ウマ娘ストーリー・another   作:灯火011

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第9話『絶対女王の設計図』

 吐く息が白く染まり始めた、ジュニア級の12月。

 

 クリスマスを目前に控え、街中が浮かれたイルミネーションに彩られる中、ジェンティルドンナはある高級レストランのVIPルームで、静かにグラスを傾けていた。

 

 

 グラスの中身はワイン――ではない。

 

 彼女の現在の血中アミノ酸濃度、疲労度、そして数日後に控えたレースに向けた内臓への負担。それら全てを完璧に逆算し、シェフに特別にオーダーされた、極上のコンソメスープである。

 

「……見事ですわ。塩分濃度も、舌触りも。私の今日のコンディションに、これ以上なく完璧に合致しています」

 

「当然だ。お前が今日消費したカロリーと、排出された塩分量を計算すれば、導き出される『最適解の味』は一つしかない。……不確定なノイズは、厨房に入る前に全て排除させてある」

 

 テーブルを挟んだ向かい側。

 

 完璧にアイロンがけされたスーツを見に纏い、一切の感情を排した声でそう言い放つのは、彼女の専属トレーナーであるあの男だ。彼の手元には、料理の味を楽しむためのグラスではなく、ジェンティルドンナの最新のバイタルデータが表示されたタブレット端末が置かれている。

 

 メイクデビュー戦での圧倒的な大差圧勝から数ヶ月。彼らは今、ジュニア級の総決算とも言える大舞台、『ホープフルステークス(G1)』を目前に控えていた。

 

 メインディッシュである、徹底的な温度管理のもとで火入れされた赤身肉のステーキを優雅に切り分けながら、ジェンティルドンナはふと、面白そうに目を細めた。

 

「それにしても。デビュー戦を終えて、次走がホープフルステークス。流石の私も、いきなりG1というローテーションには少しばかり驚きましたわよ?」

 

 通常、メイクデビューを勝利したウマ娘は、自己条件戦やG3、G2といった重賞レースを挟み、少しずつ経験と実績を積んでいく。ジュニア級の頂点を決めるホープフルステークスに、わずか1戦1勝のキャリアで挑むなど、常識的に考えれば「無謀」以外の何物でもない。

 

 だが、男はステーキを口に運ぶ手すら止めず、淡々と答えた。

 

「計算通りなら、造作もないことだ。……相手が何勝していようが、どれほどの重賞ウィナーであろうが関係ない。俺の導き出した理論値では、現在のお前の出力に追いつけるジュニア級のウマ娘は、この国のデータ上には存在しない」

 

 男はタブレットをスワイプし、一枚の『図表』を画面に映し出して、テーブルの中央へ滑らせた。

 

「それに。ホープフルステークスは、お前のキャリアにおいて『目標』ですらない。……単なる通過点だ」

 

 ジェンティルドンナはナイフを置き、その画面に視線を落とした。そして、そこに記されていた文字の羅列を見て、美しく長い睫毛を僅かに震わせた。

 

 それは、向こう二年間――彼女がシニア級を迎えるまでの、全レースの出走計画(ローテーション)だった。

 

「桜花賞、オークス、秋華賞……ティアラ三冠は当然として」

 

 彼女は、その後に続く信じられない文字を読み上げた。

 

「クラシック級での、宝塚記念。さらにはジャパンカップ。そして……シニア級春の、天皇賞・春(3200m)?」

 

 それは、トレセン学園の歴史を知る者であれば、誰もが「正気の沙汰ではない」と絶叫するであろう、狂気のロードマップだった。

 

 同世代の牝馬同士で争うティアラ三冠だけでも偉業であるにも関わらず、成長途上のクラシック級(3歳)の夏に、歴戦の古馬たちが集うグランプリ『宝塚記念』に挑むという異常性。

 

 さらには、スピードとパワーを誇る彼女に、極限のスタミナが要求される『天皇賞・春』という長距離の過酷な舞台まで用意されている。

 

「……私の適性距離は、中距離がベストのはずですわ。天皇賞・春の3200メートルは、論理的に考えれば『計算外』のノイズが多すぎるのではなくて?」

 

ジェンティルドンナの問いに、男は初めて視線を上げ、彼女の瞳を真っ直ぐに射抜いた。

 

「他のウマ娘であればな。だが、お前は違う」

 

 男の声には、熱など一切こもっていない。ただ、揺るぎない絶対の『真理』を語るような、恐ろしいほどの冷徹さと確信があった。

 

「お前の骨格、筋肉の質、心肺機能、そして何より……俺の計算式すらねじ伏せるその『覇気』。全てを変数として叩き込み、何万回とシミュレーションを重ねた。結果、俺の弾き出したお前の『完全なる器』は、その程度のレース数や距離で底が知れるような、安っぽい作りではなかった」

 

 男はタブレットを指で叩いた。

 

「このローテーションは、お前の肉体を極限まで使い切る、最も効率的で、最も美しく、最も過酷な『完璧な設計図』だ。……お前が俺の要求するコンマ1秒の修正、1ミリのフォームの改善を全てこなし、この通りに走れば、歴史上の全てのウマ娘を過去にする存在になれる」

 

 ジェンティルドンナは、黙って男の顔を見つめていた。常人であれば、この重圧に耐えきれず逃げ出すだろう。

 

 お前は機械になれ。俺の計算通りに走って、全て勝て。そう言われているに等しいのだから。

 

 だが、男の言葉はそれで終わりではなかった。

 

「……もし」

 

 男は低く、しかし、地の底から響くような重い声で言った。

 

「もし、この道筋が達成されなかった時。お前がどこかで敗北し、完璧な勝利が途切れた時。……それは、決してお前の力不足ではない」

 

「……」

 

「お前は完璧だ。だからこそ、負けたとすれば、それは俺の構築した方程式に欠陥があったということだ。レースの選択、日々のミリ単位の調整、当日のコンディション管理。……その全てにおいてノイズを見落とした、俺の責任だ」

 

 男は、自らの『狂気的な完璧主義』の矛先を、他でもない自分自身に突きつけていた。

 

 ウマ娘の敗北を、ウマ娘のせいにしない。

 

 天候のせいにも、バ場のせいにも、運のせいにもしない。

 

 世界で最も美しい彼女の走りに泥がついたなら、それは全て、完璧な設計図を描けなかった『自分という金床の脆さ』のせいであると、彼は断言したのだ。

 

「……全ての責任は、俺が負う」

 

 VIPルームの静寂の中、その言葉だけが重く、そして熱く響き渡った。

 

 ジェンティルドンナは、ゆっくりと目を閉じた。

 

 そして、数秒の後。

 

「ふふっ……ふふふふっ! あははははっ!!」

 

 堪えきれないといった様子で、彼女の口から歓喜の笑い声が弾けた。それは、高級レストランには不釣り合いなほどに大きく、獰猛で、王者の覇気に満ちた笑いだった。

 

「素晴らしい……! ええ、本当に素晴らしいですわ、私のトレーナー!」

 

 彼女は立ち上がり、テーブル越しに身を乗り出して、男の顔を至近距離から見据えた。その瞳の奥では、どんな宝石よりも眩い、圧倒的な力への渇望が燃え盛っていた。

 

「私の敗北は、全て貴方の責任。……なんと傲慢で、なんと頼もしい言葉でしょう。普通なら、重圧で胃に穴が空いて逃げ出すところですわよ?」

 

「……俺は、俺の計算を疑わない。狂いが生じるなら、俺が俺の腕を切り落としてでも計算式を書き換える。それだけだ」

 

「ええ、その意気ですわ!」

 

 ジェンティルドンナは、男のタブレット端末を指先でなぞった。狂気のローテーションが描かれた、彼女の覇道。

 

「よろしい。貴方がそこまで己の頭脳に命を懸けるというのなら……私は、ただターフで『暴力的なまでの完璧』を体現するだけで済みますわね」

 

 彼女は優雅に微笑み、再び席に戻ってグラスを持ち上げた。

 

「貴方が泥を被る日など、永遠に来ません。貴方の組んだ完璧な設計図の上で、私が一切のノイズを力で粉砕し、全てを蹂躙して差し上げます。……まずは手始めに、今週末のホープフルステークス。私の覇道への最初の生贄ですわね」

 

 男は微かに目を細め、自身のグラスを手にした。

 

「……当然だ。計算通りなら、後続に5バ身以上の差がつく。1ミリの狂いも許さんぞ」

 

「ふふ。計算の『上』をいって差し上げますわ」

 

 澄んだグラスの触れ合う音が、密室に響いた。

 

 

 狂気的な完璧主義の呪いを抱えた男。

 

 その呪いすらも、己の玉座を飾る最高の装飾品として愛する絶対女王。

 

 二人の間には、もはや「指導者と生徒」などという生温い関係は存在しなかった。あるのは、己の全てを懸けて完璧な『器』を作り上げる職人と、その器に己の圧倒的な『力』を注ぎ込み、世界を制覇しようとする怪物の、血の通った強烈な共犯関係だけである。

 

 彼らの紡ぐ恐るべき覇道は、冷たい冬の空気すらも焼き尽くすほどの熱を帯びて、今、最初のG1の舞台へと繋がっていくのだった。

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