アイ」の涙ではなく、ずっと放置されていた「春」という少女の、初めての自意識の表れだった。

 

春は、自分の「欲求」を悟ってしまった。

アクアを地獄に繋ぎ止めるための「嘘」の中に、自分自身の「愛されたい」という本心が混ざっていたことを。

 

あかねは、泣きじゃくる春を静かに抱きしめた。

「…今は、それでいいの。あなたは怪物じゃない。ただの、恋をしている女の子なんだから」

 

あかねのこの行動は、春を「無敵の偶像」から「一人のライバル」へと引きずり下ろした。

あかねはアクアを救いたい。

けれど、春を壊したくもない。

だからこそ、春に「自分」を自覚させることで、嘘に依存した支配を終わらせようとしたのだ。

 

その夜、春はアクアの部屋を訪れた。

アイの香水をつけず、アイの髪型も解いた、ありのままの「新野春」として。

 

「…お兄さん。…ううん。アクア、くん」

 

春は、震える声で彼の名前を呼んだ。

アクアは驚いたように顔を上げる。

そこには、完璧なアイのコピーではなく、自分を不安そうに見つめる一人の少女がいた。

 

「私…ずっと、嘘をついてた。…お兄さんに、私のこと、嫌いになってほしくなかったから」

 

春の告白は、あかねが仕掛けた「気づき」の種から芽生えたものだった。

アクア、ルビー、春。

そしてそこにあかねが加わり、歪な「三位一体」は、四人の剥き出しの感情がぶつかり合う、泥臭くも人間らしい愛憎劇へと形を変えていく。

 

春の瞳に、再び小さな星が灯る。

それはもう、他人を騙すためのものではなく、自分の本当の願いを照らすための、淡く、けれど確かな光だった。

 

「…私を、アイさんの代わりにしないで。…『春』って、呼んでくれるまで、離さないから」

 

春はアクアの胸に顔を埋め、静かに、けれど強く、新たな契約を交わした。

それは「嘘」から始まった物語が、初めて「真実」に触れた瞬間だった。

 

 

 

あかねに「自分」を暴かれたあの日を境に、春のパフォーマンスは劇的な変貌を遂げた。

これまでの春は、鏡を見てアイの角度を研究し、客観的に「正解」をトレースする、いわば超高性能なコピー機だった。

 

だが、今の春は違う。

 

「…ねえ、アクアくん。今日の私、どうかな?」

 

練習着のまま、汗を拭いもせずに笑う春。

その瞳には、もはやニノから押し付けられたファンシーな色彩も、他人を操作するための暗示もなかった。

代わりに宿ったのは、心の奥底にある「アクアに見てほしい」という剥き出しの渇望が結晶化した、「本物の星」だった。

 

それは、皮肉極まる現象だった。

アイを模倣することをやめ、「新野春」という個としての自我を確立した瞬間、彼女の瞳にはアイが持っていたものと同じ、あるいはそれ以上に強烈な「人を惹きつける光」が灯ったのだ。

 

「…信じられない。あの子、化けたわね」

 

苺プロの社長室で、ミヤコがモニターを見ながら息を呑む。

新生B小町のライブ映像。画面の中で歌う春は、もはや「アイの再来」とは呼ばれていなかった。

観客は、彼女が時折見せる「脆さ」や「激しい独占欲」、そして嘘を脱ぎ捨てた後に残った「狂おしいほどの人間味」に、熱狂を超えた祈りを捧げていた。

 

「…春ちゃん。今のあなたなら、私、本気で戦えるわ」

 

楽屋で鏡を並べる有馬かなが、不敵に笑う。

これまでの春を「得体の知れない怪物」として恐れていたかなも、今の「生身の感情をぶつけてくる春」には、ライバルとしての敬意を抱いていた。

 

「負けないよ、かなちゃん。…私、お兄さんに見せたい景色があるから」

 

春の瞳に宿る星が、力強く瞬く。

あかねの介入によって引き出されたのは、春の「弱さ」だけではなかった。

「愛されたい」という欲求を肯定した彼女は、その欲望をエネルギーに変え、ステージを支配する真のカリスマへと覚醒したのだ。

 

アクアは、舞台袖から春を見つめ、言いようのない焦燥に駆られていた。

「アイの代わり」として彼女を隣に置いていたはずなのに、今の春は、アイという巨大な影さえも自分の光で塗りつぶそうとしている。

 

「…春。お前、そんな顔で笑うんだな」

 

終演後、舞台袖に戻ってきた春に、アクアは思わず声をかけた。

春は、これまでの計算高いウインクではなく、ただ一人の少女として、満面の笑みでアクアの胸に飛び込んだ。

 

「…うん。アクアくんが見ててくれるから、私、嘘をつかなくても怖くないよ」

 

彼女の瞳にある「本物の星」が、アクアの「黒い星」を優しく照らす。

それは、死んだアイの残像を追いかける復讐劇への、春なりの決別宣言だった。

 

新野春は、ついに「自立」を超えた「新生」を果たした。

父・良介がアイに求めた一方的な愛でもなく、母・ニノがアイに抱いた歪な憧憬でもない。

自分自身の意志で、自分自身を輝かせる。

 

「…さあ、いこうか、アクアくん。…私たちの、本当の物語を始めよう」

 

春はアクアの手を引き、光り輝くステージへと歩き出す。

その背中は、かつてのアイよりもずっと小さく、けれど、誰よりも強固な「自分」という真実を背負っていた。

 

 

 

皮肉にも、嘘を捨てたことで手に入れた「本物の星」。

それが、これからのB小町を、そしてアクアの運命を、誰も見たことのない未来へと導いていく。

 

 

 

 

 

 

映画『星の瞬き』のラストシーンは、急遽撮り直しとなった。

春はアイとして死ぬのではなく、一人の少女として「未来」を語るアドリブを入れた。

それが、世界中の観客の涙を誘い、映画は伝説となった。

 

春は今でも、時々アクアの耳元で囁く。

 

「嘘はとびきりの愛。…でもね、今の私のこの気持ちは、世界で一番の『真実』だよ」

 

彼女の瞳にある星は、今日も、愛する人の隣で誰よりも眩しく輝き続けている。






あとがき
一旦これで完結となります。
いままで読んでくださった方 ありがとうございます。
一旦完結済みとしますが、数日あけておまけの後日談を投稿して本当に終わりとなります。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。