中山レース場を揺るがす、十万人を超える大観衆の地鳴りのような歓声。
冬の冷たい空気を震わせ、実況の張り裂けんばかりの絶叫がターフに響き渡っていた。
■
『――ジェンティルドンナ、先頭! ジェンティルドンナ、先頭! 並み居る強豪を力でねじ伏せた!』
有マ記念。
それは、一年を締めくくる夢の祭典であり、数々の名バたちがターフに別れを告げてきた伝説の舞台。
『前人未到! これが絶対女王の力だ! ジェンティルドンナ、初の中山で! 見事な勝利を飾りました!!』
その歓声の余韻を背に受けながら、ジェンティルドンナは薄暗い地下バ道へとゆっくりと歩みを進めていた。
全身からは白い湯気が立ち昇り、極限まで肉体を使い切った荒い息遣いがコンクリートの壁に反響する。しかし、その表情に疲労の影はなく、ただ全てをやり遂げた絶対女王としての、気高く澄み切った誇りだけが輝いていた。
地バ道の奥。仄暗い影の中に、彼が立っていた。
いつもなら、彼女が戻ってくるなり「第4コーナーの重心が……」とタブレットを突きつけてくるはずの男。
だが、今日の彼の手には、タブレットもストップウォッチも握られていなかった。
彼はただ、両手を真っ直ぐに下ろし、こちらへ歩いてくるジェンティルドンナの姿を、瞬きすら忘れたように見つめていた。
「……終わりましたわ、トレーナー」
ジェンティルドンナは彼の前で立ち止まり、優雅に微笑んだ。男は、ゆっくりと息を吸い込み、そして、静かに口を開いた。
「……完璧だった」
その言葉に、ジェンティルドンナは微かに目を見開いた。
「良かった」でも「凄かった」でもない。彼が最も重んじ、そしてこれまで決して彼女に対して認めることのなかった究極の言葉。
「お前は、完成した」
男の声は、いつもよりずっと低く、そして熱を帯びていた。
「今日のレース……スタートからゴールまでの全ての挙動、ペース配分、そして他者を圧倒する覇気。……俺の計算した『理論上の限界値』と、現実のお前の走りが、1ミリのズレもなく完全に重なり合った」
彼は、一歩、ジェンティルドンナへと近づいた。そして、まるで神が創り出した至高の芸術品を讃えるように、心からの敬意を込めて言った。
「……とても、美しい」
「……」
ジェンティルドンナの胸が、トクン、と大きく鳴った。
彼の言う「完璧」と「完成」。それは、もはやこれ以上、彼が修正すべきノイズが存在しないことを意味している。限界値を超え続け、方程式を破壊し続けてきた彼女が、ついに彼が描ける「究極の設計図」の頂点へと到達してしまったのだ。
答えが出てしまった。完成してしまった。これ以上がない。
「……そう」
ジェンティルドンナは、その事実を静かに噛み締め、ふっと息を吐いた。
「引退、ですわね」
寂しさはない。あるのはただ、全てを完璧に終えられたという絶対的な満足感と、一抹の静寂だけ。
「……ああ」
男は短く答え、そして、ゆっくりと右手を伸ばした。彼の手が、汗に濡れたジェンティルドンナの左手を、そっと包み込むように取る。
「お前はやはり、美しい」
男は、ジェンティルドンナの瞳を真っ直ぐに見つめ返した。そこには、数字も計算式もない。ただ一人の男としての、剥き出しの強烈な感情だけが燃え盛っていた。
「ただ数字とノイズしか見えていなかった、俺の灰色の世界に……お前が、色をくれた」
男は、自身のコートのポケットから、小さなベルベットの箱を取り出した。パカリ、と開かれた箱の中には、計算し尽くされたかのような完璧なカッティングが施された、最高級のダイヤモンドのリングが冷ややかな光を放っていた。
男は、ジェンティルドンナの左手の薬指に、ゆっくりと、そのリングを滑り込ませた。指のサイズから関節の太さまで、0.1ミリの狂いもなく計測し尽くされていたかのように、リングは彼女の薬指に完璧に収まった。
男は、リングの嵌まった彼女の手を両手で強く握りしめ、そして、いつもの無機質な表情を完全に崩し、かつて見せたことのないほど感情的な瞳で彼女を睨みつけた。
「だから……もう、逃がさない」
それは、計算式も論理もかなぐり捨てた、彼という一人の人間の奥底から溢れ出た、不器用で強烈な『独占欲』だった。
ターフの上での完璧な関係が終わったとしても。
世界で最も美しく、最も気高いこの絶対女王を、他の誰の目にも触れさせたくない。自分の人生の全てを懸けて、永遠に自分の手元に置き、愛し続けたい。
狂気的で、不器用で、しかし誰よりも深く重い、誓いの言葉。
ジェンティルドンナは、自分の指で輝くリングと、感情を露わにした彼の顔を見つめ――。
「……」
ゆっくりと、ただ静かに、コクリと頷いた。
余計な言葉はいらない。そのたった一度の頷きに、彼女の生涯を懸けた愛と信頼の全てが込められていた。
遠くから、まだ彼女の勝利を讃える歓声が聞こえてくる。
だが、薄暗い地下バ道に佇む二人の間には、世界中のどんな歓声よりも確かな、永遠に解けることのない極上の静寂が満ちていた。