ジェンティルドンナの衝撃的なデビュー戦から、数日が経過した。
他を全く寄せ付けない絶望的なまでの大差圧勝。その圧倒的なパフォーマンスは、スポーツ紙の第一面を総なめにし、トレセン学園内でも連日その話題で持ちきりとなっていた。
■
しかし、関係者たちの間で密かに、そして熱を帯びて語られていたのは、絶対女王の強さだけではない。彼女の傍らに立つ、感情の読めない無表情な男――あの「狂気的な完璧主義者」たるトレーナーの存在だった。
学園のトレーナー室が並ぶ廊下の片隅で、若手トレーナーがコーヒーの紙コップを手に、先輩であるベテラントレーナーに愚痴をこぼしていた。
「……信じられませんよ。あの男が、あのジェンティルドンナの専属になるなんて。そもそも、なぜ彼は今まで学園をクビになっていなかったんですか? 過去に何人もの担当ウマ娘をメンタル不調で潰してきた『曰く付き』でしょう?」
若手の言葉には、純粋な義憤と、少なからずの嫉妬が混じっていた。しかし、白髪混じりのベテラントレーナーは、静かにコーヒーを啜ると、呆れたように首を振った。
「お前、本当に何も見えていないんだな。……彼がウマ娘を『潰した』? 違うな。彼が過去に担当に求めたのは、純然たる『正しい物理法則の実行』だけだ。暴言を吐いたわけでも、理不尽な体罰を与えたわけでもない。ただ、1ミリのズレをコンマ1秒の遅れを、機械のように淡々と指摘し続けただけだ」
「それが精神的な苦痛を与えていたんじゃないですか!」
「だが、彼の提示したデータと修正案に、論理的な間違いは一つとしてなかった」
ベテラントレーナーの低い声に、若手は言葉を詰まらせた。
「学園がなぜ彼を手放さなかったか、教えてやろう。……学園の共有サーバーにある、過去十年の全レースのバ場状態、風向き、各ウマ娘のラップタイムの相関データ。あれを構築し、現在も一人で完璧にメンテナンスし続けているのは誰だと思う?」
「え……まさか」
「彼だよ。それに、コースの些細な陥没や、トレーニング機材のミリ単位の歪み。業者が気づくよりも早く、彼が全て一人で直している。彼にとってそれは『仕事』ではなく、ただ『気に喰わないノイズを排除する作業』に過ぎないのだろうがな」
ベテラントレーナーは、廊下の窓からターフを見下ろした。
「彼は指導者としては致命的に不器用で、異常だ。だが、彼の持つ『完璧を計測する眼球』と『ノイズを許さない頭脳』は、このトレセン学園という組織のインフラを陰で支える、精密機械そのものなんだよ。……能力が高すぎるが故の異端。だからこそ、学園側も彼を切れなかったのさ」
■
同じ頃、学園のカフェテリアでも、ウマ娘たちの間でジェンティルドンナと彼の話題が飛び交っていた。
「ねえ、聞いた? ジェンティルさんのデビュー戦、あの『氷のトレーナー』が直前でメニューを全部白紙に戻したらしいわよ」
「嘘でしょ!? あの数字のオバケみたいな人が、自分の計算式を捨てるなんて……」
ざわめく後輩たちをよそに、窓際の席で静かに紅茶を飲んでいたのは、かつて彼の元から離れた先輩ウマ娘だった。
(……ええ、驚くのも無理はないわね)
彼女は、窓の外のターフを圧倒的なストライドで駆け抜けるジェンティルドンナの姿を見つめながら、心の中で一人ごちた。
後輩たちは「氷のトレーナー」と呼んで恐れているが、彼から直接指導を受けた彼女たちの認識は少し違っていた。彼は、決して冷酷な悪人ではない。ただ、要求するラインが『異常なまでに高すぎた』のだ。
『右の踏み込みが浅い。あと3度深く。……やり直しだ』
『呼吸のタイミングがズレている。やり直し』
感情の乗らない声。ただひたすらに、完璧な型をなぞることだけを求められる日々。
彼に悪意がないことは、当時の彼女たちにも痛いほどわかっていた。彼はただ、ウマ娘が最も速く、最も美しく走るための「正解」を知っていて、そこへ導こうとしているだけだった。
だが、生身の肉体と感情を持つ普通のウマ娘にとって、一切の揺らぎを許さないその正解は、息が詰まるほど窮屈な『拷問』でしかなかった。
『ああ、私は彼の求める完璧な理想には、一生届かない』
そう悟った時、心が折れたのだ。彼が壊したのではなく、彼の提示した高すぎる壁を見上げて、自分たちから崩れ落ちた。
「……でも、彼女は違う」
先輩ウマ娘の呟きに、同席していた友人たちが「え?」と顔を上げた。
「ジェンティルドンナさんは、あの人の『完璧』という重圧を、笑って跳ね返せるだけの規格外の力を持っている。……ただ才能があるだけじゃない。あの息の詰まる狂気的な要求を『最高の踏み台』として楽しめる、本当の怪物なのよ」
窓の向こう。ジェンティルドンナがターフを駆け抜け、ストップウォッチを持ったトレーナーの元へ戻っていく。遠目にも、男が何かを厳しく指摘し、ジェンティルドンナが傲岸不遜に笑い返しているのがわかった。
その光景は、かつて自分が耐えられなかった地獄のはずなのに。今の彼女の目には、それが奇跡のように噛み合った、世界で最も美しいパズルのように見えた。
「……よかったわね、トレーナーさん。貴方の要求を、全部力でねじ伏せてくれる人に出会えて」
彼女の呟きは、誰の耳にも届くことなく、初夏の風に溶けていった。
■
そして。トレセン学園の中枢、理事長室。
「――見事! これぞまさに、我が学園が誇る素晴らしい才能の初陣に相応しい結果!」
理事長である秋川やよいは、扇子をバサリと開き、満面の笑みでデビュー戦の報告書を眺めていた。その対面で、秘書の駿川たづなが、苦笑交じりに書類を整理している。
「本当に、圧倒的でしたね。……でも、まさかあの彼が、専属トレーナーとして完全に機能するとは思いませんでした」
「ほう? たづなは、彼がウマ娘を導けないと思っていたのか?」
やよいの問いに、たづなは静かに首を振った。
「導けない、とは思いません。彼の観察眼とデータ構築能力が、学園でも一、二を争う天才的なレベルであることは存じ上げています。……ただ、彼のあの『ノイズを許さない完璧主義』は、生身のアスリートには毒が強すぎます。過去の数件の担当解除の例を見ても、彼をこのまま現場に置いておくのは危険ではないかと、以前から進言しておりましたが……」
たづなはそこで言葉を切り、やよいの顔を真っ直ぐに見つめた。
「理事長は、彼を学園から追放しませんでした。裏方のデータ管理や設備保守を任せながら、それでも『トレーナー』としての籍を残し続けた。……いつか、彼と噛み合うウマ娘が現れると、確信していたのですか?」
その問いに対し、やよいは扇子を口元に当て、目を細めた。その瞳には、普段の豪快さとは違う、数多の才能を見守ってきた教育者としての底知れぬ深淵が覗いていた。
「……たづなよ。鉄を鍛えるには、何が必要だ?」
「え……? それは、熱と、叩くためのハンマー、でしょうか」
「然り。だが、それだけでは足りん」
やよいは扇子を閉じ、窓の外に広がる広大なターフを指し示した。
「最も重要なのは、どれほど強く叩かれても決して砕けない、極めて硬く、重く、揺るぎない『金床(アンビル)』だ。……金床が脆ければ、いかに優れたハンマーで叩こうとも、鉄は美しい剣にはならん」
たづなはハッと息を呑んだ。
「ジェンティルドンナという才能は、あまりにも強大だ。生半可なトレーナーでは、彼女自身の持つ圧倒的な覇気と出力に振り回され、いずれ共に潰れてしまうだろう。彼女の力を正面から受け止め、制御し、完璧な形へと鍛え上げるには……」
「常軌を逸した精度と、絶対に妥協を許さない狂気的なまでの『硬さ』を持った金床……つまり、あのトレーナーが必要だった、と?」
「肯定! そういうことだ!」
やよいは再び扇子を広げ、高らかに笑った。
「我がトレセン学園は、あらゆる可能性を許容する学び舎! 指導の形が少々いびつであろうとも、そこに『真理』があるのなら、私はその才能を手放すような愚は犯さん! 彼は狂気に取り憑かれただの凡夫ではない。ウマ娘の究極の美しさを信奉しすぎるが故の、恐ろしい、呪いともいえるほどの完璧主義者だ。……ならば、その完璧という呪いを力で粉砕できる『絶対女王』が現れるまで、席を用意して待つのがトップの務めというもの!」
やよいの言葉に、たづなは深く一礼した。
天才たちの集う場所。そこは、一見すれば不要に思える異端の歯車すらも、来るべき奇跡の瞬間のために保存し続ける、恐るべき盤面だったのだ。
■
夕暮れ時のトレーニングコース。
全てのカリキュラムを終え、並んで歩く二人のシルエットが、茜色の空に長く伸びていた。
「……今日のラスト1ハロン。俺の計算ではあと0.05秒縮められたはずだ。お前、コーナーの出口で一瞬、ターフの切れ目を避けるために右足の踏み込みを浅くしたな」
手元のタブレットから目を離さず、男が不機嫌そうに指摘する。
数日前、自らの計算式を破棄してプランBを発動した彼だったが、それによって完璧主義が治ったわけではない。むしろ、「彼女の覇気すらも計算に組み込んだ、より高次元で狂気的な方程式」を構築するために、以前にも増して細かいノイズを指摘するようになっていた。
ジェンティルドンナは歩きながら、ふふっ、と優雅に笑った。
「あら、流石ですわね。見えていましたの。ですが、あのまま踏み込んでいれば、ターフの凹みで足首への負荷が規定値を2%超えていましたわ。貴方の指定した『完璧なコンディションの維持』を優先したまでです」
「……俺の計算上、あの程度の陥没ならお前の足首の靭帯は完全に耐え切れるはずだ。言い訳は聞かん。明日は右脚の重心移動の修正メニューを3セット追加する」
「ええ、もちろんそれで構いません。その代わり……明日のランチは、学園近くのあのフレンチを予約しておきなさい。もちろん、私の嫌いな食材は完璧に排除し、最も美味しい温度でサーブされるように手配すること。……貴方のその異常な完璧主義、余すことなく私のためだけに使っていただきますからね」
「……舌の肥えたワガママ娘め。俺は執事ではないと言っているだろう」
舌打ちしながらも、男の指は既にタブレットを操作し、明日のトレーニングメニューの再構築と同時に、フレンチレストランへの完璧なオーダーの計算を始めていた。
狂気的な完璧主義と、全てをねじ伏せる覇気。
相容れないはずの二つの異端は、今や互いを高め合う最強の矛と盾となり、トゥインクル・シリーズという果てしない戦いの海原へ、確かな足取りで進んでいくのだった。