ウマ娘ストーリー・another   作:灯火011

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第4話『呪いを統べる者』

 一ヶ月に及ぶ仮契約の、最終日。

 

 男のトレーナー室は、相変わらず病的なまでの静寂と秩序に支配されていた。

 

 デスクの上のペンは定規で測ったように平行に並び、書棚の資料は1ミリのズレもなく整頓されている。だが、その完璧な空間の中央で、男自身の内面だけが激しく軋みを上げていた。

 

 デスクの上に置かれたタブレット端末。

 

 そこには、昨日ジェンティルドンナが叩き出した『2分19秒2』という、物理法則を嘲笑うかのようなタイムが、冷酷なデジタルの数字として光り続けている。

 

 

 何度計算し直しても、あり得ない。男が構築した完璧な理論値では、彼女の骨格と筋肉量、昨日のバ場状態を踏まえれば、どれほど完璧に走っても『2分20秒8』が限界のはずだった。それを1秒以上も上回るということは、つまり、男の信奉する「完璧な計算式」そのものが根底から間違っていた、あるいは彼自身の「力不足」であったことの証明に他ならない。

 

 その時。コンコン、と。

 

 規則正しく、しかし有無を言わさぬ力強さを持ったノックの音が室内に響いた。

 

「……入れ」

 

 ドアが開き、凜とした制服姿のジェンティルドンナが姿を現した。彼女は男の許可を待つまでもなく、室内の中央にあるソファへと優雅に腰を下ろした。その堂々たる振る舞いは、この部屋の主が彼女であるかのような錯覚すら抱かせる。

 

「約束の一ヶ月が経ちましたわね」

 

 涼やかな声が、静寂を破る。

 

「……ああ」

 

 男はデスクの引き出しから、一枚の書類を取り出した。それは『専属契約書』ではなく、『指導終了報告書』だった。男のサインは既に記入されている。

 

「結論から言う。俺はお前の担当にはなれない」

 

 男は書類をテーブルに滑らせ、ジェンティルドンナの前に提示した。

 

「昨日の走りを見て、痛感した。俺がどれほど精緻な計算式を組み上げ、完璧な設計図を描こうとも、それは所詮『凡人が想像し得る範囲の完璧』に過ぎない。……お前の底知れない力は、俺の設計図という小さな檻には収まりきらない」

 

 男は自嘲気味に、ふっと息を吐いた。

 

「俺は、お前の走りに存在する小さなノイズを許せない。少しのズレも修正しようとする。だが、俺の計算は、俺の力では、お前の規格外のスケールを無駄に縮こまらせ、可能性を殺すだけの枷になる。お前にとって、俺が居る事は、お前の能力を100パーセント発揮する可能性を削ぐことになる。それは我慢ならない。お前には、もっと自由に、お前の覇気を受け止められる器の大きい人間が必要だ」

 

 それが、狂気的なまでの完璧主義に囚われた男が、一晩かけて導き出した「ジェンティルドンナのための完璧な結論」だった。自らの手で至宝を磨き上げる歓喜を捨ててでも、彼女の最大のポテンシャルを活かす道を選ぶ。それは彼なりの、最大限の誠意だった。

 

 だが。

 

「――下らない」

 

 ビリッ、という乾いた音が響いた。

 

 男が目を丸くした次の瞬間、ジェンティルドンナは一切の躊躇なく、テーブルの上の『指導終了報告書』を真っ二つに引き裂いていた。

 

 さらにもう半分。そしてもう半分。

 

 紙吹雪のように細かく切り裂かれたそれは、完璧に整頓された男の部屋の床へと、無惨に散らばっていく。

 

「な、何をする……!」

「貴方、自分の頭脳を過信しすぎですわ」

 

 立ち上がったジェンティルドンナは、ローファーの踵で報告書の残骸を踏みにじりながら、冷徹なまでの眼差しで男を見下ろした。

 

「私の可能性を殺す? 枷になる? ……思い上がりも甚だしいですわね。私の覇道が、貴方の計算式ごときに押し潰されるとでも思っていますの?」

 

「お前は、俺の言う事を聞いていなかったのか! 俺の指導は息が詰まるぞ! お前の天性の感覚すら、俺はミリ単位の数字で縛り付けようとする! それは……!」

 

「だから、良いのではありませんか」

 

 ジェンティルドンナの言葉に、男は絶句した。彼女はゆっくりと歩み寄り、デスクを挟んで男の真正面に立った。その瞳には、昨日、最終直線を駆け抜けた時と同じ、獰猛で気高い王者の光が宿っていた。

 

「私の力は、あまりにも強大です。ともすれば、私自身の肉体すら破壊しかねないほどの暴力的なエネルギー。……それをただ漫然と振るうだけでは、いずれ綻びが生じる」

 

 彼女は男の目を真っ直ぐに射抜く。

 

「だからこそ、私には『絶対的な基準点』が必要なのです。誰よりも冷徹に、誰よりも狂気的に、私の肉体と走りを数値化し、1ミリのズレも許さない『完璧な器』を作る存在が」

 

「……しかし、お前は昨日、その俺の作った器を壊したじゃないか」

 

「ええ、壊しましたわ。完膚なきまでに。……ですが、それは貴方が『壊すに足る、完璧に頑丈な器』を用意してくれたからに他なりません」

 

 ジェンティルドンナは、ふっと妖艶なまでに美しい笑みを浮かべた。

 

「完璧な基準があるからこそ、それを超えられる。貴方が100%の完璧な限界値を設定してくれるからこそ、私はその限界を正確に叩き壊し、120%の領域へと踏み込めるのです。……貴方のその異常な完璧主義は、私を閉じ込める檻ではありません。私が空へ飛び立つための、絶対に揺らがない『踏み台』ですわ」

 

 男は雷に打たれたように硬直した。

 

 彼の強迫観念。何もかもが正常に、完璧に動かなければ気が済まないという呪い。

 

 過去の担当ウマ娘たちを恐怖させ、心を折ってきたその病的なまでの視線。

 

 それを、目の前の貴婦人は「最高の踏み台」と呼んだ。自分の強大な力に耐えうる、唯一無二の頑強な土台だと。

 

「世界は不完全ですわ、トレーナー」

 

 ジェンティルドンナは、囁くように告げた。

 

「レースには常にノイズが溢れている。天候、バ場、ライバルたちの不確定な挙動。貴方が忌み嫌う『不完全』が、ターフには満ち満ちている。だから貴方は……とても苛立つのでしょう? 不完全にレースを走るウマ娘たちが、気に喰わないでしょう?」

 

「……あ、ああ……」

 

「ならば、私の専属となりなさい。貴方のその病的なまでの観察眼で、狂気とも言える完璧主義で、私に『絶対的な完璧』を要求し続けなさい」

 

 彼女はスッと右手を差し出した。

 

「貴方が見出した全ての不完全を、私がこの足で蹂躙し、力でねじ伏せ、この世で最も美しい『完全なる勝利』へと昇華して差し上げますわ。……貴方の呪いは、今日からこの私が統べるのです」

 

 差し出された、白く細い、しかし規格外の力を秘めたその手。

 

 男は、息を呑んだ。

 

 胸の奥底で燻っていた火種が、ガソリンを注がれたように爆発的に燃え上がるのを感じた。なぜならば、彼の要求する狂気を、彼女は正面から受け止め、笑って打ち返してくるのだから。

 

 男の口の端が、数年ぶりに、深く、深く吊り上がった。

 

「……後悔するなよ。俺の担当になったからには、俺の要求は、昨日よりもさらに跳ね上がるぞ。お前の覇気すら計算式に組み込んで、二度と壊せないほどの分厚い『完璧の壁』を設計してやる」

 

「ふふっ。望むところですわ。その壁ごと、貴方を世界の頂点へ連れて行って差し上げます」

 

 男は、差し出されたその手を、力強く握り返した。

 

「……よろしく頼む、ジェンティルドンナ」

 

「ええ。よろしく頼みますわよ、私のトレーナー」

 

 こうして、異常なまでの完璧主義という呪いを持つ男と、その呪いすら己を飾る装飾品として従える絶対女王の、伝説となる契約が結ばれた。

 

 散らばった紙屑だらけの不完全な部屋の中で。二人の間に交わされた契約だけは、紛れもなく『完璧』な輝きを放っていた。

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