「ワタナベェ…」と恨めしいように響く声は餌に飢えた犬のようだ。
「呼んでおいて自分だけ戻るなよなあ…。」
「ファ!?」とワタナベが絵に描いたような反応で驚く。
思わず顔を教室から外して彼女の方へ振り向くと、バンダナ蝶のカチューシャに髪型をまとめたスバルが目を逆三角にしてワタナベを睨んでいた。その瞬間に彼の頭は一瞬にして真っ白になり今まで何をしていたのかさえ分からなくなってしまった。
魚眼レンズのような目がパチパチを点滅しては、90年代のパソコンの様にゆっくりと起動を開始する。するとこれから何をすべきか、マルチタスクが画面いっぱいに出現し始めた。
まずは目撃者の始末である。
数秒教室から目を離してしまったせいで、邪魔者4人が姿をくらますには十分すぎる時間を与えてしまった。「しまった」という自分の甘さと誰もいなくなった空間を確認して安堵する。スバルは「ちょうどよかった。」といってワタナベを押しのけて教室へと入る。
「スバルもカバンを取りに来たんだ。」
それから彼女は独り言のようにいくつか話題を投げかけ始めた。それは性格からであろう。特に気まずいという雰囲気ではないはずなのに、ただ話題を振ってくれる。文化祭の事やメッセージでのやり取りなど、ワタナベも自然に笑みがこぼれた。
その傍らどこかに塩っ子たちが隠れていないか、教室の隅々をくまなく探すのであった。
机の下、教卓の裏、そして掃除用具入れ。とうとう「不審者か」とスバルに突っ込まれ、自分の机へと腰掛ける。
買ったはずのあんパンが見当たらない。
思わぬツッコミに言葉もたじたじとなる。本当なら、彼は彼女にお礼が言いたかったのだ。
スバルはダンクシュートに失敗して足をつった現場を目撃した生徒であり、唯一声をかけて心配してくれたメシアである。
日頃の小さなアプローチが功を成したのだと喜んだ瞬間であった。その過程には誰にも知られない努力や二人の話題があり、それがあったからこそ塩っ子が彼女と仲良くする場面を目の当たりにしても嫉妬せずに済んだ。
人間も動物の一種ということもあり、スバルは今後何が起こるか肌で感じ取ったようである。女子の直感というものであろうか。数々のやり取りを経るうちに繊細な感性が彼の行動を予期しているのだ。
一方ワタナベはこの環境がまたとない好機であると思うようになる。不安要素は残るものの、二人っきりの教室という好条件はそうそう訪れるものではない。万が一誰かに見られていたとしても、結果が良ければ語り継がれる武勇伝になるのである。
仲良くなった男女がお互いのパーソナルスペースを縮めていき、一日中遊ぶ関係になって正式に交際を始めるというようなロマンチックな過程は踏んでいない。しかし、あまり知らないうちに思い切って想いを伝えるような博打に近い手順でもない。
ただ恋愛に不器用な男子が大人の階段を上るその姿は青春そのものであるように、夕日に染まった教室が語り掛けていた。
幸運の女神には後ろ髪はない。常に前向きにしか揺れていないので、対面したら即座に掴まなければ過ぎ去っていくのみである。
「スバルはさ。」とリュックの布地を鳴らしたスバルがまず口を開いた。
それはまるで何かを制止するようなトーンだった。
「今、すごく楽しいワーケ。体も丈夫になったし、運動とかもっと学園生活を楽しみたいってわけ。」
嫌な予感がして汗が一筋背中を滴り落ちる。その学園生活に、自分は含まれているのだろうか。
血液が高速で酸素を脳内に運び、思考をさえさせる。これは遠回しに、友達以上になれない、と伝えているのではないか。都合の良い解釈だが、今の発言に「あなたと」という主語がなかったのだ。あえて希望を持つとしたら、これはいったん距離を置いて反応を見ている、というものもある。
頭は前者を選び、心は後者を選択した。
半歩でもいい、前へ進むしかない。
「大空…!」
思わず立ち上がり、意を決した声は腹の中で何かに躓いてしまう。
それでもスバルは「ん?」と返してくれた。
にっこりと頬を上げ、穏やかな表情は時を止めてしまいそうだった。
「…好きです。」
「…」
「僕の彼女になってください。」
「…」
沈黙はお互いに無表情で過ぎ去っていく。
「…マ?」
「マ?…マ!」
沈みかけた太陽が丁度校庭の木にあたり影を作り出した。
彼女はこうなることを知っていたのであろう。不思議なことだが、直感がそう伝える。
一息置いたスバルはひときわ目のきらめきを小さくした。赤の他人が、自分の世界へ入ってくることを求めたという事実に向き合ったのだった。
「ウチら、もうすぐ受験ジャン?そんな余裕ないっていうか、無責任に背負えないっていうかさ。」
その回答は即答であり、現状どんな言葉も彼女の心を動かすことが出来ないということであった。スバルの「受験」と「学生生活」に、ワタナベは入ることが出来なかったのである。
「友達のままじゃ、ダメか?」
仲良くなろう、と言って本当にその通りになった試しなどほとんどない。脳内では幾多のワタナベが次の一手を何にするか討論に火花を散らしているのだ。そして出てきた結論が「今」がダメなだけではないか、というものだった。
「受験が落ち着いたら、とか。」
「ねえな。」
「そうじゃなくともさ、何年先かわからないけど、気持ちが変わるかもしれないジャン?」
ここにて長期戦を申し込むというのだ。
彼女の心境に変化が起きるのは一年後かもしれないし、進学、卒業後、または社会人になってかもしれない。しかしワタナベは溢れ出る涙をこらえて眼鏡越しにスバルを向ける。隠しきれない潤んだ瞳は感情を表に出した証拠である。これを間違っても茶化したり、強すぎる言葉を投げたりしてはならないのだ。それはまるで治りかけの傷に塩を捩じりこむようなものである。
「…どうかな、そんな先の事はスバルよくわかんねーや。」
咄嗟の状況に彼女もはっきりと言葉を返すことが出来ない様子だ。
「100万年先でも待つからさ!」
数字が思いのほか大きくなり、思わず吹き出してしまいそうになる。
「誰も生きてねえだろ。」
「それでも待つから!」
スバルは改めてリュックを背負いなおすと「ハイ」と一言返答すると教室を一歩出た。去り際に「またな」と声をかけると背後からいつまでもワタナベが「100万年でも待ってるからな!」という叫びがいつまでも響いた。
最後に彼女は「うるせえ!」とツッコむとやがてその後ろ姿は廊下の先へと消えて行った。
一人教室に残ったワタナベは一瞬にしてすべてを失ったような気分だった。
地球から切り離されて巨大な虚無の空間へ、ただ一人放り出された彼は窓の外から入ってくる風によって現実へと戻される。吸い込まれるようにベランダへと出た彼は、肌に沁みる冷たい風を受けて何が悪かったのか呆然と考えた。
やはり最初からダメだったのだろうか。
夕日に染まったこの世界で、大空スバルは今帰路についているのだろうか。見ず知らずの他人と一緒に地鉄の車両で揺られ、まるでNPCの様にその他の存在として自分の世界から消えていくのだ。
深く息を吸い込むと徐々に五感が蘇ってくる。
緊張していたせいか、さっきまで聞えなかったカーテンの靡く音が聞え、脇からは冷えた汗が滝のようにベルトまで流れ落ちるのを認識する。
ふと隣の教室に目をやると、窓が少し開いていた。まるで空気の流れによって運ばれる音を収拾するかのようだ。
視線の奥には、さっき教室で追い詰めたはずのシオン達4人が目を合わせずに立っていた。
隠れず堂々と、ただ目を他所へ向けている。
手前にはシオン、その横には塩っ子が並び、ノエルとアキラもいる。まるで打ち合わせでもしたかのように全員一斉に目を泳がせていた。
「お前ら…聞いてた?」
フルフルと4人は首を振る。
「…怒らないから」とワタナベは前置きを置く。
「いつからいた?」
今度はお互い眼で語り合う。アイコンタクトが終わるとシオンが顔を緩ませる。
「ヒャクマンネン?マエカラ?」
チェイスの第二ラウンドが切って訪れた。
4人は事前にベランダの鍵をかけており、入れなかったワタナベはいったん自分の教室へと戻った後、一直線に隣の教室へと駆け出した。その間にシオン達は校舎の中へと消えていく。今度は掴まれない自分の腕を見た彼女は、神妙な面持ちのまま3人の後を追っていくのだ。
ノエルが静かに「怒らないって言ったのに。」とつぶやいたが誰もこれには反応しなかった。
ワタナベの勢いは眼に見えて落ちていた。その心情を察するに、スバルの事がよっぽど堪えたのが分かった。先ほどとは打って変わって赤子の手を捻る様に簡単に逃げおおせてしまう。
悲しきかな、人間というのはやはり感情に弱い生き物だった。
その証拠にシオン達が3階から体育館へ続く渡り廊下へ出てきた時、彼は4階の踊り場で息切れしていた。手すりから4人を見下ろす彼は今にも最後の力を振り絞って飛び出してきそうだった。
まるでロミオとジュリエットのような立ち位置の5人は、終わりのない逃走劇に結論を見いだせないでいる。
万が一ワタナベの気が狂ってその場から飛び出そうものなら、危険行為として翌日には謹慎処分を食らう羽目になる。失恋した男が何をしでかすかわからないのが怖いところであるが、もし足元が狂い、渡り廊下へ着地することが出来なかった場合は一直線に地面へと落下することになるだろう。
「飛べよ」とアキラ。
「バカー!」心境を案じたノエルが歯をむき出しにして掠れた声で叫ぶ。
あまりの突拍子の無い言葉にワタナベも乾いた声で同じことをつぶやいた。
「落ちたら地面じゃねえか…!」
そこにあなたが「大丈夫大丈夫」と言って下方面を指さす。
「クッションあるべ。」
見るとシルバーの軽が丁度真下に駐車してある。
「教員の車じゃねえか!ジャッキーじゃねえよ!!」
「塩っ子、アレころねの車。」
「なおさらクッションにできねえって!」
「飛ぶとき飛ばなきゃ女にもてないぞ。」
「だんちょとしてはフラれて安心したけど。」
ワタナベがノエルを指さす。
「何があっても白銀、お前はしばく。」
「はあはあはあ!」
アキラは「しょうがないな」と言ってポケットからくすねたあんパンを取り出した。
「みんなで食べるか」
「さんせー」
「待て!」
4つ入りの菓子パンを見つめてあなたはマジマジと「一人一個な」とワタナベに聞こえるように付け加える。
「俺のだよ!」
「お前も来いよ、4つしかないけど。」
「なんで買った本人が5人目の招待客なんだよ!」
「振られた奴は黙って!」
女子たちの言葉は容赦ない。
「振られたんだから慰めろよ!」
その叫びを聞いた4人はニヤリと口元をUの字に緩ませる。何かがはじけたワタナベは「ダルイ」と一言。
「いいから、返して。やけ食いするから。」
「降りて来いよ。」
「持って来いよ!」
「シオンが投げようか。」
「お前じゃ届かねえよ。」
「なあに?シオンがチビッて言いたいわけ?」
塩っ子が手のひらを自分の胸元に当て水平に前後させる。それは自分をからかっているのだと分かったシオンは拳を握って軽くどついた。
「むかつくなあ。」
「いいぞ、紫咲。投げるか。」
アキラはシオンにあんパンを手渡した。
縦に長い商品を右手に持ち、自由の女神のように大きく腕を天へと上げた。「ほっ」と言う掛け声とともに大きく投げつけるあんパンは思いのほか空気抵抗に遮られ、縦のままゆっくりと宙を舞った。
長身のワタナベは腕も長い。限界まで腕を伸ばしたが立体的に動く物体を上手くとらえることが出来ず、綺麗に外れて真横の手すりに被弾する。
パン、という空気が破裂するような音を鳴らしてゆらりと地面に向けて落下していった。その次の音はもっと鈍いものだった。
バンッと衝撃が鳴り、あんパンは車のルーフへ着地した。
皆、言葉が出なかった。しかし笑っていた。
「おい!」
「ピャー!」
一目散に4人はその姿をくらますのだった。
その後、彼の身に何が起こったのかは不明であるが、恐らくはあんパンを取りに行ったものと思われる。そう思われる理由として、地面を揺るがすような悲鳴が聞こえたからであった。
後に彼はまるでアクアリウムの水槽からマグロの目のようなものに見つめられたと語っている。
あなたとシオンの二人は部室へと戻り、明日大神ミオに提出する反省文の内容について話し合った。口裏を合わせるように入念に確認を施すと話題は文化祭の出し物に関する物に移った。結局お祓い屋として参加するということになり、既に段ボールにはその為の道具が集められていた。
ふとシオンが「よかったね」と横目にあなたにつぶやく。
その言葉は何かを探るようなであった。
「アキラにバレなくて。」
「え?」
「シオン、知ってるよ?」
あなたは心臓を掴まれたような気持になった。
「ホントの裏切り者って塩っ子の事でしょ?」
「ど、どした。」
歯切れの悪いあなたにイラつきを隠せないシオンはとうとう自分の口から真実語る役を買う。
「自分がリア充だってコト。他クラスの子でしょ?一部で噂になってるよ。」
少し低い彼女の声は、自分に対して隠し事をしたことに怒っているのだろうか。ポヨンとしたモチのように頬から目じりまで控えめに膨らます。
「いつから?」
ここからは隠さず正直に言った方がいいとあなたの直感が訴える。
「4か月前から…」
シオンはふーんと無関心を装う。
「聞いたんだけどー。何度も断られてもあきらめなかったって。」
ズズ、とたいして寒くもないのにシオンは鼻を啜った。
「ええ…まあ、はい…」
「やるジャン。」
「…」
「気まずかったでしょ?」
「でもさ…。」
「彼女さんにも悪いでしょ?気を遣わせて。シオンは皆と楽しく過ごしたいの。」
これ以上この場にいると他にもいろいろと言ってしまいそうだった。そんな自分の気持ちに嫌気がさしたシオンは無言でリュックを肩にかける。
それからスタスタと廊下へと向かうと去り際に「来なくて大丈夫だから。」とあなたに視線を送った。
その目はどこか寂しそうに感じ取れたが、かける言葉が見つからなかった。
このままでいいのか、いや、いいわけない。たった今あなたは大きな魚を逃したのだ。だからと言って無闇に追いかけては逆に暴れられて逃げられてしまう。
人間関係で一番怖いのは、孤独になることである。たった一つの亀裂からバラバラと関係が崩れることがあるのだ。しかし、不思議とシオンとの関係であなたは孤独を感じない。何故なら周りには手厚い支援があると感じているからである。
「来ないわけないだろ。」少し時間が経って出た言葉が校内を独り歩きする。
すると近くで大きなため息をする声が聞こえた。それが誰のものだったのかは分からない。あなたはそれがシオンのものであることを願った。
駅のホーム、いつもと違う帰り道のベンチには酔っ払いの様にうなだれているワタナベがいた。
部活を投げ出し、想い相手の女子にはフラれた彼にアキラとあなたが歩み寄った。冷たさが湿り気を帯びて鼻腔に吸い付く。
「んだよ…。」
まんま酔っ払いだ。
「ボーリング、しに行くぞ。」とアキラが肩を持つ。
ホームには帰路に就くサラリーマンや主婦が次の電車を待つために列を作っていた。彼らには自分たちで作り上げた帰る場所があるのだ。
「はっ」とワタナベは鼻で笑う。
それからすぐに顔をくしゃくしゃにさせた。対照的にあなたは深いため息をついてしまう。
「どうした?」
「いや、ボーリング楽しみだなって。」
汽笛と共にホームへ到着した快速は季節外れの春一番の様に風を巻き起こす。駅のアナウンスと共に動き出す人々に紛れ、3人は足を引きずりながら電車の奥へと消えて行った。