ウマ娘ストーリー・another   作:灯火011

20 / 25
第13話『完璧なる世界へ』

 新しい年が幕を開けた、一月の朝。

 

 凛とした冬の空気が、初詣の参拝客で賑わう境内に心地よい緊張感を与えていた。

 

 

「……計算外だ。この参拝客の密度、そして一人あたりの平均滞在時間。本殿に辿り着くまでに、お前の体温は確実に0.8度は低下する。防寒対策を一段階引き上げるべきだった」

 

 人混みの端で、ストップウォッチとスマートウォッチを交互に睨みつけながら、男は忌々しそうに呟いた。正月だというのに、彼はいつものように完璧にプレスされたスーツを纏い、マフラーの巻き方一つにもミリ単位のこだわりを見せている。

 

 その隣で、豪華な西陣織の振袖に身を包んだジェンティルドンナは、周囲の視線を独り占めにしながら優雅に微笑んだ。

 

「そう固いことを仰らないで。一年の計は元旦にあり、と言いますでしょう? 貴方のその『完璧な設計図』を、神仏にも見守っていただくのですわ」

 

「俺の計算に、神の加護などという不確定な変数を組み込むつもりはない。……行くぞ。今の列の動きを見る限り、北側の脇道から回り込めば、4分12秒の短縮が可能だ」

 

 男はそう言うと、いつもの「完璧なエスコート」を開始した。

 

 混雑する境内。人々が足をもたつかせ、肩をぶつけ合う中で、彼はまるで未来が見えているかのように淀みのないルートを選び出し、ジェンティルドンナを先導していく。

 

 彼女はその背中に守られるように歩きながら、改めて確信していた。この男の狂気的なまでの執念は、もはや一つの芸術の域に達しているのだと。

 

 

 無事に参拝を終え、人混みを離れた静かな場所で、二人は温かい甘酒を手に足を止めた。一口含み、その温度を「完璧だ」と独り言のように評価する男に向けて、ジェンティルドンナは静かに口を開いた。

 

「……トレーナー。私、次の目標を決めましたわ」

 

 男はタブレットを操作する手を止め、彼女の瞳を見つめ返した。

 

「天皇賞はキャンセル……次は、ドバイに行きたいですわ」

 

その言葉に、男は微かに眉を動かした。

ドバイ。メイダンレース場。世界中の超一流が集い、莫大な賞金と名誉を懸けて争われる、地球上で最も華やかで過酷な戦場。

 

「ジャパンカップを勝って、確信しましたの」

 

 ジェンティルドンナは、冬の陽光を背に受けて誇らしげに胸を張った。

 

「貴方の積み上げた計算、貴方の描く完璧な設計図は……既にこの国の枠には収まりきらない。世界という広大な舞台であっても、貴方の『呪い』は全てを支配し、私を勝利へと導くはずですわ」

 

 絶対女王からの、最大級の信頼の告白。かつて情熱を失い、学園の隅で「不完全なノイズ」を直すだけの日々を送っていた男の頭脳を、彼女は世界の頂点を獲るための武器として指名したのだ。

 

 沈黙が流れた。

 

 風が木々を揺らし、遠くで新年の鐘の音が響く。

 

 男は、観念したように深い、深い溜息を吐いた。

 

「……ドバイか。メイダンの芝の粘性、砂漠特有の急激な湿度変化、そして長距離輸送によるグリコーゲン消費の加速……。計算に入れなければならない変数が、国内の比ではないな」

 

 男はそうぼやきながらも、指先は既にタブレットの検索ウィンドウに「メイダンレース場 土壌成分データ」と打ち込み始めていた。

 

「無茶を言うウマ娘だ。お前という怪物のために、俺がどれほどの予備メモリを消費し、どれだけの夜を徹して方程式を組み直さなければならないか、分かっているのか?」

 

「ふふっ。それが貴方の悦びでしょう?」

 

 ジェンティルドンナは悪戯っぽく微笑み、男の顔を覗き込んだ。

 

 すると、男は不機嫌そうに歪めていた唇を、ふっと緩めた。それは、かつて熱に浮かされた時に見せたような、微かで、しかし強烈な自信に満ちた笑みだった。

 

「……まあ、いい。お前のランチのメニューを、栄養バランスと嗜好を1ミリの狂いもなく誂える作業に比べれば、世界の頂点を獲る計算など造作もないことだ」

 

「あら、それは聞き捨てなりませんわね。私のランチは、世界一のレースよりも複雑だというのですか?」

 

「事実だ。お前の気まぐれという非論理的な変数は、ドバイの気象条件よりも遥かに厄介だからな」

 

 男は、愉快そうに鼻で笑った。

 

「覚悟しておけ、ジェンティルドンナ。世界を相手にする以上、俺の要求はこれまでの比ではなくなるぞ。お前の細胞一つ一つの挙動まで、俺の設計図通りに動かしてやる」

 

「ええ、望むところですわ。その代わり、私の見たこともない景色を……世界で最も美しい『完璧な勝利』を、私に献上しなさい」

 

 新年の光の中で、二人は不敵な笑みを交わし合った。

 

 狂気的な完璧主義者と、それを統べる絶対女王。彼らの描く設計図は、今や日本という地図をはみ出し、遥か彼方の砂漠の地へと、真っ直ぐに、そして寸分の狂いもなく伸び始めていた。

 

 

 トレセン学園の象徴とも言える、本館最上階の理事長室。

 

 壁一面に設えられた巨大な窓からは、冬晴れの空の下、活気に満ちたターフが一望できた。

 

「――ついに、大輪の花が開いたか」

 

 理事長である秋川やよいは、ふうっと深い息を吐きながら、手元の分厚い書類をデスクに置いた。

 

 表紙には『ドバイ遠征特別予算および渡航計画書』と印字されている。

 

 作成者の欄に記されているのは、かつて学園の片隅で、備品のミリ単位のズレを直すことだけに執着していたあの「氷の男」――ジェンティルドンナの専属トレーナーの名前だった。

 

 パラパラとページをめくれば、そこに記されているのは単なる旅程表ではない。

 

 ドバイのメイダンレース場における砂漠気候の湿度変化、現地調達する飼料のタンパク質含有量の誤差修正、さらにはフライト中の気圧変化がウマ娘の三半規管とメンタルに与える影響まで、ありとあらゆる「不確定要素(ノイズ)」を完璧に数値化し、対策を講じた、狂気的なまでの分厚いシミュレーションデータだった。

 

「……素晴らしい。かつて自らの高すぎる理想に押し潰されかけていた男が、今や世界を計算し尽くそうとしている」

 

 やよいが満足げに扇子で口元を隠した時、コンコン、と静かで威厳のあるノックの音が室内に響いた。

 

「入れ!」

 

「失礼するよ、理事長」

 

 重厚な扉を開けて入ってきたのは、トレセン学園の生徒会長にして『皇帝』の異名を持つウマ娘、シンボリルドルフだった。彼女は生徒会からの報告書をやよいのデスクに提出すると、ふと、窓の外へ視線を向けた。

 

 そこには、奇妙な二人組の姿があった。

 

 ダートコースの端で、男が地面に這いつくばるようにして砂の温度と粘性を特殊な機器で計測している。その横で、ジェンティルドンナが呆れ半分、面白さ半分といった様子で彼を見下ろしていた。

 

「……相変わらず、常軌を逸した執念ですね。彼がメイダンレース場の砂の粒子サイズを国内で再現するため、自ら業者のトラックを運転して徹夜で砂を配合していたという噂は……どうやら本当らしい」

 

 窓枠に手をつき、ルドルフはどこか遠い目をして呟いた。

 

「肯定! 彼は国内のダートとドバイの土壌の反発係数の違いが『0.02パーセント』ズレているだけでも許せんらしい! 今朝など、学園の空調管理システムをハッキングしかけて、中東の湿度を擬似的に作り出そうとしていたところを止めさせたばかりだ!」

 

 やよいの豪快な笑い声に、ルドルフは静かに肩を竦めた。

 

「彼の卓越した頭脳と、献身とも言えるデータ収集能力には、深く敬意を表します。だが……」

 

 皇帝として、常に誰よりも気高く、完璧であろうとするシンボリルドルフ。

 

 あらゆるトレーナーが指導を夢見るその至高のウマ娘は、窓の外の狂気的な男を見つめながら、心底疲れたような、そしてどこか安堵したような声で言った。

 

「正直に申し上げます。……私でも、アレをトレーナーに迎えるのは、御免です」

 

 少しの冗談も混じっていない、本音の響きだった。

 

「だろうな!」

 

 バサァッ! と、やよいは勢いよく扇子を開き、ルドルフを指差した。

 

「皇帝たる君ですら、あの男の『1ミリのズレも許さない完璧主義の檻』に入れられれば、いずれ息が詰まるだろう! なぜなら、彼は君の威厳や、生徒会長としての立場や、これまでの実績など一切考慮せんからだ!」

 

 やよいは楽しげに語る。

 

「彼は『皇帝』を敬うことはない! ただ、走る際の重心のズレや、疲労による呼吸の乱れだけを機械のように指摘し続ける! 君がどれほど美しく勝利しようとも、彼の計算式からコンマ1秒でも外れれば、冷徹にやり直しを命じるだろう。……生身の心を持つ者にとって、それは精神を削り取る地獄に等しい!」

 

「……ええ。おっしゃる通りです。走る喜びも、誇りも、全て数字に還元されてしまう。あれに耐え切れるウマ娘など、トレセン学園とはいえ、存在しないと思っていました」

 

 ルドルフは、ターフで男の計測が終わるのを優雅に待っているジェンティルドンナを見つめた。

 

「ジェンティルドンナだからこそ、なのだ!」

 

 やよいの力強い声が、室内に響き渡る。

 

「あの息の詰まる狂気的な重圧を『心地よい』と笑い飛ばし、彼が用意した限界値という分厚い壁を、正面から叩き割れる彼女の途方もない力! アレがあって初めて、あの男の呪いは、世界をも切り裂く無敵の刃となる!」

 

「……劇薬と劇薬の、奇跡的な掛け合わせですね」

 

 ルドルフは、ふっと穏やかな笑みを浮かべた。

 

 自分には決して歩めない、理解すら及ばない異常な関係性。だが、あそこにいる二人が、トレセン学園の歴史において最も強固で、最も美しい絆で結ばれていることだけは、疑いようのない事実だった。

 

「あの二人を放逐せず、いつか噛み合う日が来ると信じて手元に置いていた貴女の慧眼には、恐れ入りますよ、理事長」

 

「はっはっは! 私はただ、特等席でこの最高のパズルが完成するのを待っていただけのこと! さあ、世界が震え上がる準備は整ったぞ!」

 

 やよいは窓の外に向けて、まるでこれから始まる世界規模の祝祭を歓迎するように、両手を大きく広げた。

 

「行け、ジェンティルドンナ! そして狂気の設計者よ! お前たちの描く完璧な覇道で、世界の度肝を抜いてこい!!」

 

 冬の青空の下。

 

 窓越しに向けられた理事長と皇帝からの熱いエールを知ってか知らずか、ジェンティルドンナは男から差し出された修正メニューのタブレットを受け取り、不敵で、最高に楽しそうな笑い声を上げていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。