ウマ娘ストーリー・another   作:灯火011

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第2話:ターフの土煙と、銀色のバッジ

 高く澄み渡った秋の空から、心地よい日差しが降り注ぐ週末。

 

 トレセン学園の広大な敷地内に併設されたレース場では、月に一度開催される『模擬レース』の熱気があたりを包み込んでいた。

 

 

「各ウマ娘、スタートです!」

 

 乾いた電子音と共に、ジャージに身を包んだウマ娘たちが、一斉にターフへと飛び出していく。

 

 地響きのような足音と、観客席から湧き上がる歓声。模擬レースとはいえ、ここは日本最高峰の才能が集う場所だ。誰もが己の力を証明しようと、あるいは誰かの目に留まろうと、ギラギラとした闘志を剥き出しにして走っている。

 

 そのメインスタンドの片隅。

 

 喧騒から少し離れた最後列の座席で、ストップウォッチとバインダーを手にした一人の青年が、静かにコースを見下ろしていた。

 

(……やはり、前はハイペースになるか)

 

 機能的なトレセン学園の指定ジャージに身を包んだその青年――学園に赴任して間もない新任トレーナーである彼は、冷静な瞳でウマ娘たちの動きを追っていた。

 

 彼にはまだ、担当するウマ娘がいない。

 

 才能あふれる原石は学園内にいくらでもいる。圧倒的なスピードで他を置き去りにする者、天性のバネで軽やかに跳躍する者。他のトレーナーたちは、そうした分かりやすい「光」に群がり、こぞってスカウトの声をかけていく。

 

 だが、彼が探しているのは、ただ足が速いだけの天才ではなかった。

 

 自分の現在地を冷静に把握し、泥臭くとも決して勝負を投げ出さない、芯の強さを持った原石。己の走りを客観視できる知性を持ったウマ娘。

 

(ま、そんな都合のいい相手が簡単に見つかるはずもない、か)

 

 と、半ば諦めかけていた、その時だった。

 

(……ん?)

 

 彼の視線が、ハイペースで飛ばす先頭集団から少し離れた、中団のバ群の中でピタリと止まった。

 

 そこには、周囲の激しい位置取り争いに巻き込まれることなく、ひたすらに自身のペースを守りながら虎視眈々と前を伺う一人のウマ娘がいた。

 

 ふんわりとした特徴的なツインテール。

 

 決して派手なフォームではない。しかし、無駄な体力を一切消費せず、前のウマ娘が作る風よけ(スリップストリーム)を巧みに利用しながら、息を潜めるように走っている。

 

(あの独特な髪型と、あの走り……。まさか)

 

 先週末の夕暮れ。

 

 人気のない河川敷で、自身のバイクの四気筒エンジンの排気音に耳を傾け、淹れたてのコーヒーの香りに引き寄せられてきた、あの不思議な雰囲気を持った女の子。

 

「……彼女、トレセンのウマ娘だったのか」

 

 彼は思わず、小さく独り言をこぼしていた。

 

 私服姿でランニングをしていた彼女からは、トレセン学園の生徒特有の「選ばれたエリート」のような刺々しさは一切感じられなかった。だからこそ、ただの通りすがりの女の子だと思って、あんなに自然に話し込んでしまったのだ。

 

 レースは最終コーナーを回り、最後の直線へと差し掛かった。

 

 先頭集団が激しく鞭を入れ、ラストスパートをかける。その瞬間、中団で息を潜めていた彼女が、動いた。

 

(そこから行くか……!)

 

 バ群がばらけたほんの一瞬の隙、わずかに開いたインコースの隙間を縫うように、彼女が鋭く抜け出してくる。それは、圧倒的な脚力によるごぼう抜きではなく、コース全体の状況を完全に把握し、最もロスなく、最も確実に上位へ食い込むための、極めて理知的で泥臭いスパートだった。

 

「いっけえぇぇぇっ!!」

 

 観客席の歓声に混じって、彼女自身の気合の入った声が微かに聞こえた気がした。

 

 歯を食いしばり、顔を歪めながら、必死に前を追う。河川敷で見せたのんびりとした笑顔からは想像もつかない、勝負師としての烈火のごとき執念だ。

 

 ――結果は、3着だった。

 

 先頭でゴールテープを切った派手な天才ウマ娘に、観客の視線と称賛が集中する。

 

 だが、青年のストップウォッチとバインダーには、見事なペース配分とコース取りで3着に滑り込んだ、彼女のラップタイムがびっしりと書き込まれていた。

 

「……見つけた」

 

 彼は、バインダーをパタンと閉じると、誰よりも早くスタンドの階段を降りていった。

 

 

「はぁーっ……、ふぅ……っ」

 

 レース後。コースのスタンド裏手にある日陰のベンチで、ナイスネイチャは首にタオルをかけ、火照った身体を休ませていた。

 

「んん〜っ……。ま、こんなもんですよねぇ」

 

 手に持ったスポーツドリンクのボトルを呷りながら、一人ごちる。

 

(やっぱり、一番前を走っていた子たちの才能は凄かったなぁ……)

 

 彼女は思う。最後にどれだけ完璧なタイミングで抜け出しても、もともと持っているエンジンの排気量が違うのだから、そう簡単に追いつけるものではない、と。

 

(あの輝きは、主役の子たちだけの特権。私みたいな名脇役は、今日も今日とて銅メダルが指定席ってわけです)

 

 悔しさがないわけじゃない。でも、自分の持てる力はすべて出し切った。あの展開で3着をもぎ取れたのだから、むしろ上出来だと自分を褒めてあげたいくらいだ。

 

(とりあえず、シャワー浴びてサッパリしたら、カフェテリアで大盛りの白米でもかきこもうかな。うん、疲れた身体にはやっぱり、パンよりお米のほうがガツンと来るし)

 

 そんな風に、レースの余韻をすっかり日常の食欲へとすり替えようとしていた、その時だった。

 

「や、この間はどうも」

 

 不意に、横から声が掛かった。

 

「……えっ?」

 

 聞き覚えのある、少し低くて、どこまでも穏やかな声。

 

 ネイチャが顔を上げると、そこには見知らぬ――いや、一度だけ顔を合わせたことのある人物が立っていた。

 

 黒いライディングジャケットを着ていないせいで、一瞬誰だか分からなかった。

 

 だが、その人懐っこい目元と、少し無造作にセットされた前髪は、間違いなく先週末、あの河川敷でコーヒーを淹れていた『バイク乗りのお兄さん』のものだった。

 

「えっ……ええっ!? バ、バイクのお兄さん!?」

 

 ネイチャは思わずベンチから立ち上がり、目を丸くして彼を指差した。

 

「なんで……なんでここにいるんですか!? ここ、トレセン学園の生徒と関係者しか入れないエリアですよ!?」

 

「なんでって。……俺の、職場だからね」

 

 青年は苦笑しながら、自身が着ているトレセン学園指定のジャージの胸元を、ポンと指差した。

 

 ネイチャの視線がそこへ誘導される。

 

 そこには、秋の日差しを反射して銀色に輝く、『トレーナーバッジ』が誇らしげに付けられていた。

 

「ト、トレーナーさんだったんですか!?」

 

 ネイチャの顔が、一瞬にしてカァッと赤く染まった。

 

 ただの通りすがりの優雅な社会人だと思っていたのに、まさか自分と同じ学園の、しかもトレーナーだったなんて。

 

 河川敷での自分の態度はどうだっただろうか。失礼なことは言っていなかっただろうか。「なんか優雅だなぁって」なんて、馴れ馴れしく話しかけてしまった記憶が蘇り、ネイチャはタオルで顔の下半分を覆ってしゃがみ込みたくなった。

 

「うわぁ……なんか、すいません。私、ただの近所の女の子みたいな顔して、普通に話し込んじゃって……」

 

「いや、俺の方こそ名乗らなくて悪かったよ。休日のオフモードだったから、ついね」

 

 彼は全く気にした様子もなく、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。

 

「それより。……今日のレース、すごく良かったよ」

 

「え……?」

 

 思いがけない言葉に、ネイチャはタオルから顔を上げた。

 

「最初のハイペースな展開に巻き込まれず、自分のラップを正確に刻んでいた冷静さ。そして、最終コーナーで一瞬の隙を突いてインから抜け出した、あの勝負根性。……一番前を走っていた子よりも、俺は君の走りに目を奪われたよ。見事な善戦だった」

 

 彼の言葉には、お世辞や社交辞令のような薄っぺらさは微塵もなかった。

 

 ネイチャ自身がレース中に考えていたこと、実行しようとしていた泥臭い戦術を、彼はスタンドからすべて正確に見抜いていたのだ。

 

「あ……あはは……」

 

 ネイチャは、照れ隠しのように視線を彷徨わせた。いつもなら、

 

「いやいや、3着なんて脇役の定位置ですよ」

 

 と自嘲気味に返すところだ。けれど、彼のあの真っ直ぐで嘘のない瞳に向けられると、不思議とそんな卑屈な言葉が喉の奥でつっかえて出てこなかった。

 

 自分の走りを、こんなにも丁寧に見てくれて、理解してくれた人がいる。

 

 その事実が、汗ばんだ身体を通り抜ける秋風よりもずっと、ネイチャの胸の奥を心地よく満たしていった。

 

「……見られてたんですね。なんか、お恥ずかしい限りです」

 

「恥ずかしがるような走りじゃないさ。……ああ、そうだ。先週、河川敷で約束したよな。また時間があればって」

 

 青年は、少しだけ悪戯っぽく微笑みながら言った。

 

「今日はバーナーとケトルは持ってきてないし、外の風に吹かれながらってわけにはいかないんだけどさ。……どう? もしよかったら、俺の執務室で、コーヒー淹れようか?」

 

 その誘い文句に、ネイチャはパチクリと瞬きをした。

 

 ――トレーナーからの、執務室への誘い。

 

 それはつまり、トレセン学園においては「君をスカウトしたい」という明確な意思表示に他ならない。

 

(私みたいな、主役にはなれないモブキャラに。わざわざ声をかけてくれたんだ)

 

 どうしようか、と迷う素振りすら、今のネイチャには必要なかった。

 

 彼のその自然体で気負いのない誘い方が、河川敷で四気筒エンジンの音に惹きつけられたあの時のように、ネイチャの心のバリアをあっさりと、そしてひどく優しく解きほぐしてしまったからだ。

 

「……ふふっ」

 

 ネイチャは首にかけていたタオルを外し、いつもの少し斜にかまえた、けれど心の底から嬉しそうな笑顔を彼に向けた。

 

「外の風がないのはちょっとだけ残念ですけどね。……でも、お兄さんの淹れるコーヒー、すっごく美味しそうだったし」

 

 ネイチャは、一歩だけ彼の方へと歩み寄り、背中で手を組んで上目遣いに彼を見上げた。

 

「じゃあ、お言葉に甘えて。……ご相伴にあずかります、トレーナーさん」

 

「ああ。歓迎するよ、ナイスネイチャ」

 

 彼が初めて呼んだ自身の名前に、ネイチャの耳が嬉しそうにピクリと跳ねた。

 

 

 高く澄み渡った秋の空の下。

 

 重低音のバイクの排気音と、香ばしいコーヒーの匂いが偶然結びつけた二人の縁は、こうしてトレセン学園の執務室という新たな舞台へと繋がっていく。

 

 名脇役の少女と、穏やかなバイク乗りの青年による、ほろ苦くもどこまでも爽やかなサクセスストーリーの幕が、今、静かに上がり始めていた。

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