ウマ娘ストーリー・another   作:灯火011

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第5話『凡者の憂い、覇者の歩み』

「……ストップ」

 

 初夏の陽射しが照りつけるトレセン学園のメインコース。無機質で、一切の感情を排した男の声が、拡声器を通してターフに響き渡った。

 

「第2コーナー出口、左脚の蹴り出しが要求値より0.03秒遅い。それに伴い、ストライドが規定の215センチから2センチ縮んでいる。……集中しろ。たった2センチのノイズが、最終直線でのコンマ1秒の致命傷になる。やり直しだ」

 

 周囲のトラックで練習をしていた他のチームのウマ娘やトレーナーたちが、思わず顔を見合わせ、ドン引きしたような視線を向けてくる。

 

 ストップウォッチ一つ、目視のみでコンマ以下の秒数と数センチの誤差を指摘する異常な観察眼。そして、一切の妥協を許さず、機械のように「やり直し」を命じる冷酷さ。

 

 だが、その狂気的な要求を突きつけられた当の本人――ジェンティルドンナは、不満の声を上げるどころか、優雅に息を整えながら涼しい顔でスタートラインへと引き返していく。

 

「ええ。確かに今のは、ターフの僅かな凹凸に気を取られ、踏み込みが甘くなりましたわ。……次は完璧に揃えて差し上げます」

 

「当然だ。俺の計算式に例外はない。……スタート」

 

 再び、爆発的な脚力でターフを蹴り上げるジェンティルドンナ。その圧倒的なストライドと、芸術的なまでに無駄を削ぎ落とされたフォームは、見ている者たちの息を呑ませるほどの美しさを放っていた。

 

 だが、それを指導するトレーナーの目には「美しさ」など映っていない。彼の瞳が追っているのは、ただひたすらに『完全なる物理法則の体現』のみだ。

 

 

 専属契約を結んでから数週間。

 

 二人のトレーニング風景は、学園内でもすっかり「異様ではあるがいつもの光景」として認知され始めていた。あまりにも厳格すぎる檻を作る男と、その檻のギリギリまで体を膨張させ、内側から完璧に満たしてしまう怪物。それはもはや、指導という名の『異常なパズル』のようだった。

 

 数セットの過酷な修正作業を終え、本日のメニューが完了する。

 

「……今日はここまでだ。帰ってアイシングをしておけ。俺は今日の数値を弾き直す」

 

 タブレットに視線を落としたまま、男はジェンティルドンナの方を見向きもせずに踵を返した。

 

 労いの言葉一つない。だが、ジェンティルドンナもそれを求めてはいなかった。

 

「貴方の計算、明日までにどこまで進化しているか楽しみにしておりますわ」

 

 と、背中に投げかけ、自らはクールダウンのためにターフの脇を歩き始めた。

 

 その時だった。

 

「あの……ジェンティルドンナさん」

 

 ふいに声をかけられ、ジェンティルドンナが視線を向ける。そこには、少し不安げな表情を浮かべた一人のウマ娘が立っていた。ジェンティルドンナよりも上級生。どこか儚げで、しかし確かにターフを駆け抜けてきたアスリートの筋肉を持つ少女。

 

「……何かご用かしら?」

 

「あ、急にごめんなさい。私……その、彼の、前の担当ウマ娘、です」

 

 先輩ウマ娘の言葉に、ジェンティルドンナは微かに目を細めた。男が過去に何人もの担当を抱え、そしてその全員が彼の異常な完璧主義に耐えきれず離れていったことは知っている。目の前の彼女も、その一人というわけだ。

 

「……彼の指導風景、ずっと見ていました。相変わらず……ううん、以前よりもさらに厳しく、機械みたいに細かい要求ばかりで……」

 

 先輩ウマ娘は、ジェンティルドンナの汗ばんだ顔を痛ましそうに見つめた。

 

「あの人は、決して悪気があるわけじゃないんです。ウマ娘を勝たせたいという思いは、たぶん誰よりも強い。……でも、あの人の目には、私たちが『数字』にしか見えていない。少しでも計算から外れると、直るまで同じことを繰り返させる。息が、詰まるんです」

 

 彼女の声には、確かな実感がこもっていた。走る喜び。風を切る楽しさ。ライバルと競り合う熱さ。

 

 そういった感情の全てを「不要なノイズ」として切り捨てられ、ただひたすらに完璧なフォームとタイムだけを要求され続ける日々。それは、才能ある若きウマ娘の心をへし折るには十分すぎるほどの冷たさだった。

 

「だから、ジェンティルドンナさん。……貴女は凄い才能を持っている。でも、あまりあの人の言葉を全て受け止めようとしないで。無理に合わせていたら、いつか心も体も、貴女自身の走りの形すら、壊れてしまうわ」

 

 それは、紛れもない善意からの忠告だった。かつて自分が押し潰された「完璧という名の呪い」から、目の前の才能あふれる後輩を救おうとする、純粋な優しさだった。

 

 しかし。

 

「ふふっ……」

 

 ジェンティルドンナの口から漏れたのは、銀鈴を転がすような、あまりにも場違いな笑い声だった。

 

「え……?」

 

 呆然とする先輩ウマ娘を前に、ジェンティルドンナは姿勢を正し、王者の風格を纏いながら優雅に微笑んだ。

 

「忠告、感謝いたしますわ。ですが……ご心配には及びません」

 

 ジェンティルドンナは一歩踏み出し、先輩ウマ娘と真っ直ぐに視線を合わせた。その瞬間、先輩ウマ娘は思わず息を呑んだ。ジェンティルドンナの瞳の奥底で燃え盛る、決して消えることのない暴力的なまでの『熱』。それは、男の冷徹な計算式に縛り付けられてなお、微塵も失われていない圧倒的な『覇気』だった。

 

「心が折れる? 壊れる? ……ふふ、バカげたことを。私が、誰だと、お思いで?」

 

 ジェンティルドンナの放つプレッシャーに、先輩ウマ娘は思わず半歩後ずさった。

 

「彼の提示する『完璧』は、確かに重く、息苦しいものでしょう。常人であれば、その異常な要求に耐えきれず、自ら崩れ去っていく。……ええ、彼が貴女たちを壊したのではありません。貴女たちの器が、彼の要求する『完璧』の質量を支えきれず、勝手に砕け散っただけのこと」

 

 冷酷なまでの事実の宣告。「貴女は凡人だっただけだ」と、面と向かって突きつけられたに等しい言葉。だが、ジェンティルドンナの言葉には、他者を嘲るような卑屈さは一切なかった。ただ純粋に、絶対的な真理としてそれを語っていた。

 

「私には、彼が弾き出す『完全な理論値』という極上の設計図が必要ですの。私が持つこの有り余る力を、ただの暴力ではなく、最も美しく、最も恐ろしい『完璧なる勝利』へと変換するための雛型として」

 

 ジェンティルドンナは、男が歩き去っていったデータルームの方向へ、愛おしむような、あるいは挑戦的な視線を向けた。

 

「あの男の呪いは、私を閉じ込める檻にはなり得ません。私が頂点へ登り詰めるための、絶対に崩れない『玉座の土台』です。……ですから先輩。同情など無用ですわ」

 

「……」

 

 先輩ウマ娘は、何も言い返せなかった。理解してしまったのだ。目の前にいるウマ娘が、自分たちのような「普通のアスリート」とは根底から違う生き物であるということを。

 

 あの息の詰まるような指導を、彼女は「極上の設計図」と呼んだ。自分の才能という熱で、あの男の冷え切った方程式を完全に溶かし、己の一部として取り込んでいる。

 

(ああ……そうか)

 

 先輩ウマ娘の胸の内に、小さな諦めと、そして大きな安堵が広がった。

 

 あの不器用で、狂気的で、完璧でなければ気が済まない男。そんな彼の狂気的な数字すらも力ずくでねじ伏せ、内側から支配してしまう……こんな「化け物」のような絶対女王でなければ、彼の隣を歩くことはできなかったのだ。

 

「……ごめんなさい。私の、出過ぎた真似だったみたい」

 

 先輩ウマ娘は、憑き物が落ちたように柔らかく微笑んだ。

 

「彼のこと……よろしく頼むわね。ジェンティルドンナさん。……貴女になら、きっと彼に『完璧』の先を見せてあげられる」

 

「ええ。言われるまでもありませんわ」

 

 小さく手を振りながら立ち去る先輩ウマ娘の背中を、ジェンティルドンナは静かに見送った。その背中には、かつての挫折の影はなく、どこか清々しさすら漂っていた。

 

「……おい。そこで何を油を売っている」

 

 ふいに背後から声がした。振り返ると、トレーナールームに向かったはずのトレーナーが、眉間に皺を寄せながら立っていた。手には、真新しいボトルのスポーツドリンクが握られている。

 

「あら、データの整理に行ったのではなくて?」

 

「……お前の本日の発汗量とミネラル消費率を計算したら、備蓄のドリンクでは塩分濃度が足りなかった。再調整したものを作ってきただけだ」

 

 ぶっきらぼうにボトルを押し付けてくる男。相変わらず、そこに「労い」の感情はない。ただ『数値を正常に戻すための作業』として、彼はそうしているだけだ。

 

 だが、ジェンティルドンナにはそれで十分だった。

 

「先ほどのウマ娘は、誰だ?」

「ふふ。ただの通りすがりの、親切な『凡者』ですわ」

 

 ジェンティルドンナはボトルを受け取り、優雅に一口飲んだ。完璧に計算された温度と塩分濃度が、火照った肉体の隅々にまで染み渡っていく。

 

「さて、それはそうとして。明日のメニューの設計は終わりましたの? 私の退屈を紛らわす、極上の計算式を用意してくださったのでしょうね?」

「……馬鹿にするな。お前の今日のデータを元に、さらに1ミリの無駄もない地獄を組み上げてやった。……覚悟しておけ」

 

「ええ。せいぜい期待しておりますわ、私のトレーナー」

 

 夕闇が迫るトレセン学園。

 

 狂気的な完璧主義者と、それを統べる絶対女王の歩みは、まだ始まったばかりであった。

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