トレセン学園の生徒たちにも、等しく休日は与えられる。
いかに強靭な肉体を持つウマ娘であれ、適切な休息(レスト)を挟まなければ、筋肉も神経も摩耗し、やがては破綻をきたすからだ。
それは、あの狂気的な完璧主義を患うトレーナーの計算式においても例外ではなかった。
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「……それで。なぜ俺がここにいる」
休日の市街地。
人混みで賑わう大通りの片隅で、トレーナーは心底不機嫌そうに眉間を揉み解していた。彼の服装は、普段のジャージ姿から一転して、無地のシャツに細身のスラックスというシンプルな装いだった。だが、シャツには1ミリのシワも存在せず、スラックスのセンタープレスは刃物のように鋭く折り目がつけられている。
一見すれば無個性でありながら、病的なまでに「整頓」された出立ちだった。
その隣で、ジェンティルドンナは涼やかな笑みを浮かべていた。彼女は、気品あふれるボルドーのワンピースに身を包み、街行く人々が思わず振り返るほどの圧倒的な存在感を放っている。
「愚問ですわね、トレーナー。休日のリフレッシュに、担当トレーナーが同行するのはよくあることでしょう?」
「俺の計算式には、お前の『自室での完全休養』が本日の最適なリカバリープランとして組み込まれていたはずだ。外出は想定外のエネルギーロスを生む」
「ええ。ですが、私の『精神的なリカバリー』には、美味しい紅茶と新しい靴が必要だと判断しましたの。貴方の計算式に、私の気まぐれという変数を追加しておきなさい」
有無を言わさぬ貴婦人の宣言に、男は深いため息をつき、手元のスマートウォッチで時刻を確認した。
「……わかった。だが、無駄な歩行は極力避ける。お前の今日の許容歩数は、この後のショッピングとティータイムを含めて残り4,820歩だ。それ以上は明日のメニューに微細な影響を及ぼす。……俺の後ろを歩け」
そう言うと、男はスッとジェンティルドンナの斜め前へと歩み出た。ここから、ジェンティルドンナにとって「驚愕の体験」が始まることとなる。
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休日の大通りは、カップルや家族連れでごった返していた。普通に歩けば、肩がぶつかり、立ち止まり、ストレスを感じるほどの人口密度である。
しかし。
「……右へ半歩。その先の信号はあと3.2秒で青に変わる。ペースを落とすな」
男の背中を追って歩き始めたジェンティルドンナは、一切の「引っかかり」を感じなかった。
男の目は、ターフにいる時と同じように、冷徹なセンサーと化していた。彼は前方から歩いてくる群衆の視線、重心の傾き、歩幅から「次の瞬間の動きのベクトル」を瞬時に計算し、自身とジェンティルドンナがすり抜けるための『完璧なルート』をリアルタイムで構築し続けていたのだ。
男がスッと左に動けば、そこに偶然のように道が開く。
男が歩幅をわずかに広げれば、目の前を横切ろうとした子供と絶妙なタイミングですれ違う。
彼が指示する通りに足を運ぶだけで、ジェンティルドンナは誰一人とぶつかることなく、一度も足を止めることなく、まるでモーゼの十戒のように割れた人混みの中を、一定のペースで優雅に歩き続けることができた。
(……なるほど。これは……)
ジェンティルドンナは、男の背中を見つめながら内心で感嘆していた。彼女の歩幅、現在の歩行速度、さらには「人混みを避ける」という精神的ストレスの排除。それら全てが完璧に計算された、狂気的とも言えるエスコート。
目的の高級ブティックでの買い物も、男の「異常性」がいかんなく発揮された。
ジェンティルドンナがヒールを試し履きした瞬間、男は横から「……右足のアーチへの密着度が、左に比べて0.5ミリ浮いている。お前の踏み込みの癖に悪影響が出る。別の木型のものを持ってこい」と店員に指示を飛ばし、完璧に足に馴染む一足を見つけ出してみせた。
そして、極め付けはティータイムだった。
買い物を終え、二人が訪れたのは、裏路地にひっそりと佇むアンティーク調の高級サロン。案内されたテーブルへとジェンティルドンナが優雅に腰を下ろそうとした、その時。
「待て」
男が鋭く制止した。
ジェンティルドンナが怪訝な顔をする間もなく、男はスッとテーブルの足元にしゃがみ込んだ。そして、自身のポケットから取り出した清潔なハンカチを素早く折り畳み、テーブルの右前脚の下に、ミリ単位の精度で滑り込ませた。
「……良し。座れ」
立ち上がった男に促され、ジェンティルドンナが椅子に座り、テーブルに腕を乗せる。
――微動だにしない。
「……テーブルの脚が、ほんの僅かにガタついていましたのね」
「1.5ミリの浮きがあった。あんな不安定な場所でティーカップを持てば、お前の指先に無意識の力みが生じる。……休日だというのに、そんな無駄なノイズを感じる必要はない」
男は事もなげに言い放ち、メニューを開いた。
「オーダー。ダージリンのセカンドフラッシュを二つ。ただし……この店内の現在の室温とエアコンの風向きを考慮すると、客席に運ばれてくるまでに表面温度が下がりすぎる。抽出時間を規定より12秒短くし、ポットの温度を通常より3度高く保った状態で持ってこい。……それから、彼女の分のスコーンのクロテッドクリームは、乳脂肪分の割合を……」
ギャルソンが青ざめた顔でメモを取るほどの、異常なまでの細かなオーダー。そこまでやるか、と思わずジェンティルドンナは顔を顰める。
しかし、数分後に運ばれてきた紅茶を一口含んだジェンティルドンナは、思わず、小さく感嘆の吐息を吐いた。
「……完璧ですわね」
香り、渋み、そして温度。
彼女の喉を通る液体は、この瞬間の彼女のコンディションに対して、寸分の狂いもなく最適化された『正解』の味だった。
カチャリ、と。ジェンティルドンナはティーカップをソーサーに戻し、向かいに座る男を見つめた。相変わらず、彼は無表情のまま、自分の分の紅茶を計算された手付きで飲んでいる。
「ほほほ……」
こらえきれず、ジェンティルドンナの口から優美な笑い声が溢れた。
「……何がおかしい。俺の計算に狂いがあったか」
「いいえ。狂いなどありませんわ、私のトレーナー」
彼女は頬杖をつき、面白くて仕方がないというように男を見つめた。
「貴方のその完璧主義という『呪い』……ターフの外でも、随分と役に立つものだと感心していたのです。まるで、王侯貴族に仕える完璧な執事のようですわね」
彼女を苛立たせる一切の不確定要素を、事前に感知し、排除し、最も快適な状態に修正する。
本人は「ノイズが気に喰わないから修正しただけ」と言うだろう。だが、結果として彼が作り出しているのは、ジェンティルドンナという圧倒的な存在が、何のストレスもなく振る舞える「完璧な空間」そのものだった。
「勘違いするな」
男は不機嫌そうに顔を背け、窓の外を見やった。
「俺は、お前を喜ばせるためにやっているわけではない。お前がここで無駄なストレスを抱えれば、明日の走りのフォームにコンマ1ミリの狂いが生じる。俺はそれが気に喰わないから、事前に物理的なノイズを排除しただけだ」
「ええ、ええ。無論、理解しています」
ジェンティルドンナは、スコーンにナイフを入れながら、優しく微笑んだ。
「その狂気的な執念こそが、私にとって何よりも心地よいのですから。……これからも、私のためにその異常な眼を光らせていなさいな」
「……言われずとも」
男は短く答え、再び紅茶に口をつけた。
休日のアンティークサロン。二人を包む空気は、異常な完璧主義の上に成り立っていながらも――いや、成り立っているからこそ、奇妙なほどの静謐さと、揺るぎない居心地の良さに満ちていた。
「さあ、残りあと2,400歩ほどでしたかしら? 紅茶を飲んだら、次は宝石店を冷やかして帰りますわよ。……完璧なルートの構築、任せましたわ」
「……お前の歩幅なら、あと410歩で入り口に到着するはずだ」
悪態をつきながらも、男の目は既に、店から宝石店までの最短かつ最も快適なベクトルを計算し始めていた。