砂漠の夜空を焦がすような、メイダンレース場の眩いカクテル光線。
世界最高峰のウマ娘たちが集う『ドバイシーマクラシック』。その最終直線は、ジェンティルドンナのこれまでの覇道において、かつてないほどの『苦境』であった。
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「……くっ!」
ジェンティルドンナの端正な顔が、メイダンレース場の最終直線で苦痛に歪む。
中東特有のまとわりつくような湿度。国内とは全く異なる、深く重い芝の粘性。そして何より、両脇から彼女を挟み込むようにプレッシャーをかけてくる、海外の歴戦の猛者たち。
圧倒的なパワーで蹂躙してきた彼女のストライドが、初めて伸びあぐねていた。
残り200メートル。先頭を走る欧州のチャンピオンとの差は、1バ身半。通常であれば、ここから彼女の暴力的な末脚が爆発し、全てを撫で斬りにするはずだった。だが、足が、重い。
(……乳酸値が、限界を超えている……!)
ターフの脇、最前列でタブレットを握りしめていた男は、画面に表示される絶望的な数字を見て歯噛みした。
男が数ヶ月かけて構築した『完璧な計算式』。
それは確かに、ジェンティルドンナの肉体を世界最高レベルにまで引き上げていた。しかし、ドバイという異国の地が持つ「不確定なノイズ」は、男の想定をコンマ数パーセントずつ、だが確実に狂わせていたのだ。
道中の見えない疲労。海外勢からの執拗なマークによる精神的ストレス。画面のシミュレーショングラフは、冷酷な結論を弾き出していた。
『推定着順、2着。逆転の確率は0.003%』。
物理法則が、彼女の敗北を告げている。これ以上の出力は、ウマ娘の肉体の限界が許さない。ここで無理をさせれば、彼女の足の細胞が破壊される。
「……っ」
男は、タブレットを握る手を小刻みに震わせた。
いつもなら、この結果を「俺の設計ミスだ」と冷徹に受け入れ、次へ向けての修正案を考え始めるだろう。来年こそ、1着をジェンティルドンナに、と考え始めていたことだろう。
だが、視線の先。
重バ場に足を取られながらも、決して前を見ることをやめず、血を吐くような思いで必死にターフを蹴り続けるジェンティルドンナの姿があった。
彼女は、ひとかけらも諦めていない。男が引いた『限界値』の壁を、今この瞬間も、己の魂を削って叩き割ろうとしている。
(俺は……彼女に、全勝を約束したはずだ)
自身の敗北は許せる。だが、彼女の経歴(キャリア)に、無様な敗北の文字(ノイズ)が刻まれることだけは。
「――っ!!」
次の瞬間。
男は、狂気的に信奉していたはずのタブレット端末を、コンクリートの床へと乱暴に叩きつけた。液晶が砕け散る音など、大観衆の歓声にかき消されて聞こえない。
男はフェンスから身を乗り出し、声を枯らして、ターフを走る絶対女王に向かって叫んだ。
「ジェンティル!! 勝てェェェッ!!!」
それは、論理も、数字も、計算式も全て放り投げた、ただの不格好で、感情的で、ひどく人間臭い『悲鳴』だった。
その聞き慣れた、しかし聞きなれない荒々しい声は、大観衆の声援に掻き消される事は無く。
ターフを走るジェンティルドンナの耳にハッキリと届いた。
(……え?)
極限の集中状態の中、彼女は視線だけで声のした方角を捉えた。そこにいたのは、いつも無表情でストップウォッチを眺めている、あの冷徹な氷の男ではない。髪を振り乱し、フェンスを握りしめ、顔をくしゃくしゃに歪ませて、必死に自分に手を伸ばす、一人の男の姿だった。
(……ああ)
その、あまりにも不格好で、必死な顔を見た瞬間。ジェンティルドンナの胸の奥底で、何かが弾けた。
(なんて不完全で……余裕のない、無様な顔)
彼女の唇が、極限の疲労の中で、ふっと吊り上がった。
(そんな顔をなさっては、いけませんわ。私のトレーナー)
貴方は、私の隣で、誰よりもふんぞり返って「計算通りだ」と冷たく笑っていなければならない。
(ああ……貴方にそんな顔をさせてしまったのは、他でもない、私の走りが遅いから)
「……許せませんわね」
ジェンティルドンナの瞳の奥に、冷たい砂漠の夜を焼き尽くさんばかりの、昏く激しい炎が灯った。
リミッター? 限界値? 物理法則?
そんなものは、あの男が理性を投げ打って叫んだ瞬間に、全て燃え尽きたのだ。
「退きなさぁぁぁぁぁぁいッ!!!」
鼓膜を突き破るような女王の咆哮が、メイダンの夜空に轟いた。直後、ジェンティルドンナの身体が、一段深く沈み込む。
それはもはや、走るという表現では足りない。大地を削り岩を砕く、暴力的なまでの『飛翔』だった。
「な、なんだあの加速は!?」
「前との差が、一瞬で……!」
実況が絶叫し、海外の観客たちが悲鳴を上げる。常識ではあり得ない、鬼のような末脚。完全に止まりかけていたはずの足から、底なしのエネルギーが湧き上がり、前のウマ娘たちを文字通り「飲み込んで」いく。
残り50メートル。彼女は先頭のウマ娘に並びかけ、そして、一切の慈悲もなく抜き去った。誰にも背中を追わせない。計算式すら破壊した、純粋なる絶対女王の力の証明。
そのまま、ジェンティルドンナは先頭で、ドバイの栄光のゴール板を駆け抜けた。
◇◇◇
歓喜と熱狂の渦に包まれるメイダンレース場。レース後の地下通路、控え室へと続く仄暗い廊下で、男は立ち尽くしていた。
遠くから、カツッ、カツッと、ゆっくりとした蹄鉄の音が近づいてくる。暗がりから姿を現したのは、ジェンティルドンナだった。
男は、いつものように「ゴール前のフォームのブレが……」と口を開きかけた。だが、言葉は音にならず、喉の奥で詰まった。
彼女の姿を見て、息を呑んだのだ。
「……」
ジェンティルドンナは、壁に手をつきながら、今にも倒れそうな足取りで歩いていた。全身は滝のような汗にまみれ、肩は激しく上下に揺れている。彼女がこれほどまでに消耗し、ボロボロになっている姿を、男は出会ってから一度も見たことがなかった。
それほどまでに、彼女は限界を超えていた。男の狂った方程式のさらに上、文字通り「命を削る」領域まで踏み込んで、自分に勝利を捧げてくれたのだ。
「……ふふっ。どうです……私の、トレーナー」
ジェンティルドンナは、荒い息を吐きながら、壁伝いに男の目の前までやってきた。そして、泥と汗に汚れた顔で、いつものように傲岸不遜に微笑んでみせた。
「貴方の計算式……また、私が壊して……差し上げましたわよ……っ」
強がっているが、その足は小刻みに震えている。
男は、砕けたタブレットを持たない両手を、どうしていいかわからず、微かに宙を彷徨わせた。かけるべき言葉が見つからない。計算外だ。ノイズだ。そんな言葉をかけるのは、今の彼女に対する最大の冒涜だということくらい、彼にだってわかる。
「……ジェンティル」
数秒の沈黙の後。男は、不器用な声で、ただ一言、絞り出すように言った。
「……よく、やった」
それは、数字による評価ではない。
論理的な分析でもない。
ただ、彼女の命懸けの頑張りを真っ直ぐに称える、彼から出た初めての「純粋な感情による称賛」だった。その言葉を聞いて、ジェンティルドンナは目を丸くし、そして、ふにゃりと、本当に心底嬉しそうな顔で破顔した。
「……まあ。氷の完璧主義者様から、そんな言葉が聞ける日が来るなんて……」
彼女は、ズルズルと壁を背にして座り込みそうになるのを堪え、男の胸元にコテン、と額を預けた。男は驚いて身を固くしたが、突き飛ばすことはできなかった。彼女の身体は、火の玉のように熱かった。
「……立っているのも、やっとですわ……」
ジェンティルドンナは、男の胸に顔を埋めたまま、甘えるような、少し掠れた声で呟いた。
「ねえ、トレーナー」
「……なんだ」
「……頭ぐらいは、撫でても減らないのではなくて?」
その言葉に、男は目を見開いた。
絶対的な誇りを持つ彼女が、他者に、それも公の場に近い場所で、そんな子供のような触れ合いを要求するなど、普段ならあり得ないことだ。だが、彼女は今、世界を制した疲労の中で、唯一心を許した「自分の設計者」にだけ、その脆い部分を曝け出している。
男は、小さくため息をついた。
「……全く。非論理的な要求ばかりする」
憎まれ口を叩きながらも。男の震える右手は、ゆっくりと持ち上がり、彼女の汗ばんだ髪へと触れた。
「……っ」
男の手つきは、まるで壊れ物を扱うかのように、ひどくぎこちなく、不器用だった。だが、その温もりは、どんな完璧な計算式よりも確かに、彼女の疲れ切った心を癒やしていった。
「……ええ。とても……心地よいですわ」
ジェンティルドンナは、目を閉じ、男の胸の中で静かに微笑んだ。頭を撫でる不器用な手の感触。それは、世界の頂点という何よりも価値のある称号を手にした彼女にとって、唯一、それと同等か、それ以上に価値のある『極上の褒美』だった。
熱狂冷めやらぬドバイの地下通路。
冷徹な男と絶対女王は、言葉を交わすことなく、ただ互いの存在の熱を確かめ合うように、静かに寄り添い続けていた。