ティアラ三冠。
桜花賞、オークス、そして秋華賞。ティアラ路線のウマ娘に許された三つの至宝を、ジェンティルドンナはその圧倒的な力で全て手中に収めた。
学園の歴史に刻まれた偉業、降り注ぐ喝采。誰もが彼女を「絶対女王」と呼び、その覇道に平伏していた。
秋華賞から数日。学園内を歩くジェンティルドンナの足取りは、いつにも増して軽やかで、誇らしげだった。
「……ふふ。さて、あの偏屈なトレーナーは、私の三冠達成にどのような『修正案』を用意しているのかしら」
彼女は、勝利の余韻に少しばかり浮かれた気分で、いつものトレーナー室のドアを開けた。今日は、レースの微細なデータ分析と、来たるジャパンカップへ向けた「完璧な」調整プランが提示されるはずの日だ。
しかし。
「――失礼しますわよ、トレーナー」
入室したジェンティルドンナは、微かな違和感に足を止めた。いつもなら、彼女がドアを開ける0.5秒前には顔を上げ、完璧に整頓されたデスクでタブレットを操作しているはずの男。
だが、今日の彼は、デスクに突っ伏したまま動かなかった。
「……トレーナー?」
呼びかけても、反応が鈍い。ジェンティルドンナは不審に思い、彼に歩み寄った。近づくにつれ、違和感は確信に変わる。
まず、部屋の空気が「不完全」だった。加湿器の水の補充が途切れている。デスクの上の資料が、ほんの数ミリだが乱雑に重なっている。
そして何より――彼のシャツの襟が折れ、ネクタイの結び目が無惨に緩んでいた。
「……あらあら。これは一体、どういう風の吹き回しかしら」
ジェンティルドンナは、彼の肩にそっと手を触れた。その瞬間、手の平から伝わってきた異常な熱気に、彼女は目を見開いた。
「……あ、あ……ジェンティル……か……?」
ゆっくりと顔を上げた男の瞳は、いつもの冷徹な光を失い、強い熱に浮かされて潤んでいた。顔は赤く、呼吸は浅い。
「貴方……何ですの、この熱は。ウマ娘の私よりも高いではありませんか」
彼女は反射的に彼の額に手を当てた。焼けるような熱さ。並の人間であれば、意識を保っていることすら不思議なレベルの超高熱だ。
「……問題、ない……。昨夜、お前の三冠レースの……全18頭の全ハロンのラップ相関を……再計算して……ノイズを……」
「問題は大ありですわ! 計算など後回しになさい!」
ジェンティルドンナは、フラフラと立ち上がろうとする彼の肩を、強い、しかし壊さないように細心の注意を払った力で押さえつけた。
「……行かせて、くれ……。ジャパンカップの……完璧な……設計図を……」
「聞き分けのない方。貴方のその今の状態こそが、私のキャリアにおける最大の『ノイズ』ですわよ?」
彼女は有無を言わさぬ女王の威圧感で男を黙らせると、彼を抱きかかえるようにして、部屋の奥にある休息用のベッドへと運んだ。ウマ娘の腕力をもってすれば、成人男性を運ぶなど赤子の手を捻るより容易い。
「安心していいのよ。貴方は私のパートナーなのです。……こういう時ぐらいは、私にその身を委ねてしまいなさいな」
ジェンティルドンナは、彼をベッドに横たえ、靴を脱がせ、毛布を丁寧にかけた。完璧主義の彼が、自分の乱れた姿を晒し、他人に介抱されることをどれほど屈辱に思うかは知っている。だが、今の彼に拒否権など存在しなかった。
■
彼女は濡らしたタオルを用意し、彼の熱い額にそっと置いた。氷のように冷たいタオルが触れた瞬間、男は小さく吐息を漏らし、少しだけ表情を緩めた。
「……すまない、ジェンティル……。俺としたことが……体調管理の……計算を誤った……」
「ええ、本当に。貴方のその完璧主義が泣いていますわよ」
ジェンティルドンナは、ベッドの脇に椅子を引き、彼の顔を覗き込んだ。
少しだけ、苦笑が混じる。
いつも自分に「1ミリのズレも許さない」と豪語している男が、こうして熱に浮かされて弱りきっている姿。それは、彼女にとってひどく新鮮で、そして不思議と愛おしく感じられる光景だった。
しばらくの間、静寂が室内を包んだ。規則的な彼の苦しげな呼吸音が、ジェンティルドンナの耳に届く。
やがて、男が掠れた声で、独り言のように呟いた。
「……本当におめでとう、ジェンティル」
「……」
「……お前の、三冠。……あの最終直線の、輝き。……すごく、美しかった」
「……」
ジェンティルドンナは、息を呑んだ。
彼がいつも口にするのは『完璧』『効率』『最適解』といった、無機質な言葉ばかりだった。
『美しかった』。
そんな主観的で、感情的で、非論理的な言葉を、彼が口にするのを初めて聞いた。
「……バカな人」
ジェンティルドンナは、仕方ないなと自嘲気味に微笑んだ。三冠の達成を、データや数字で評価されるよりも。こうして、熱に浮かされた彼の心から漏れ出た、一言の『美しかった』という言葉。
それが、どれほどの重賞タイトルよりも、今の彼女の胸を熱く満たしていった。
彼女は、ゆっくりと手を伸ばした。そして、ベッドに横たわる男の、汗に濡れた髪を優しく、慈しむように撫でた。
「……ええ。貴方がいたからこそ、私は誰よりも美しく輝けたのですわ」
彼女は、眠りに落ちようとする彼に向けて、いつもの傲岸不遜な女王の笑みではない、一人のパートナーとしての、心からの微笑みを向けた。
「おやすみなさい、私のトレーナー。……こちらこそ。私をここまで高く、美しく導いてくださって……ありがとうございます」
三冠の栄光に包まれた絶対女王は、眠る男の手をそっと握りしめた。
明日、彼が目覚めたら、またいつものように「1ミリのズレ」を指摘する、冷徹な完璧主義者に戻っているだろう。だが、この静かな部屋で交わされた言葉だけは、二人だけの、決して消えることのない真実の方程式として刻まれていた。