「……非効率極まりない。今日の午後はお前のストライドにおける足首のバネの収縮率を、映像データからフレーム単位で見直す予定だったはずだ」
都内の超高級ホテル、その最上階にある完全貸し切りのスイートルーム。
床に敷き詰められた分厚いペルシャ絨毯の上を歩きながら、男はひどく不機嫌そうに舌打ちをした。彼の服装は、学園が用意した一張羅のスーツだが、相変わらず1ミリのシワも許さない病的なまでの着こなしである。
その隣を歩くジェンティルドンナは、豪奢なイブニングドレスに身を包み、涼しい顔で微笑んでいた。
「そう文句を言わないでちょうだい。私の『
「……フン。お前のその口調、俺の言い回しが感染ってきているぞ」
男は悪態をつきながら、重厚なマホガニーの両開きドアの前に立った。黒服の屈強な男たちが恭しく頭を下げ、ゆっくりと扉が開かれる。
その瞬間。部屋の中から、物理的な質量すら伴っているのではないかと錯覚するほどの、途方もない『重圧』が押し寄せてきた。
■
「よく来たね、我が愛娘。そして……」
部屋の奥、重厚な革張りのソファに深く腰掛けていたのは、初老の紳士だった。
仕立ての良いスリーピースのスーツ。白髪混じりの髪をオールバックに撫でつけ、手には葉巻が握られている。彼こそが、ジェンティルドンナという絶対女王をこの世に生み出し、育て上げた父親だった。彼がゆっくりと視線を動かし、男を捉えた瞬間、室内の空気が氷点下まで凍りついたように錯覚した。
「……君が、ジェンティルのトレーナーか」
声は決して荒げていない。
だが、その一言には、数多の人間を支配し、這いつくばらせてきた絶対的な権力者の覇気が宿っていた。ジェンティルドンナの持つ覇気が「全てを薙ぎ払う暴風」だとするなら、父親のそれは「全てを押し潰す万力」だ。普通の若手トレーナーであれば、この視線を浴びただけで膝が震え、目を逸らしていただろう。
「お初にお目にかかります。ジェンティルドンナの指導を担当しております」
しかし男は、顔色一つ変えなかった。畏縮するでもなく、虚勢を張るでもなく、ただ『ターフの芝の反発係数を計測する時と全く同じ、無機質な目』で父親を見つめ返した。
「……」
父親の目が、微かに細められた。自分の威圧に全く動じないこの男を、品定めするように全身を舐め回す。
「単刀直入に聞こう。……君の評判は、私の耳にも届いている。過去に何人もの担当ウマ娘を、その厳しすぎる指導で潰してきたそうだな。ウマ娘を数字としか見ず、機械の歯車のように扱う『氷の男』だと」
父親は葉巻の煙をゆっくりと吐き出し、ソファに深く背を預けた。
「ジェンティルドンナは、我が一族の最高傑作だ。決して傷をつけてはならない、完璧な至宝。……君のような壊れた指導者に、私の娘を預ける理由がどこにある? 彼女のキャリアに傷がつく前に、今すぐ契約を解除し、身を引くべきではないかね?」
それは、提案の形をとった『絶対の命令』だった。この場で首を縦に振らなければ、社会的な圧力をかけてでも彼をトレセン学園から放逐するという、暗黙の脅迫だった。
■
ジェンティルドンナは、少し離れた席から紅茶のカップを手に取り、面白くて仕方がないというように目を輝かせていた。
(さあ、どう出ますの? 私のトレーナー)
圧倒的な権力と威圧の板挟み。その中で、男は――ふっと、小さくため息をついた。
「……何か、反論があるかね?」
「ええ。認識に致命的なエラーが二つあります。
その呼び方に、父親の眉がピクリと動いた。
「一つ。俺は彼女を機械の歯車などとは思っていません。むしろ、逆です」
男は、一切の感情を排した声で、しかし絶対に譲れない真理として断言した。
「機械には『限界値』がある。設計図以上の出力は絶対に出ない。……ですが、彼女は俺の引いた限界値という完璧な設計図を、常に力で叩き壊し、さらにその上の領域へと踏み込んでいく。彼女は機械などというちっぽけな枠には収まらない、規格外の怪物です。だからこそ、俺は常に彼女に壊されるための『完璧で強固な檻(メニュー)』を狂気的に再計算し続けなければならない。……彼女を機械扱いなどしていたら、俺の計算式は三日で破綻します」
父親は、言葉を失った。この男は、娘を恐れるでもなく、神格化するでもなく、ただ『己の計算式を破壊し続ける最大の変数』として、狂気的なまでの執着を向けている。
「そして、二つ目ですが」
男は一歩、父親の座るソファへと歩み寄った。黒服たちが色めき立つが、父親がそれを片手で制止する。男の視線は、父親の威圧感など全く気にする様子もなく、ただ『ある一点』を凝視していた。
「……先ほどから、非常に気に喰わないノイズがあります。貴方のそのネクタイの結び目(ノット)の中心が、左に3ミリほどズレている。そのせいで、スーツのラペルの左右のバランスが崩れ、視覚的な安定感が著しく損なわれている」
「……な、何?」
「さらに、葉巻を吸う際の呼吸が浅い。右肩がわずかに下がっているところを見ると、最近、右腰に軽度の疲労が蓄積しているはずだ。その状態でソファーに深く座りすぎれば、骨盤の歪みが悪化し、歩行時のストライドに悪影響が出る」
男は、呆れたように首を振った。
「よろしいか? 彼女は、ジェンティルドンナは完璧だ。俺が全てを懸けて、1ミリの狂いもなく最適化している。……だというのに、彼女の『創造主』である貴方が、そんな不完全でノイズだらけの姿を晒しているというのは、いささか滑稽ではありませんか?」
――静寂。
VIPルームの空気が、完全に停止した。日本の政財界に多大な影響力を持つ男に向かって、ただの中堅トレーナーが「ネクタイがズレている」「姿勢が不完全だ」と、ダメ出しを下したのだ。
黒服たちの顔から血の気が引く。だが、一番驚いていたのは、他でもないジェンティルドンナだった。
(……この男、私の父親の覇気よりも、『ネクタイの3ミリのズレ』の方を重大なエラーだと認識していますのね……!)
権力も、威圧も、彼にとっては意味を持たない。
彼が恐れ、苛立つのは、純粋な『物理的な不完全さ』だけ。この男の完璧主義という狂気は、権力者の覇気すらも「計算式の外にある無駄な要素」として無視してしまうほどに、深く、分厚いのだ。
数秒の、永遠にも似た沈黙の後。
「……くっ」
父親の肩が、微かに震えた。
「くくくっ……はーっはっはっはっはっ!!」
突如として、父親は腹の底から、豪快な笑い声を上げ始めた。あまりの笑いっぷりに、黒服たちが呆然と顔を見合わせる。
「……何か、計算違いのおかしなことを言いましたか」
「いや! いや、素晴らしい! 傑作だ!」
父親は笑い涙を指で拭いながら、自分のネクタイの結び目をスッと直し、背筋を正した。
「私の放つ威圧に怯える者は星の数ほどいた。媚び諂う者も、虚勢を張って対抗しようとする者もいた。……だが、私の言葉を完全に無視して『ネクタイが3ミリズレている』と説教をしてきた阿呆は、私の人生で君が初めてだよ!」
父親は立ち上がり、男の前に立った。そして、その分厚く大きな手で、男の肩をガシィッと掴んだ。
「なるほど。これほどの異常者でなければ、我が娘の隣は務まらんというわけだ。……ジェンティルが君を選んだ理由が、痛いほどによくわかったよ」
「過大評価です。俺はただ、俺の目の前にあるノイズを修正しただけですから」
「その減らず口もいい。……いいだろう、トレーナー君。私の最高傑作の全てを、君のその狂った頭脳で、計算し尽くしてみせたまえ。……もし彼女に傷一つでもつければ、ただでは済まさんぞ」
「ご心配なく」
男は、父親の目を見据え、氷のように冷たく、しかし絶対の自信を持って言い放った。
「彼女に傷がつくとしたら、それは俺の計算式が敗北した時だけです。……そして、俺の方程式は、決して狂わない」
その堂々たる宣言に、父親は満足げに深く頷いた。
「……ふふっ」
一部始終を見届けていたジェンティルドンナは、立ち上がり、男の隣へと歩み寄った。そして、父親に向かって誇らしげに胸を張る。
「おわかりいただけましたか、お父様? 彼は私が選んだ、世界で最も強固で、最も厄介な金床(アンビル)です。私の暴力的なまでの力を、1ミリの狂いもなく受け止めてくれる、最高の相棒なのです」
彼女は男の腕に、そっと自分の腕を絡ませた。
「さあ、お父様への挨拶も済みましたし、帰りましょうか。明日のメニューの再計算が残っているのでしょう?」
「……ああ。お前がここで無駄なカロリーを消費したせいで、明日の朝食の糖質バランスを0.4パーセント再調整しなければならなくなった。全く、非効率な」
文句を言いながらも、男は抵抗することなくジェンティルドンナに腕を引かれ、部屋を後にしようとする。
「あ、そうだ。トレーナー君」
背後から、父親が声をかけた。
「先ほど、私のことを『お義父様』と呼んだな。……あれは、そういう意味で受け取っていいのかね?」
その問いに。
男は足を止め、振り返ることなく、淡々と答えた。
「俺は、彼女の走りに人生の全てを懸けると決めました。……俺の計算式において、彼女以外のウマ娘のデータを処理する余分なメモリは、未来永劫、一メガバイトたりとも存在しません。それだけのことです」
バタン、と。重厚な扉が閉まり、二人の姿が消える。
後に残されたVIPルームで、父親は再び自分のネクタイに触れ、ふっと口角を上げた。
「……本当に。とんでもない男を捕まえてきたものだ、我が娘は」
創造主である父親ですら手綱を握りきれなかった絶対女王。彼女が自らの意志で見つけ出した「狂気的な完璧主義者」との歩みは、もはや誰にも止めることはできない。
彼らがトレセン学園の常識を、そして日本レース史の歴史を完全に書き換えるまで、あと僅かのことであった。