三年目。シニア級、12月。
街が煌びやかなイルミネーションと聖歌のメロディに包まれる、クリスマス・イブの夜。
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ジェンティルドンナの覇道は、シニア級においても圧倒的であり続けた。
ドバイでの圧巻の力証明から始まったそれは、宝塚記念連覇、そして秋のジャパンカップ連覇へと続く。一切の死角を削ぎ落とされた絶対女王は、いよいよ数日後に控えた総決算、有マ記念に向けて、かつてないほどの鋭いモチベーションを保っていた。
そんな極限の闘気の中にありながらも、今宵ばかりは、彼女も一人の淑女として極上の時間を満喫していた。
「……現在の外気温は2.4度。だが、このVIPルームの室温は、お前の基礎代謝と現在の心拍数から逆算し、最も筋肉が弛緩しリラックスできる23.8度に設定させてある。湿度は55パーセント。乾燥による喉へのダメージはゼロだ」
都内でも一握りの特権階級しか足を踏み入れることの許されない、超高級フレンチレストランの最上階。窓の外には、雪化粧を始めた東京の夜景が宝石箱のように広がっている。その特等席で、男はいつも通り、微塵の狂いもない完璧なスーツ姿でタブレットの画面をスワイプしていた。
「メインの蝦夷鹿のローストは、脂質を極限まで抑えつつ、お前の好む赤身の旨味を最大限に引き出すために真空低温調理を施させている。ソースの塩分濃度も、明日の最終追い切りにおける発汗量を加味して0.1パーセント単位で調整済みだ」
「ふふっ。相変わらず、ムードもへったくれもない料理説明ですこと」
ジェンティルドンナは、クリスタルのグラスに入った微炭酸のミネラルウォーターを揺らしながら、クスクスと笑い声を漏らした。彼女が身を包む深紅のイブニングドレスは、この夜のために誂えられた最高級品だ。
「ムードなどという数値化できない曖昧な概念は、俺の計算式には不要だ」
「あら、そう? でも私にとっては、貴方がそうやって私の細胞一つ一つのコンディションまで偏執的に気を配ってくれることこそが、どんな甘い愛の囁きよりもロマンチックな『エスコート』ですわよ?」
男は小さく鼻を鳴らしたが、その耳の端が僅かに赤みを帯びているのを、ジェンティルドンナは見逃さなかった。
シニア級のクリスマス。それは、多くのウマ娘にとって「現役生活の終わり」を意識し始める時期でもある。
有マ記念を終えれば、彼女のターフでの物語は一つの区切りを迎えるかもしれない。だが、彼女の瞳に不安や寂しさは一切なかった。なぜなら、自分の横には常に、この異常なまでに頼もしい「設計者」がいるからだ。
食事が終わり、ギャルソンが完璧なタイミングで食後の紅茶(当然、温度と抽出時間は男の計算通りに完璧に管理されている)を運んできた時のことだった。
芳醇なダージリンの香りが立ち上る中、ジェンティルドンナはソーサーにカップを置き、ふと、思いついたように口を開いた。
「ねえ、トレーナー」
「なんだ。紅茶の温度に不備があったか」
「いいえ、完璧ですわ。……ただ、少し個人的な質問をしたくなりまして」
ジェンティルドンナは、頬杖をつき、揺らめくキャンドルの光越しに男の顔を真っ直ぐに見つめた。
「貴方、現在お付き合いしている『パートナー』はいらして?」
カチャリ、と。男の手から、ティースプーンが滑り落ち、ソーサーに当たって小さな音を立てた。
常に1ミリのブレも許さず、いかなる時も冷静沈着な男の動きが、完全に停止した。彼の脳内で処理を続けていた巨大な計算式が、突如として放り込まれた『非論理的かつ極大の変数』によってショートを起こしたのだ。
「……は?」
「聞こえませんでしたの? 貴方のプライベートにおける、特定のパートナーの有無を尋ねているのです」
男は、数秒間、瞬きすら忘れてジェンティルドンナの顔を見つめ返した。やがて、喉仏を上下に動かし、ひどく硬い声で答えた。
「……いない。俺の人生のメモリは、数年前からお前という規格外の怪物のデータを処理するだけで完全にパンクしている。他の人間の入り込む余地など、1バイトたりとも存在しないと、以前も言ったはずだ」
「ええ、聞いておりますわ」
ジェンティルドンナは、満足げに微笑んだ。そして、さも当然の権利を主張するように、傲岸不遜な女王の顔で堂々と宣言した。
「ならば、私のパートナーになりなさい」
「……っ」
「私の覇道は、有マ記念で頂点を極めます。ですが、ジェンティルドンナという個体の人生はそこで終わるわけではありません。……むしろ、そこから先こそが本番。私が生涯を通じて『完璧な女王』であり続けるためには、貴方という絶対的な金床(アンビル)が、これからも必須なのです」
ジェンティルドンナは、夜景よりも眩い瞳で男を射抜いた。
「それに、お父様からの覚えも大変よろしいですしね。『あの狂人を逃す手はない』と、折に触れて念を押されておりますのよ」
かつて、絶対的な権力者である父親のネクタイのズレを指摘し、大笑いさせたあの日の記憶。彼女の背後には、もはや何一つ障害は存在しない。
あとはただ、この男の首に永遠の首輪をかけるだけ。
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男は、大きく息を吸い込み、そして、深く吐き出した。
彼はゆっくりとタブレットの電源を落とし、デスクの端に置いた。そして、呆れたような、しかしどこか諦めと極上の喜悦が入り混じったような表情で、ジェンティルドンナを見据えた。
「……お前というやつは。本当に、俺の計算の『上』を行くことしかしない」
「それが私の役割ですから。で、ご返答は?」
「断る理由など、最初から存在しない」
男は立ち上がった。
「だがな、ジェンティル」
彼は、自らのスーツの襟元を正し、ネクタイの結び目をミリ単位で調整しながら、彼女の座る席の横へと静かに歩み寄った。
「こういう重要な契約には、踏むべき手順というものがある」
「……手順?」
ジェンティルドンナが面白そうに首を傾げた、次の瞬間。
男は、彼女の目の前で、音もなく片膝を突いた。
まるで、絶対君主に忠誠を誓う中世の騎士のように。
あるいは、女神に祈りを捧げる熱狂的な信徒のように。
「と、トレーナー……?」
流石のジェンティルドンナも、この突然の行動には目を丸くした。プライドの塊であり、誰にも屈することのないあの完璧主義者の男が、自分の足元に跪いているのだ。
男は、ジェンティルドンナの右手をそっと取り、その白い手の甲に、自身の額を押し当てた。
そして、静かなVIPルームの空気を震わせる、重く、熱を帯びた声で口を開いた。
「……俺は、狂っている」
男は顔を上げ、ジェンティルドンナの瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「ウマ娘を愛するのではなく、お前が体現する『完璧な物理法則』を愛してきた」
そこには、数字も計算式もない。
「お前の走る姿に、お前の存在そのものに、俺の人生の全てを狂わされた」
ただ一人の男としての、剥き出しの強烈な感情だけが燃え盛っていた。
「だからこそ、これは俺からの要求だ。……ジェンティルドンナ。お前のこれからの人生に発生する、ありとあらゆる悲しみ、苦痛、不快感。それら全ての『ノイズ』を、俺に排除させろ」
それは、甘い愛の言葉などではない。彼にしか言えない、極限まで研ぎ澄まされた、狂気的なまでの愛の告白だった。
「お前が生きる世界を、俺が計算し尽くし、完璧に整頓してやる。お前がただ微笑み、ただ気高く君臨し続けられるように、俺の生涯の全てを懸けて、お前という存在をエスコートし続ける」
男は、ジェンティルドンナの手を強く、しかし絶対に壊さない力で握りしめた。
「俺を、お前の生涯のパートナーとして専属契約しろ。……他の誰にも、お前の1ミリのズレすら触れさせない。お前の完璧を証明できるのは、この世界で俺だけだ」
息を呑むような、絶対的な誓い。ジェンティルドンナは、跪く男の真っ直ぐな瞳から、目を逸らすことができなかった。
(……ああ。本当に、この人は)
彼女の胸の奥底で、かつてないほどの熱い感情が込み上げてきた。ドバイで限界を超えた時よりも。三冠を手にした時よりも。
今、この不器用で狂気的な男からの永遠の契約を受けた瞬間が、人生で最も満たされた瞬間であると、彼女の魂が理解したからに他ならない。
彼女の唇に自然と浮かんでいたのは、この世の全てを手に入れた絶対女王の、傲岸不遜で、最高に幸福な笑みだった。
「……全く。どこまで行っても、貴方は貴方ですわね」
彼女は、空いた左手を伸ばし、男の完璧にセットされた髪を、少しだけ乱すように優しく撫でた。
「ええ。承認いたします。……私のこれからの人生の全てを、貴方のその異常な頭脳で、完璧に計算し尽くしてみせなさい。コンマ1秒の退屈すら、許しませんわよ?」
「……ああ。お前の期待値の、常にその上を計算してやる」
男は、ジェンティルドンナの手の甲に、誓いの口付けを落とした。それは、かつて情熱を失った抜け殻の男と、孤高の絶対女王が交わした、永遠の契約の完了を意味していた。
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窓の外では、粉雪が舞い散り、聖夜の街を白く染め上げている。
だが、この完璧に計算された温かい部屋の中だけは、二人の間に結ばれた決して解けることのない極上の絆によって、どんな熱源よりも確かな熱を帯びていた。
「さあ、立ちなさいな、私のパートナー」
ジェンティルドンナは、ハンカチで優雅に目元を拭うと、再び不敵な笑みを浮かべた。
「有マ記念へのモチベーションが、最高潮に達してしまいましたわ。……今の私なら、貴方の計算した限界値など、スタートから3秒で叩き壊せる自信がありますのよ?」
男は立ち上がり、自身のスーツの乱れをサッと整えると、いつもの冷徹な顔に戻ってタブレットを手に取った。
「バカを言え。今のお前の『幸福度』によるドーパミン分泌量の上昇と、それに伴う筋収縮の向上率すら、既に計算に組み込んである。……今週末の有マ記念、後続に何バ身の差をつけるか、完璧な設計図を見せてやる」
「ふふっ、楽しみにしておりますわ!」
聖夜の誓いを経て、二人はついに、名実共に唯一無二のパートナーとなった。
シニア級のクライマックス、有マ記念。
それはもはや、勝つか負けるかの勝負ではない。彼らが紡ぎ上げてきた「狂気的で完璧な関係性」の美しさを、世界に見せつけるための、壮大な戴冠式に過ぎないのだ。