第1話:四気筒の排気音と、河川敷の珈琲
どこまでも高く澄み渡った、秋の空。
遠くには薄青く霞む山々の稜線が見え、眼下には幅の広い穏やかな川が、陽の光を反射してきらきらと流れている。
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市街地の喧騒から少し離れた、見晴らしの良い広大な河川敷。そこは、トレセン学園の生徒であるナイスネイチャにとって、誰の目も気にせずに、自分だけのペースで走れる、お気に入りの自主練コースだった。
「はぁっ……、ふぅっ……、はぁっ……」
彼女の規則正しい息遣いと、芝生を蹴るスニーカーの音だけが、静かな土手に響く。
ふんわりとした特徴的なツインテールを揺らしながら、ネイチャは自身のフォームを確かめるように、淡々と走り続けていた。
(……うん。今日の足の運び、悪くないんじゃない?)
額に滲んだ汗を手の甲で拭いながら、小さく独り言をこぼす。
学園のターフに行けば、誰もが認めるような圧倒的な才能を持つ「主役(ヒロイン)」たちが、火花を散らして鎬を削っている。彼女たちの走りは華やかで、力強くて、見ているだけで目を奪われる。
それに比べて、自分の走りはどうだろうか。
堅実で、泥臭くて、いつもいいところまでは行くけれど、あと一歩のところで主役の座を譲ってしまう。模擬レースではいつも3着の、よく言って名脇役だ。
(ま、私には私のお似合いのペースがあるってことで)
自嘲気味に、ふっ、と笑う。
―――悔しくないと言えば嘘になる。けれど、背伸びをして自分をすり減らすより、こうして風を感じながら、自分にできる精一杯を積み重ねていく時間も、彼女は決して嫌いではなかった。
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「よっし。今日のノルマも終わり、っと」
彼女はそう言いながらクールダウンのためにペースを落とし、土手の斜面に広がる柔らかい芝生の上へと歩みを進めた。水筒のスポーツドリンクをひとくち含み、息を整えようと大きく深呼吸をした、その時だった。
―——フォォォォォン……ッ、フォン。
遠くの土手沿いの道から、風に乗って微かな、しかしひどく整った『音』が聞こえてきた。
「……ん?」
ネイチャは長い耳をピンと立て、その音がする方角へと視線を向ける。
近づいてくるのは、一台の大型オートバイだった。
単気筒エンジンのような「トコトコ」という軽い音でもなければ、無骨なアメリカンバイクのような「ドコドコ」という威圧的な音でもない。
四つのシリンダーが精密に、そして滑らかに爆発を繰り返すことで生まれる、腹の底に響きながらもどこまでも澄み切った、四気筒(インラインフォー)エンジン特有の美しいエキゾーストノート。
その黒塗りの堂々たる車体は、ネイチャが休憩している場所から少し離れた土手上の開けたスペースに、静かに滑り込んできた。
キュル、とタイヤが止まり、エンジンが切られる。
周囲に再び秋の静寂が戻ってきたが、ネイチャの視線は、不思議とそのバイクと、それに乗ってきた人物から離せなかった。
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バイクに跨っていたのは、黒いライディングジャケットに身を包んだ、少し背の高い青年だった。
彼はゆっくりとフルフェイスのヘルメットを脱ぎ、タンクの上に置くと、少し乱れた前髪を手櫛で無造作に掻き上げた。
どこか遠くからツーリングの帰りにでも立ち寄ったのだろうか。彼の纏う空気はひどくリラックスしていて、こののどかな河川敷の風景に、不思議なほどすんなりと溶け込んでいた。
(……かっこいいバイクだなぁ。ピカピカの飾り物じゃなくて、ちゃんとあちこち走り回ってる『相棒』って感じの顔してる)
ネイチャは少し離れた場所から、邪魔にならないようにその様子をぼんやりと眺めていた。そして青年はおもむろにバイクを降りると、カチン、カチンと熱を持ったエンジンが冷えていく金属音を背に、リアボックスから小さな布製のバッグを取り出した。
(……ん? 何するんだろ?)
ネイチャの好奇心が、少しだけ首をもたげる。
青年は土手のコンクリートの段差に腰を下ろすと、バッグの中から小さなアウトドア用のガスバーナー、銀色のケトル、そして手挽きのコーヒーミルを取り出したのだ。
「えっ……こんなとこで?」
ネイチャが思わず呟いた直後。
カチッ、とバーナーに火が点けられ、青い炎が音を立ててケトルの底を舐め始めた。青年は湯が沸くまでの間、のんびりとした手つきでコーヒーミルに豆を入れ、カリカリ、カリカリと、静かにハンドルを回し始める。
豆が砕ける小気味良い音。
そして、秋の少し冷たい風に乗って、ネイチャの鼻腔に、フワリと香ばしく、ひどく落ち着く匂いが漂ってきた。
(……わぁ。すっごく、いい匂い。コーヒー?)
市販の缶コーヒーや、学園のカフェテリアの機械で淹れるコーヒーとは全く違う。
豆本来の深い香りが、河川敷の草の匂いと混ざり合い、なんとも言えない優雅な空間を作り出していた。
ただの通りすがりのバイク乗りの、一人きりの贅沢な時間。
邪魔をしてはいけないと思いつつも、ネイチャの足は、気づけばその香ばしい匂いと、穏やかな空気感に引き寄せられるように、ゆっくりと彼の方へと向かっていた。
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「……あのー」
数メートル手前まで近づいたところで、ネイチャは少し遠慮がちに声をかけた。
「……お邪魔しちゃって、すいません」
豆を挽く手を止め、青年が振り返る。その瞳には警戒心などは微塵もなく、ただ不意に声をかけられたことへの少しの驚きと、人懐っこい穏やかな笑みが浮かんでいた。
「いや、全然。どうかした?」
「あ、いえ! なんか、すっごくいい匂いがしてきたんで、つい釣られちゃいまして。お兄さんのバイク……、とても立派ですね。それに、こんな見晴らしのいいとこでコーヒー沸かすなんて、なんか優雅だなぁって」
ネイチャは、いつもの少し斜にかまえた、けれど決して嫌味のない、彼女特有のトーンで話しかけた。自分がトレセン学園のウマ娘であることは、わざわざ名乗らなかった。ただの、近所をランニングしていたモブの女の子。その方が、今のこの気楽な空気には合っている気がしたからだ。
青年は嫌な顔一つせず、横に停められた自身のバイクを見上げて目を細めた。
「ははっ、ありがとう。少し遠くまで走りすぎちゃってね、帰り道にこの川沿いを見つけたら、どうしても風に吹かれながら一杯やりたくなったんだよ」
「へぇー。……あ、でもそのバイク、本当にすっごくいい音してましたね! 遠くからでも、なんかすごく綺麗な音が響いてましたよ」
ネイチャがそう言うと、青年は少しだけ驚いたように目を丸くし、それから本当に嬉しそうな笑顔を見せた。
「おっ、ウマ娘さんもわかる? こいつは俺の長年の相棒でね。少し重たいんだけど、アクセルを開けた時のこのエンジンの滑らかなフィーリングが、たまらなく好きなんだ」
「ふふっ。愛されてますねぇ、そのバイク」
シュンシュンと、ケトルから湯気が立ち上り始める。青年はバーナーの火を止め、ペーパーフィルターに挽きたての粉をセットすると、細いお湯をゆっくりと、のの字を描くように落としていった。
もこもこと膨らむコーヒーの粉。
さらに色濃くなる、深い焙煎の香り。ネイチャは数歩だけ距離を詰め、その丁寧で静かな手作業を、なんだか魔法でも見るような目で見つめていた。
「……外で飲むコーヒーって、そんなに違うもんですか?」
「うん。缶コーヒーも手軽で好きだけど、こうやって自分で豆を挽いて、その日の気温とか、風の匂いとかを感じながら飲むコーヒーは……なんというか、頭の中がスッキリ切り替わるんだよ。贅沢な深呼吸、みたいなものかな」
贅沢な深呼吸。
その言葉が、なぜかネイチャの胸の奥にすっと落ちてきた。
――思い返せば、学園での生活は、常に誰かの足音と、期待と、プレッシャーに囲まれている。
息が詰まるような毎日の中で、自分なりに上手く息継ぎをしているつもりだったけれど。この青年のように、ただ純粋に「今の自分のためだけ」に時間と手間をかけるという贅沢を、自分はいつから忘れていたのだろう。
「……なんか、いいですね。そういうの」
ポツリとこぼしたネイチャの言葉に、青年はマグカップに注ぎ終えたコーヒーの香りを楽しみながら、優しく微笑んだ。
「君も、よくここを走ってるの?」
「あ、はい。まあ、日課みたいなもんで。ここなら、あんまり人目も気にならないし、自分のペースで走れるんで」
「そっか。……良いコースだよね、ここ。空が広くて、風が気持ちいい」
彼はそう言って、川の向こうへと視線を向けた。特別なことを話しているわけじゃない。ただ、目の前に広がる景色と、心地よい風の温度を共有しているだけ。
相手がどこの誰で、どんな才能を持っていて、どんな悩みを抱えているか。そんな肩書きを一切抜きにした、ただの「バイク乗りのお兄さん」と「通りすがりのランニング中の女の子」としてのフラットな会話。
それが、ネイチャにとっては信じられないほど居心地が良かった。
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やがて、太陽が山の稜線に隠れ始め、川面が鮮やかなオレンジ色から深い琥珀色へと変わり始めたころ。
秋の夕暮れは釣瓶落とし。急激に温度が下がり始めた風を感じて、青年は残りのコーヒーを飲み干し、手際よく道具をバッグへと片付け始めた。
「じゃあ、俺はそろそろ行くよ。引き留めて話し込んじゃって、悪かったね」
「いえいえ! 私の方こそ、勝手に押しかけてお邪魔しちゃいました。コーヒーを淹れるとこ、すっごく面白かったですし」
ネイチャは慌てて手を振り、立ち上がった青年を見上げた。ヘルメットを被り、ライディングジャケットのジッパーを上げる彼。
もうすぐ、あの綺麗な四気筒の排気音と共に、彼はどこか自分の知らない世界へと帰っていく。今日だけの、偶然の出会い。普通なら、ここで「さようなら」をして終わるはずの縁だ。
(……でも)
ナイスネイチャはもう少しだけ、この空気を感じていたかった。
彼女は、自分でも不思議なほど自然に、そして少しだけ心臓を高鳴らせながら、ネイチャは口を開いていた。
「……あの、お兄さん」
「ん?」
「お兄さん、よくここに来るんですか?」
青年はヘルメットのシールドを上げたまま、少し考えてから答えた。
「そうだな。天気のいい休日は、大体この辺りを流してることが多いかな。道も空いてるし」
「そっか。……じゃあ」
ネイチャは、背中で手を組み、少しだけつま先で土手の草を小突きながら、上目遣いで彼を見た。
「……来週の休日も。もしまた時間が合えば、ここでおしゃべりしません?」
言ってから、少しだけ顔が熱くなるのを感じた。
(私、何言ってるんだろ。ナンパじゃあるまいし、向こうだって迷惑かもしれないのに)
「ああ、あの。その。……嫌なら全然、スルーしてもらって構わないんですけど!」と付け足そうとした時。
青年は、ヘルメットの奥でふっと目を細め、とても柔らかく、穏やかに頷いた。
「ああ。……また来週、ここで」
キュルルッ、フォォォォォン……ッ!
セルモーターが回り、再び目覚めた四気筒エンジンが、夕暮れの空に向かって澄んだ咆哮を上げる。
「じゃあね」
と軽く手を上げて、バイクと青年は滑らかに土手沿いの道へと走り出していった。
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だんだんと遠ざかっていく、重厚なエキゾーストノート。その後ろ姿が見えなくなるまで、ネイチャはその場に立ち尽くし、見送っていた。
「……ふふっ。なんか、変なの」
冷えてきた秋の風が、火照った頬を撫でていく。
学園の泥臭いトラックの土の匂いでもなく、誰かと競い合う熱い想いがあるわけでもなく。風に残った微かなコーヒーの香ばしい匂いと、オイルの混ざった排気ガスの匂いが、なぜだかひどく、愛おしく感じられた。
(来週……晴れるといいな)
名脇役の少女の心に、小さな、けれど決して消えない暖かな灯りが点った、秋の夕暮れだった。