仮契約が始まってから、三週間が経過していた。
その間、ジェンティルドンナは男から課せられた異常なまでの「修正作業」を、ただの一度も音を上げる事なく完遂し続けていた。
関節の可動域、筋肉の収縮率、ストライドのミリ単位の調整。息をするのと同じように自然に走っていた彼女にとって、それは己の肉体を一度解体し、設計図通りに組み直すような苦行であったはずだ。
だが、彼女はやり遂げた。涼しい顔で、時には不敵な笑みすら浮かべながら、男が提示する「完璧な理論値」に自身の肉体をアジャストさせてみせたのだ。
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そして、仮契約の最終週。誰もいない夕暮れのターフで、男は一つのタブレット端末をジェンティルドンナに差し出した。
「……これが、お前のデータから導き出した『完全なる解答』だ」
画面に表示されていたのは、2400メートルのコースにおける、10メートルごとの詳細なタイムラップ、要求される歩幅、重心の角度、そして心拍数の推移グラフだった。
「現在の気象条件、バ場状態、そしてこの三週間で最適化されたお前のフィジカル。それら全ての変数を計算式に代入し、最もエネルギーロスが少なく、最も効率的に走破するための理論上の限界値だ」
男は無機質な声で淡々と告げた。
「これを1ミリ、1秒の狂いもなくトレースしろ。それができれば、お前は現在の限界スペックである『2分20秒8』というタイムでゴール板を駆け抜ける。道中のペースは遅くても、早くてもダメだ。……早ければ後半で乳酸値が破綻し、遅ければ単純なロスになる。これが、俺の導き出した『完璧』だ」
「……」
ジェンティルドンナはタブレットを一瞥し、ふっと微笑んだ。
「ええ、いいでしょう。貴方のその冷たい計算式がどれほどのものか、この身で証明して差し上げますわ」
彼女はウォーミングアップもそこそこに、スタートラインへと向かった。男はターフの脇に立ち、手元のストップウォッチとタブレットを構える。彼の眼球は、もはや人間のそれではなく、精密機械のセンサーと化していた。
静寂の中、ゲートが開く仮想の合図と共に、ジェンティルドンナが飛び出した。
「……」
男は息を呑んだ。美しい。あまりにも完璧なスタートだった。踏み込みの角度、芝を蹴る力、前傾姿勢から上体を起こすタイミング。タブレットに表示されたシミュレーションの波形と、現実の彼女の動きが、恐ろしいほどの精度で重なり合っていく。
最初の1000メートル。通過タイムは、男が指定した小数点以下の秒数まで完全に一致していた。
(……そうだ。それでいい)
男は心の中で呟いた。
一切の無駄がない。一切のノイズがない。彼の強迫観念とも言える完璧主義が、初めて現実の肉体によって完全に再現されている。これまでのウマ娘たちは、この「感情を殺した機械的な走り」に耐えられず、フォームを崩していった。
だが彼女は違う。与えられた方程式の通りに、淡々と、完璧に、最高速度の巡航を続けている。
第3コーナーから第4コーナーへ。
彼女の走りは依然として完璧だった。寸分の狂いもないストライド。計算通りの心拍数。このまま最後の直線を駆け抜ければ、男の弾き出した「理論上の限界値」が証明される。彼の呪いのような完璧主義が、ついに一つの到達点を見出すのだ。
だが。最終直線を前にして、男はふと、えも言われぬ『違和感』を覚えた。
(……なんだ?)
完璧なはずだ。何一つ間違っていない。それなのに、目の前を走るジェンティルドンナの背中から、言い知れぬ圧迫感が膨れ上がり始めている。
最後の直線に入った瞬間。彼女と男の視線が、一瞬だけ交差した。
その時、彼女は――笑っていた。余裕などという生易しいものではない。己の力を抑えきれず、今まさに枷を引きちぎろうとする、獰猛な王者の笑み。
「――っ!?」
次の瞬間、男の視界の中で、計算式が音を立てて崩壊した。
ジェンティルドンナが、一段深く沈み込んだのだ。男が指定した「エネルギー効率が最も良いフォーム」ではない。そんなものはかなぐり捨て、ただ大地を叩き割るような、暴力的なまでの踏み込み。
『ドゴォッ!』という、ターフが悲鳴を上げるような音が響いた。
「な……っ!?」
男は思わずストップウォッチから目を離した。彼女のストライドが、指定された215センチを大きく超え、爆発的に伸びている。
空気抵抗? 摩擦係数? 乳酸値の蓄積? そんな物理法則など知ったことかと言わんばかりに、彼女は全てを力で蹂躙し、加速していく。
「馬鹿な……そのフォームでは、ゴール手前30メートルで足が止まるはずだ! 理論上の限界を超えている……ッ!」
男の叫びなど、彼女の耳には届かない。いや、届いていたとしても止まるはずがなかった。
彼女の走りは、荒々しく、力強く、そして圧倒的に『強かった』。男が三週間かけて緻密に削り出した「完璧のフレーム」を、彼女は内側からその圧倒的な暴力――天賦の才と力――で粉々に打ち砕いたのだ。
巻き上がる芝の飛沫。切り裂かれる風の音。男はただ、呆然とその光景を見つめることしかできなかった。彼の信じていた「完璧」が、ただの「窮屈な檻」に過ぎなかったことを、彼女の圧倒的な背中が証明していた。
ゴール板を駆け抜けた彼女のタイムを、男は震える手で確認した。
『2分19秒2』。
男が弾き出した「これ以上は物理的に不可能」という限界値を、1秒以上も上回る、異常なタイムだった。
夕暮れのターフに、荒い息遣いが響く。
ゆっくりとスピードを落とし、男の元へと戻ってきたジェンティルドンナは、全身から湯気のような熱気を立ち昇らせていた。汗で前髪を張り付かせながらも、その表情には一片の疲労も見えず、ただ誇り高く、傲岸不遜な笑みが浮かんでいた。
「……どうでしたか、トレーナー」
彼女は、タブレットを落としそうになっている男を見下ろし、言った。
「貴方の用意した檻は、少々窮屈すぎましたわ。ですから、力ずくで広げさせていただきましたの」
「……お前は」
男の喉から出た声は、掠れていた。
「俺の計算式は、完璧だったはずだ。お前の筋肉量も、骨格も、全て計算に入れた上で……」
「ええ。貴方の計算は完璧でした。何一つ間違っていなかった」
ジェンティルドンナは一歩踏み出し、男の目の前に立った。
「ですが、貴方は一つだけ計算に入れていませんでしたわ。……私の『覇気』を」
彼女は胸を張り、夕日を背に受けて宣言した。
「理論上の限界? 物理法則? そんなものは、凡人が己を慰めるための言い訳に過ぎません。私が走ると決めたのなら、限界のほうから道を空けるのです」
男は、彼女の強烈な瞳に射抜かれたまま、動くことができなかった。
ずっと自分を縛り付けていた強迫観念。正常でなければならない、完璧でなければならないという呪い。
しかし今、目の前にいるこのウマ娘は、自分が作り上げた「完璧」という名の小さな箱を、いともたやすく踏み潰し、その遥か上の次元へと飛び去ってしまった。
それは、完璧主義者が学園に来て初めて感じた、痛快なまでの『敗北』だった。